ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

水俣と福島に共通する10の手口

2012年03月09日 | 日本とわたし
毎日新聞・東京夕刊にて、2012年2月27日に掲載された記事を紹介します。

特集ワイド:かつて水俣を、今福島を追う アイリーン・美緒子・スミスさんに聞く


◇共通する「責任逃れ」「曖昧な情報流し」 繰り返してほしくない「被害者の対立」

「福島第1原発事故は水俣病と似ている」と語るのは、写真家ユージン・スミスさん(78年死去)と共に水俣病を世界に知らしめたアイリーン・美緒子・スミスさん(61)だ。
今回の原発事故と「日本の公害の原点」との共通点とは何なのか。
京都を拠点に約30年間、脱原発を訴えてきたアイリーンさんに聞いた。【小国綾子】

「不公平だと思うんです」
原発事故と水俣病との共通点について、アイリーンさんが最初に口にしたのは、国の無策ではなく「不公平」の3文字だった。

「水俣病は、日本を代表する化学企業・チッソが、石油化学への転換に乗り遅れ、水俣を使い捨てにすることで金もうけした公害でした。
被害を水俣に押しつける一方、本社は潤った。
福島もそう。
東京に原発を造れば、送電時のロスもないのに、原発は福島に造り、電力は東京が享受する。
得する人と損する人がいる、不公平な構造は同じです」

都市のため地方に犠牲を強いている、というわけだ。

『被害×人口』で考えれば、被害量のトータルが大きいのは大都市で、少ないのは過疎地域かもしれない。
でもこれ、一人一人の命の価値を否定していませんか。
個人にとっては、被害を受けた事実だけで100%なのに……


   ■

アイリーンさんの原体験は「外車の中から見た光景」。
日本で貿易の仕事をしていた米国人の父と、日本人の母との間に育ち、60年安保反対のデモを見たのも、
香港やベトナムの街で、貧しい子どもたちが、食べ物を求めて車の上に飛び乗ってくるのを見たのも、
父親の外車の中からだった。
こみ上げる罪悪感。
「車の外に出たい」と強く感じた。

両親の離婚後、11歳で、祖父母のいる米国へ。
日本では「あいのこ」と後ろ指をさされたのに、セントルイスの田舎では「日本人」と見下された。
「日本を、アジアを見下す相手は、私が許さない」。
日本への思慕が募った。
満月を見上げ「荒城の月」を口ずさんだ。

アイリーンさんの「不公平」を嫌う根っこは、加害者と被害者、虐げる者と虐げられる者の、両方の立場に揺れた、そんな子ども時代にあった。

20歳の時、世界的に有名だった、写真家ユージン・スミスさん(当時52歳)と出会う。
結婚後、2人で水俣に移住し、写真を撮った。
日本語のできない夫の通訳役でもあった。
患者と裁判に出かけ、一緒に寝泊まりもした。
ユージンさんの死後は、米スリーマイル島原発事故(79年)の現地取材をきっかけに、一貫して脱原発を訴えてきた。

   ■

大震災後、環境市民団体代表として、何度も福島を訪れ、経済産業省前で脱原発を訴える、テント村にも泊まり込んだ。
テーブルにA4サイズの紙2枚を並べ、アイリーンさんは切り出した。
「水俣病と、今回の福島の原発事故の、共通点を書いてみました」。
題名に<国・県・御用学者・企業の10の手口>=別表=とある。

原発事故が、誰の責任だったのかも明確にしない。
避難指示の基準とする『年間20ミリシーベルト』だって、誰が決めたかすらはっきりさせない。
『それは文部科学省』『いや、原子力安全委だ』と、縦割り行政の仕組みを利用し、責任逃れを繰り返す。
被ばく量には『しきい値(安全値)』がない、とされているのに『年間100ミリシーベルトでも大丈夫』などと、曖昧な情報を意図的に流し、被害者を混乱させる。
どれも、水俣病で嫌というほど見てきた、国や御用学者らのやり口です


福島県が行っている、県民健康管理調査についても、「被ばく線量は大したことない、という結論先にありきで、
被害者に対する補償を、できるだけ絞り込むための布石、としか思えません」と批判する。

アイリーンさんが、最も胸を痛めているのは、被害者の間に亀裂が広がりつつあることだ。
「事故直後、家族を避難させるため、一時的に職場を休んだ福島県の学校の先生は、
同僚から『ひきょう者』『逃げるのか』と非難され、机を蹴られたそうです。
みんな不安なんです。
だから『一緒に頑張ろう』と思うあまり、福島を離れる相手が許せなくなる

福島の人々の姿に、水俣で見た光景が重なる。
和解か裁判闘争か。
水俣の被害者も、いくつもに分断され、傷つけ合わざるをえない状況に追い込まれました。
傷は、50年たった今も、癒えていません


だから、福島の人たちに伝えたい。
「逃げるのか逃げないのか。逃げられるのか逃げられないのか。街に、職場に、家族の中にすら、対立が生まれています。
でも、考えて。
そもそも、被害者を分断したのは、国と東電なのです。
被害者の対立で、得をするのは誰?

昨年3月11日、アイリーンさんは娘と2人、久しぶりの休養のため、アメリカにいた。
福島の原発事故の映像を、テレビで見た瞬間、胸に去来したのは、こんな思いだ。
「今からまた、何十年もの苦しみが始まる……」。
水俣病がそうだったように。

水俣病の公式確認は、1956年。
77年の患者認定基準を、最高裁は2004年、「狭すぎる」と、事実上否定した。
09年成立の、水俣病特措法に基づく救済措置申請を、7月末で締め切ることに対し、患者団体は今も「被害者切り捨てだ」と批判している。
半世紀たってもなお、水俣病は終わっていない。

今、水俣の裁判闘争の先頭に立つのは、50代の方々です。
まだ幼い頃に、水銀に汚染された魚を食べた世代です。
だから、福島に行くたびに思う。
小さな子どもたちに将来、『あなたたち大人は何をしていたの?』と問われた時、謝ることしかできない現実を招きたくないんです


   ■

3時間にわたるインタビューの最後、腰を上げかけた記者を押しとどめ、アイリーンさんは「これだけは分かってほしい」と言葉を継いだ。

「水俣と福島にかかわっていて、私自身、被害者と同じ世界にいる、と錯覚しそうになるけれど、でも違う。
被害者の苦しみは、その立場に立たない限り分からない。
分かっていないことを自覚しながら、被害者と向かい合い、発言するのは怖いです」

しばらく黙考した後、
「それでも声を上げようと思います。
福島に暮らす人、福島から逃げた人の両方が、水俣病との共通点を知り、互いに対立させられてしまった構図をあらためて見つめることで、
少しでも癒やされたり救われたりしてほしいから」。
かつて水俣を、今は、福島も見つめる両目が、強い光を放って いた。

==============

■水俣と福島に共通する10の手口■

1. 誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する

2. 被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む

3. 被害者同士を対立させる

4. データを取らない/証拠を残さない

5. ひたすら時間稼ぎをする

6. 被害を過小評価するような調査をする

7. 被害者を疲弊させ、あきらめさせる

8. 認定制度を作り、被害者数を絞り込む

9. 海外に情報を発信しない

10.御用学者を呼び、国際会議を開く





前回の記事でも、なんでこんな事故が起こった後でもなお、原発を廃止しようという方向に考えが至らんのか、という質問に、 
「政治家が、政治主導で、でたらめなテストなどを課して、そのテストも今までと同じように身内のいい加減なもので、
けれども、それをさもありがたい結果として持ち上げ、それを材料に、再稼働していいか、定期点検入ったものかを『政治的に判断する』。
それはもう、最初から言ってる政治的配慮というもので、そこに、事故の現実や、被ばくの被害や、将来また起こるかもしれない大地震など、
そんなものは一切配慮などされていない」
と答えた原発推進の学者。

こうまではっきりと、政治は、原発はなにがなんでも、国民が死のうが、国が放射能まみれになろうが、そんなことは知ったこっちゃない、続けるのだ!と言うてる。

チッソですら、わたしが生まれてこの年になるまで、闘うて闘うて、闘い続けてはるのに、今だに解決してない。
これはもう、ほんまに、腹の底から本気で、日本の政治をぶっ壊さん限り、わたしらに再生のチャンスは無い。

水俣とともに、人生の三分の二を費やして闘うてきたアイリーンさん。
そして、三十年間、脱原発を訴えてきはったアイリーンさん。
恥ずかしながら、わたしはたったの一年やけど、やっと目が覚めた大人として、日本の再生と子供達の未来のために、
これからも、こつこつ、しぶとう、けれども自分の暮らしも大事にして、志を共にするみんなとがんばる。
明日は、あの震災が起こる以前の日本の最後の日。
とうとう一年経ってしもた。
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35年前の押し入れの中で

2012年03月09日 | ひとりごと
わたしは身を硬うして、神さんに命乞いをしていた。
体は粘土みたいに硬うなり、どんどん縮まっていくような気がした。
布団と布団の間に身を潜ませて、できたら自分の体も、布団みたいにペラペラになってくれと祈った。

「神さん、許してください。もう二度と、なめた真似しませんから」

毎晩毎晩、電話係をしていた19才のわたしに、やくざの男達から、嫌がらせの電話がかかってきた。
一日も休まず、執拗に、粘着質な薄気味悪い猫なで声や、突然豹変する脅しの声を聞きながら、
わたしは録音されたロボットみたいに、同じ言葉で、無感情に、返事をした。

「あのねえ、あんたのおとうさんがそうやって、居留守使たり無責任なことするから、お嬢さんのあんたにこんなこと言うてるんですよ」
「けどもねえ、こっちの立場っちゅうのもあるからねえ、ええ加減、こんならちのあかんことばっかりしてられへんのですわ」
「おたくももう成人なんやから、娘として、親の責任取らなあかん思わへん、普通、思うでしょ?」
「目玉でも腎臓でも肝臓でも、いくらでも売れるんやから、あんたがその気になったら」
「あのね、もうこっちにも考えっちゅうもんがあるしね。うだうだとこんなこと毎晩やってられへんのよ」

少しずつ口調が荒っぽくなり、声色にも凄みが出てきてた。
けれども、なんとなく、それまでみたいに、適当にはぐらかしながら相手して、電話を切ったらまた終わると、そう思てた。

その晩、わたしは独りやった。

「あんたが独りやっちゅうのは知ってんねん。今からそっちに邪魔するわ」
「ちょうどな、ええ刀が手に入ってな、これの切れ味、試しとうてな」
「警察呼びますよ」

受話器のむこうで、鼻で笑う音が聞こえた。

警察に電話をしたけど、「なにか事が起こってからでないと出動できません」と断られた。
その頃付き合うてたボーイフレンドに電話した。
「車あれへん。すぐに行けへん。とにかく家から逃げ!」と叫んでた。

家の外で、複数の男の話し声が聞こえた。
急いで家中の戸や窓に鍵をしようとしたけど、手が震えて、なかなかうまくできんかった。
家の周りの外壁を、ドスンドスンと蹴る音がした。
ものすごい怒声が聞こえた。
恐くて身がすくんだ。

「こんなボロ屋、どっからでも入ったるわ!どアホ!」

押し入れの戸を開けて、布団と布団の中に潜り込み、片手で乱れた布団の端っこを掴んで整えた。
息が詰まった。
やくざという種類の人間を、なめてた自分を思いっきり後悔した。
部屋の中に入ってきた男達は、好き放題に、蹴ったり倒したりしていた。

「隠れてるんやろー?わかってるでー?ここかなー?あ、ここかなー?」
「兄さん、そんなとこ突いたら、刃ぁ欠けますがな」
「そやな、肝心なとこで使えんようになったらあかんしな」

プスッと鈍い音がして、押し入れの戸の向こうから、刃の先が刺し込まれた。
プスッ、プスッ、プスッ。
ひひひ、という、薄気味悪い声と一緒に……。



昨夜、旦那と一緒に、HBOのドキュメントを観た。
第84回米国アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門のオスカーをとった『Saving Face』。


パキスタンでは、弱い者目がけて、強酸をかける暴力が存在している。
その被害者達の現状と、闘いの様子を、この映画は克明に表現している。

映画が始まって10分もすると、気分が悪くなってきた。
映像があまりに強烈で、被害を受けた女性や女の子が、暴力を振るった人間と今だに暮らさなあかんという現実が、わたしの頭をクラクラさせた。

そして、息がどんどん苦しくなって、気がついたら、あの押し入れの中に戻ってた。
こんなことは、あの日以降、初めてのことやった。
病院で電気治療を受けてる時でも、ここまでの戻りは無かった。
旦那が、足や背中をさすってくれるのやけど、体はどんどん縮こまっていった。
自分が、今の家に居ることはわかってるのに、どうしても押し入れの中から戻れへん。

戻りたい。帰りたい。
そう言おうとしたら、変な、獣みたいな声が出た。

旦那が息子を呼んだ。
旦那と息子が手を握ってくれた。
息子は、大学で習った手法で、質問をして、だんだんと気を落ち着かせてくれた。

「授業で、パニックアタックのビデオを観たことあるけど、本物見たんは初めてや」

旦那は、35年も経って出てきたこのことを、多分とうとう、とうとうのとうとう、自分が安心できるとこに居ると認めた証拠かもしれんと言う。
すっかり腫れてしもた目と、まだ薄ぼんやりしてる頭で、この記事を書いてる。
コメント (18)
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