今年の夏から、うちにピアノを習いに来てくれるようになった、わたしと同い年ぐらいの男性R氏。
R氏は、彼のパートナーW氏が初心者としてわたしのところで習い始め、メキメキと楽しそうに上達していくのを間近で見ていました。
W氏は、「Rはね、ほんとはボクなんかよりメチャクチャうまくピアノが弾けるんだよ。でも、条件があって、人が同じ部屋にいると駄目なんだ。ボクでさえ許してもらえないんだ」と、とても残念そうに、何度もわたしに話してくれていました。
その、なにがなんでも独り弾きのR氏が、なんとこの夏、「ちょっと試しにやってみようと思う」と言って、わたしの家を訪ねて来てくれました。
嬉しいやらびっくりするやら、でも、どうして人が同じ部屋に居るとイヤなのか、それがとても気になるところです。
そこで、彼に、まず尋ねてみることにしました。
「ボクは、本当にピアノを愛しているよ。弾いている時は、それがうまく行かない時でもちっとも辛くない。楽しくて仕方が無いんだ」
でも……。
でも?
彼の父親が、当時高校生だった息子のピアノ演奏を誰彼なしに披露したがって、充分に弾きこなせていようがいまいがおかまいなしに、そして彼の意向も望みも聞かないまま、ただただ人を家に呼んで、彼に無理矢理演奏をさせたのだそうです。それも、半端じゃない回数を。
そのことがとても彼を傷つけ、殻の中に閉じ込め、ピアノだけに限らず、彼を全く理解しようとしなかった父親への怒りとなってしまいました。
そしてなんと、30年もの年月の間、哀しく、閉ざされた薄暗い心の奥の特別な部屋の中に、彼のピアノは置き去りになっていたのです。
レッスン初日、わたしは隣の部屋で聞きました。次の日は同じ部屋の隅っこで、また次の日は少しだけ近づいて……。
夏のバカンスを利用して、R氏自らが『ピアノブートキャンプ』と命名したレッスンに、彼は毎日通って来てくれました。
夏が過ぎた頃には、わたしはもうすっかりいつもの位置(ピアノの角っこ)に立ち、一緒に楽譜を読めるようにまでになりました。
身体の余計な緊張も、イヤな汗もかかなくなり、かなりリラックスできてきたので、ショパンのプレリュードからの簡単な曲も始めました。
するとR氏、「バッハが前々から弾きたかったんだ」と言い出しました。
バッハか……とわたし。無言でしばらく考え込んでしまいました。
「ダメなの?ボクなんかはまだ弾かせてもらえないの?」とR氏。
彼は長い長い間、人前ではすっかり弾けなくなった自分にがっかりしながら、まったくの自己流で、好きなようにピアノを弾いてきた人です。
自己流の弾き方が長ければ長いほど、ちゃんと楽譜を読み、理解し、それを実際に音にして自分の世界を築き上げていくという、とても根気の要る、時間のかかる作業経験が無いままの状態が長かったということになります。
バッハは、ある程度ピアノが弾けるようになると、必ず勉強することになる作曲家だけど、最初にバッハの曲を弾き始めた時の、脳自身が感じる、なんともいえない、分裂してしまったような違和感と抵抗感は、誰にも覚えがあると思います。
彼の楽譜に書かれている音にはすべて、血の通った命が宿っていて、それを1音たりともおろそかに扱うと、そこで彼の音楽は終わってしまいます。
左手は伴奏、右手はメロディーというパターンに慣らされた指と脳は、どこもかしこもメロディーという恐ろしい現実に出会い、
今までの常識も通じなくなり、たちまち自信を無くし、新しい練習法を探る面倒さも伴って、いっぺんにピアノが弾きたくなくなってしまう子供が少なくありません。
そんなこともあって、R氏にバッハを始めてもいいと言うかどうか、わたしはかなり迷いましたが、懸けてみることにしました。
インヴェンションの2声の1番。”ドレミファレミドで始まる、とっても有名な曲です。
今日で3回目。音符はともかく、指使いの番号を絶対に無視しない。どうしても変えたい部分は変えてもいいから記入するよう伝えました。
バッハの指使いは命綱です。よほどの天才でない限り、書かれた指使いがどうしてその番号なのか、その理由を知ることが必要です。
その理由を考えることによって、フレーズがどこからどこまで生きているのか、歌い始めの音と歌い終わりの音はどれかなどが見えてきます。
それが見えてきて初めて、やっとバッハの曲の練習のスタートラインに立つことができるのです。
ところが……R氏はなにがなんでも両手で弾きたい。このテンポで弾きたい。弾きたい弾きたい弾きたい!なのでした……。
「R、弾きたい気持ちはわかるし、音はそれなりに読めてるよね。でもね」
わたしが彼に話しかけている間も、彼は弱い音でテーマの部分を弾き続けています。
「R、わたしは今、あなたに伝えたいことがあって話しかけているんだよ。なのにあなたはピアノを弾いてる。それってどういうこと?」
「わかってるわかってる」I know, I know が口癖の彼。
「ううん、あなたはわかってない。そしてわたしの話を聞こうとしない。そして、あなた自身のピアノの音も聞こうとしない!」
とうとう言ってしまいました。
彼は、ほんの3ヶ月前まで、自分のピアノの音なんて聞く必要が無かったんです。聞こえてはいたのだろうけれど、注意深く聞いて、こんな音でいいのか、この長さは充分なのか、この響きは美しいのか、なんてことはどうでもよくて、ただただ、こういう曲が弾けた、あ、これもまた弾けた、それでよかったんです。
今日は時間をかけて、できるだけ柔らかく、穏やかに、ピアノを弾く、それもバッハを弾くということは、自分からもうひとりの自分を離し、音ひとつひとつの色、指一本一本の動き、一音またはフレーズごとの心の流れなどを、きちんと見て聞くことだと話しました。
それは結局は、とても深いところの自分を、じっくりと見つめ、心を開き、解放することにつながるのだと。
バッハを始める前に、途方も無い面倒なことになるよ、とわたしから警告されていたことを思い出したR氏。
「でもボクは、もう戻りたくないんだ。だから前に進むよ。辛くても頑張れると思う」そう言って、笑顔を見せてくれたR氏。
久しぶりに、バッハを真剣に考えた日になりました。
R氏は、彼のパートナーW氏が初心者としてわたしのところで習い始め、メキメキと楽しそうに上達していくのを間近で見ていました。
W氏は、「Rはね、ほんとはボクなんかよりメチャクチャうまくピアノが弾けるんだよ。でも、条件があって、人が同じ部屋にいると駄目なんだ。ボクでさえ許してもらえないんだ」と、とても残念そうに、何度もわたしに話してくれていました。
その、なにがなんでも独り弾きのR氏が、なんとこの夏、「ちょっと試しにやってみようと思う」と言って、わたしの家を訪ねて来てくれました。
嬉しいやらびっくりするやら、でも、どうして人が同じ部屋に居るとイヤなのか、それがとても気になるところです。
そこで、彼に、まず尋ねてみることにしました。
「ボクは、本当にピアノを愛しているよ。弾いている時は、それがうまく行かない時でもちっとも辛くない。楽しくて仕方が無いんだ」
でも……。
でも?
彼の父親が、当時高校生だった息子のピアノ演奏を誰彼なしに披露したがって、充分に弾きこなせていようがいまいがおかまいなしに、そして彼の意向も望みも聞かないまま、ただただ人を家に呼んで、彼に無理矢理演奏をさせたのだそうです。それも、半端じゃない回数を。
そのことがとても彼を傷つけ、殻の中に閉じ込め、ピアノだけに限らず、彼を全く理解しようとしなかった父親への怒りとなってしまいました。
そしてなんと、30年もの年月の間、哀しく、閉ざされた薄暗い心の奥の特別な部屋の中に、彼のピアノは置き去りになっていたのです。
レッスン初日、わたしは隣の部屋で聞きました。次の日は同じ部屋の隅っこで、また次の日は少しだけ近づいて……。
夏のバカンスを利用して、R氏自らが『ピアノブートキャンプ』と命名したレッスンに、彼は毎日通って来てくれました。
夏が過ぎた頃には、わたしはもうすっかりいつもの位置(ピアノの角っこ)に立ち、一緒に楽譜を読めるようにまでになりました。
身体の余計な緊張も、イヤな汗もかかなくなり、かなりリラックスできてきたので、ショパンのプレリュードからの簡単な曲も始めました。
するとR氏、「バッハが前々から弾きたかったんだ」と言い出しました。
バッハか……とわたし。無言でしばらく考え込んでしまいました。
「ダメなの?ボクなんかはまだ弾かせてもらえないの?」とR氏。
彼は長い長い間、人前ではすっかり弾けなくなった自分にがっかりしながら、まったくの自己流で、好きなようにピアノを弾いてきた人です。
自己流の弾き方が長ければ長いほど、ちゃんと楽譜を読み、理解し、それを実際に音にして自分の世界を築き上げていくという、とても根気の要る、時間のかかる作業経験が無いままの状態が長かったということになります。
バッハは、ある程度ピアノが弾けるようになると、必ず勉強することになる作曲家だけど、最初にバッハの曲を弾き始めた時の、脳自身が感じる、なんともいえない、分裂してしまったような違和感と抵抗感は、誰にも覚えがあると思います。
彼の楽譜に書かれている音にはすべて、血の通った命が宿っていて、それを1音たりともおろそかに扱うと、そこで彼の音楽は終わってしまいます。
左手は伴奏、右手はメロディーというパターンに慣らされた指と脳は、どこもかしこもメロディーという恐ろしい現実に出会い、
今までの常識も通じなくなり、たちまち自信を無くし、新しい練習法を探る面倒さも伴って、いっぺんにピアノが弾きたくなくなってしまう子供が少なくありません。
そんなこともあって、R氏にバッハを始めてもいいと言うかどうか、わたしはかなり迷いましたが、懸けてみることにしました。
インヴェンションの2声の1番。”ドレミファレミドで始まる、とっても有名な曲です。
今日で3回目。音符はともかく、指使いの番号を絶対に無視しない。どうしても変えたい部分は変えてもいいから記入するよう伝えました。
バッハの指使いは命綱です。よほどの天才でない限り、書かれた指使いがどうしてその番号なのか、その理由を知ることが必要です。
その理由を考えることによって、フレーズがどこからどこまで生きているのか、歌い始めの音と歌い終わりの音はどれかなどが見えてきます。
それが見えてきて初めて、やっとバッハの曲の練習のスタートラインに立つことができるのです。
ところが……R氏はなにがなんでも両手で弾きたい。このテンポで弾きたい。弾きたい弾きたい弾きたい!なのでした……。
「R、弾きたい気持ちはわかるし、音はそれなりに読めてるよね。でもね」
わたしが彼に話しかけている間も、彼は弱い音でテーマの部分を弾き続けています。
「R、わたしは今、あなたに伝えたいことがあって話しかけているんだよ。なのにあなたはピアノを弾いてる。それってどういうこと?」
「わかってるわかってる」I know, I know が口癖の彼。
「ううん、あなたはわかってない。そしてわたしの話を聞こうとしない。そして、あなた自身のピアノの音も聞こうとしない!」
とうとう言ってしまいました。
彼は、ほんの3ヶ月前まで、自分のピアノの音なんて聞く必要が無かったんです。聞こえてはいたのだろうけれど、注意深く聞いて、こんな音でいいのか、この長さは充分なのか、この響きは美しいのか、なんてことはどうでもよくて、ただただ、こういう曲が弾けた、あ、これもまた弾けた、それでよかったんです。
今日は時間をかけて、できるだけ柔らかく、穏やかに、ピアノを弾く、それもバッハを弾くということは、自分からもうひとりの自分を離し、音ひとつひとつの色、指一本一本の動き、一音またはフレーズごとの心の流れなどを、きちんと見て聞くことだと話しました。
それは結局は、とても深いところの自分を、じっくりと見つめ、心を開き、解放することにつながるのだと。
バッハを始める前に、途方も無い面倒なことになるよ、とわたしから警告されていたことを思い出したR氏。
「でもボクは、もう戻りたくないんだ。だから前に進むよ。辛くても頑張れると思う」そう言って、笑顔を見せてくれたR氏。
久しぶりに、バッハを真剣に考えた日になりました。