イタリアのとある場所で、LaPianaという名のピアノ会社が1985年に造った、世界にたった10台しかないピアノ。
どういう事情があったのかは分かりませんが、この会社は10台のピアノを造った後消えてしまったのだそうです。
鍵盤のあちこちにひびが入っているし(弾いていると全く気にならない程度)、本体の端っこにも傷がついてたりするけれど、
タイソンが言っていた通り音色の幅がとても広くて、特に低音域の響きが重厚で美しいピアノでした。
ショパンを少し弾きました。
息子カルロス氏を二ヶ月前に失い、ピアノのすぐそばのソファにポツンと座っておられたおかあさんが、わたしの方に向き、拍手をしてくださいました。
「息子が帰ってきてくれたみたいだ」
スペイン語しか話せない彼女の言葉を、孫娘のブランカが通訳してくれました。
ピアノは造られて17年目が最盛期で、それ以降は降下の一途をたどるのだそうで、それから考えるととっくに最盛期は過ぎています。
高音部の響きは尋常でないほどスモーキーで(多分アパートメント用に抑えられてあると思いますが)、調律で変えられるのかどうか不明です。
内部のピンやボードには埃がたまり、24年間、ピアニストの練習に耐えた様子がありありと見えます。
でも、なぜだか温かく、静かに、わたしのことを抱きしめてくれているような気がしてなりませんでした。
弾き終わって立ち上がり、もう一度ピアノをぐるりと見て、旦那と顔を見合わせました。
気に入ったという意思表示をし過ぎないように。
行きの車の中で、旦那から釘を刺されていたので、わたしは極力気をつけていました。
7フィートのグランドピアノが、中古とはいえ、3500ドルはとても買い得な価格ですが、旦那はできたらもう少し交渉しようと思っていました。
「どう?」と聞かれて「気には入ったけど……」と答えると、ブランカの方に振り向き、「買おうと思いますがいくらですか?」と突然切り出しました。
ブランカは、「はじめ5000ドルで売りに出したのだけど、それではうまくいかなくて4000ドルまで下げました」と言います。
「え?我々は3500ドルだと聞いてきたんだけど」と旦那。
「タイソンからそう聞いたんですが」とわたし。
「その後に数人の方がこのピアノを見に来てくれて……」とブランカ。
「タイソンがここに来てくれた2週間前の時点では、それぐらいでもいいと思っていたんだけど……。でも、あなたのショパンを聞いて、わたしはぜひ、あなたのような人に叔父のピアノを受け継いでもらいたいと強く思っています。ただ、3500ドルはちょっと……」
黙ってしまったわたし達。
「他にもオファーが数件あって、その中のひとりが3800ドル出してもいいと言ってくれているので……」と、とても心苦しそうに切り出したブランカ。
再び黙ったまま互いに見つめ合うわたし達。
「じゃ、3900ドル出します。それでどうですか?」
旦那がいきなりそう言い出したのを聞いて、え?え?え?本気で言うてんの?とオロオロするわたし。
「う~ん、ちょっと祖母に尋ねてみます。このお金は祖母が祖国ペルーに戻って生きるために必要なものなので」
5階のアパートの窓からクレーンでピアノを搬出し、地上に降ろすだけで800ドルかかります。そこからニュージャージーまで運搬するのにあと100ドル。
結局5000ドルもの出費になってしまうこのピアノ。わたしは嬉しいような申し訳ないような、複雑な思いで心の中がいっぱいになっていました。
お別れの挨拶をしようとおかあさんの所に行き、両手を差し出すと、彼女は涙ぐみながら、わたしをぎゅうっと長いこと抱きしめてくれました。
「息子のピアノ、どうぞお願いですから大切にしてくださいね」
スペイン語でそうつぶやいたおかあさんの哀しみが、彼女の体温に溶けてわたしの心の中に伝わってきました。
「そうだ、あなたに息子が使っていたピアノの本を全部あげましょう。それからCDも。いくら懐かしい物でも、わたしが持っていても仕方が無い物ばかりだから」と、真顔でうんうんとうなづきながら言うおかあさん。
カルロスさん、あなたが愛した、あなたの思いがしみ込んだピアノ、わたしが続けて使わせてもらうことになりました。
大切に、感謝の気持ちと愛情を込めて弾かせていただきます。ありがとう!
故カルロス氏のアパートメントがあるハウストンストリートに向かう途中、落ち着かない気分を持て余して撮ったリンカーントンネル直前のスロープの上から。パナソニックとトヨタの巨大な看板が並んでいます。
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いよいよ彼のアパートメントが近づいてきた、ウェストサイドハイウェイから見えた、美しい夕焼け。
どういう事情があったのかは分かりませんが、この会社は10台のピアノを造った後消えてしまったのだそうです。
鍵盤のあちこちにひびが入っているし(弾いていると全く気にならない程度)、本体の端っこにも傷がついてたりするけれど、
タイソンが言っていた通り音色の幅がとても広くて、特に低音域の響きが重厚で美しいピアノでした。
ショパンを少し弾きました。
息子カルロス氏を二ヶ月前に失い、ピアノのすぐそばのソファにポツンと座っておられたおかあさんが、わたしの方に向き、拍手をしてくださいました。
「息子が帰ってきてくれたみたいだ」
スペイン語しか話せない彼女の言葉を、孫娘のブランカが通訳してくれました。
ピアノは造られて17年目が最盛期で、それ以降は降下の一途をたどるのだそうで、それから考えるととっくに最盛期は過ぎています。
高音部の響きは尋常でないほどスモーキーで(多分アパートメント用に抑えられてあると思いますが)、調律で変えられるのかどうか不明です。
内部のピンやボードには埃がたまり、24年間、ピアニストの練習に耐えた様子がありありと見えます。
でも、なぜだか温かく、静かに、わたしのことを抱きしめてくれているような気がしてなりませんでした。
弾き終わって立ち上がり、もう一度ピアノをぐるりと見て、旦那と顔を見合わせました。
気に入ったという意思表示をし過ぎないように。
行きの車の中で、旦那から釘を刺されていたので、わたしは極力気をつけていました。
7フィートのグランドピアノが、中古とはいえ、3500ドルはとても買い得な価格ですが、旦那はできたらもう少し交渉しようと思っていました。
「どう?」と聞かれて「気には入ったけど……」と答えると、ブランカの方に振り向き、「買おうと思いますがいくらですか?」と突然切り出しました。
ブランカは、「はじめ5000ドルで売りに出したのだけど、それではうまくいかなくて4000ドルまで下げました」と言います。
「え?我々は3500ドルだと聞いてきたんだけど」と旦那。
「タイソンからそう聞いたんですが」とわたし。
「その後に数人の方がこのピアノを見に来てくれて……」とブランカ。
「タイソンがここに来てくれた2週間前の時点では、それぐらいでもいいと思っていたんだけど……。でも、あなたのショパンを聞いて、わたしはぜひ、あなたのような人に叔父のピアノを受け継いでもらいたいと強く思っています。ただ、3500ドルはちょっと……」
黙ってしまったわたし達。
「他にもオファーが数件あって、その中のひとりが3800ドル出してもいいと言ってくれているので……」と、とても心苦しそうに切り出したブランカ。
再び黙ったまま互いに見つめ合うわたし達。
「じゃ、3900ドル出します。それでどうですか?」
旦那がいきなりそう言い出したのを聞いて、え?え?え?本気で言うてんの?とオロオロするわたし。
「う~ん、ちょっと祖母に尋ねてみます。このお金は祖母が祖国ペルーに戻って生きるために必要なものなので」
5階のアパートの窓からクレーンでピアノを搬出し、地上に降ろすだけで800ドルかかります。そこからニュージャージーまで運搬するのにあと100ドル。
結局5000ドルもの出費になってしまうこのピアノ。わたしは嬉しいような申し訳ないような、複雑な思いで心の中がいっぱいになっていました。
お別れの挨拶をしようとおかあさんの所に行き、両手を差し出すと、彼女は涙ぐみながら、わたしをぎゅうっと長いこと抱きしめてくれました。
「息子のピアノ、どうぞお願いですから大切にしてくださいね」
スペイン語でそうつぶやいたおかあさんの哀しみが、彼女の体温に溶けてわたしの心の中に伝わってきました。
「そうだ、あなたに息子が使っていたピアノの本を全部あげましょう。それからCDも。いくら懐かしい物でも、わたしが持っていても仕方が無い物ばかりだから」と、真顔でうんうんとうなづきながら言うおかあさん。
カルロスさん、あなたが愛した、あなたの思いがしみ込んだピアノ、わたしが続けて使わせてもらうことになりました。
大切に、感謝の気持ちと愛情を込めて弾かせていただきます。ありがとう!
故カルロス氏のアパートメントがあるハウストンストリートに向かう途中、落ち着かない気分を持て余して撮ったリンカーントンネル直前のスロープの上から。パナソニックとトヨタの巨大な看板が並んでいます。
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いよいよ彼のアパートメントが近づいてきた、ウェストサイドハイウェイから見えた、美しい夕焼け。
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