ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

HAPPY THANKSGIVING!

2009年11月26日 | 家族とわたし
今年もまたまた旦那姉アードリィの家でのThanksgiving。
旦那の両親が住む、同じくペンシルバニア州の家より1時間短いドライブで行けるので、我々にとっては少し楽です。
今日は今遊びに来ているTの親友S君も一緒に5人で、スバルにギュウギュウ詰めになって行きました。
気を利かせてわたしが後部座席の真ん中に座ったのだけど、そこって両側の座席より盛り上がっていて、しかも固い!
大げさに言うと、らくだのこぶの上に乗っかってるような……案の定、帰りの半分ぐらいの所で尾てい骨の辺りが痛くなってきて困りました。
旦那は「ボクは足が長いから、後部座席には座れませぇ~ん」とはじめっから座る気無し。
でも、久しぶりに、TとKにぴったり挟まれて座っているのが、なんだか嬉しい母なのでありました。
ヤツらは狭いだの暑いだの、もうちょっと向こうに行けへんかだの、おまけに旦那は、「ちょっとそのビッグヘッド、ど真ん中で全然後ろが見えへん!」
え~え~どうせわたしゃ五頭身ですよ!松井選手もまっつぁおなデカ頭っすよ!

T&Kは爆笑、S君は慌てて「いや、でも、デカい頭だと脳みそもデカいはずだから、きっと頭がいいってことですよ
火に油を注ぐってのはそ~ゆ~ことを言うねん!と、三人の頭にゲンコツをお見舞いしてあげました。

皆で美味しく感謝祭料理をいただき、旦那母の音頭で乾杯をしました。
「皆でこうしてまた揃って感謝祭を迎えられたこと、そしてTが2000年にアメリカにやってきて、猛烈な努力の結果、あと3週間で大学の卒業を迎えることに感謝して」
胸がジンとしました。来月の18日の卒業式は、Tの23才の誕生日でもあります。
旦那の両親と旦那姉も、ホテルに1泊までして、遠くヴァージニアでの卒業式に参加してくれる予定になっています。
この国に生まれ育った者でさえ卒業するのが難しいと言われているTの大学のエンジニア科は、とりあえず最後までくじけずに残ったことだけでも大したもんだとよく言われます。
2年生のはじめに、心身ともに弱り切り、話すことも寝ることもままならず、食べさせようにもすぐに吐いてしまうTを見て愕然としたあの日。
事の発端はネットゲーム。世界中にいる、そのゲームの愛好者がバーチャルでグループを作り、時間制限無しでやりたい放題。
本当に恐ろしい、やっている当人が止めた方がいいと思っていてもなかなかやめることができないゲームなのでした。
ゲーム全部を非難するつもりは毛頭無いけれど、ついついゲームに熱中してしまうあまりに睡眠のサイクルが無茶苦茶になり、起きなければならない時間に起きられなかったり、食べられなかったり、トイレにさえも行けなかったり、外から見たらもう完全に異常な世界です。
これで身体に支障が出ないはずがありません。もちろん大学の授業やテストにもうっかりが出て、それで成績もどんどん落ちて、それがどうしてか分かっているだけにさらに落ち込む。
その悪循環から抜け出せなくてもがいていたのでした。

あの頃は毎晩彼に話しかけました。電話は嫌がるので、一方的なe-mailで。
返事は来なかったけれど、読んでくれていると信じて。

ゲームから足を洗った後、Tは生まれ変わったように、すっきりとした顔で、また大学生に戻りました。
今は卒業を目前にしたプロジェクトを必死に仕上げようと頑張っています。
ついさっき、今の今まで全くうまく進んでいなかったプログラミングが、あともう一歩というところまで来たらしく、めちゃくちゃ嬉しそうです。
その成果が出ているパソコンの画面をわたしにも見せてくれるのだけど、残念ながらチンプンカンプンでさっぱり分かりません。

旦那と英語を、深いところで拒絶し続けてきたT。
けれども彼の優しさが、それを無理矢理心の中に押し込んで、それでもっともっと苦しくなって、けれどもやっぱり本当の気持ちを外になかなか出せなかったT。
わたしが母親だったばっかりに、もしかしたら経験しなくても済んだ長い長い間の貧乏と、そこから派生するたくさんの辛いことを経験させられた子だけど、
それだからこそ、その分強く、優しく、深く思い遣れる男になってくれたと信じたいです。

感謝祭の日に、横道にそれることなく健康に成長してくれたTとK、そんな彼らをいつも見守ってくれているすべての人達に、心から感謝したいと思います。


ちょっと長いP.S.
Tが、昨日のお客さま、近所に住む80才のボブと、なにやら話し込んでいました。ボブは耳が遠くなったとはいえ、若い頃は原子力発電所の建設事業に取り組む若きエンジニアとして、日本にも頻繁に行っていた技術者さん。
なので、同じくエンジニアを目指すTとは話が合うのか、我々には分からない言葉でふたりで盛り上がっていました。
Kも、自分の周りに座った英語人の大人達と楽し気に歓談しています。

彼らの口から英語が出てくるようになったのは、ほんのここ数年のことです。
覚悟を決めてわたしと一緒になったものの、26才になったばかりの旦那は幼児の扱いに慣れていなくて、というか、分からなくて、
好きになろうと近寄っていくTとKを邪険に扱ったり、「ボクに触らないでくれ!」と拒絶したりして、息子達はすっかりがっかりしてしまったのでしょう。
それなら僕たちもと、表向きは普通にできる知恵と思いやりがあったけれど、大小関わらず何か問題が起こると、完全な拒絶と反抗を示したものです。
それらの中の、一番長く続いたのが、英語でした。

わたしには彼らの気持ちも本当によく分かったので、どちらの痛みにも深く同情してしまい、どっちもつかずの、両方の風に揺られるのれんのような存在でした。
日本に居た頃から、せめて英語に親しんでもらおうと、夏休みの間、アメリカのキャンプに入れようということになって、
愚図るTとKを無理矢理キャンプ場に送り込み、置き去りにされる彼らの目も、置き去りにするわたしの目も、涙でいっぱいになっていました。
楽しいことなどほとんど無く、同室の子供達から執拗に意地悪されて、恐くてどこにも行けず、シャワーにも入らず、
迎えに行った時のTとKは、薄汚い垢にまみれ、あちこちにかさぶたを作り、へとへとに疲れ切った悲しい姿をしていました。

日本で8年、こちらで7年半、状態はあまり進展せず、待つ方の我々も少々あきらめが出かけていた頃、とうとうTが家でも英語を話し始めました。
Kはもう少し早く、高校の2年生あたりから拒絶しなくなっていたので、このTの心(英語)の解放は最後の砦だったのでした。

そんな彼らを、せっつかず、あきらめもせず、いつかきっと英語で語り合える日が来ることを信じて待っていてくれた旦那、そして旦那の両親。
昨日、息子達がみんなに打ち解けて、楽しそうに、時には真剣に、大人の会話をしているのがとても嬉しかったです。
眠る前、キャンプ場での、彼らの垢まみれの悲しい顔を思い出して、ひとり感慨にふけっていたわたしでした。
コメント (4)
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