ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

米国秋も深まってきたぞ事情

2010年10月10日 | 米国○○事情
8月の終わりからすっかり修行モードに入り込んでいたので、時間が経つのが異様に早く、ホッと一息ついてあたりを見渡すと、すっかり秋も深まっていた。

昨日は、国連活動を支援したい人達のパーティが、スコット氏の邸宅で行われ、パーティに花を添える意味であさことわたしが演奏しに行った。
彼女なら絶対にハマるだろうと思われた彼の家は、どの部屋のどのデコレーションも、雰囲気も、あるものすべてが好き!好き!好き!と絶賛。やっぱり……。
この家に住みたいぃ~!いつか彼が飽きたら、このまんまで残してもらって、この部屋のこの椅子に座って、ワイン飲みながらマンハッタンの夜景を眺めるのぉ~!
こういうことを言う時のあさこは、とても本気で真剣なので、もしかしたらそんな日が来るかもしれない、と思ってしまう。
「そんときはまうみ、シュタインウェイ、時々弾きに来ていいからね」
そう、元生徒のスコットは、古いシュタインウェイを持っている。今はもう家具と化しかけていて、昨日もわたしはそれを弾きながら、うちに来たらう~んと弾いてあげるのに……と、内緒でピアノに語りかけていた。ああもったいない……。

パーティから戻り、カーネギーの打ち上げもお祝いも全くしていなかったので、家で留守番をしていた旦那と三人で、ワインとチーズで乾杯した。
カーネギーの後、わたしは首が回らなくなったけれど、あさこもなんとなく怠い日が続き、お酒を絶っていたらしい。
旦那は乾杯をしている頃から風邪をひいたみたいだと言い出し、やっぱりなんとなく、それぞれに、疲れや緊張やなんかがたまっていたんだなあと思った。

それで今朝はなんと、10時近くまで寝坊して、家でだらだらとしながら朝食を食べた。
本当は旦那とわたしが一番好きなダイナーに行って、ブランチを食べる予定だったけれど、旦那の風邪が思っていたより酷かったので、「そんな時に行かなくていいじゃん」と、病人を放っといてでも二人で行く気満々だった冷血妻のわたしにあさこが言ったので、さすがに諦めた。

さて、なにやら懐かしいことをし始めたあさこ。
うちのシャワー室の床の黒ずみが気になって仕方がないらしい。
わたしも気になる方だけど、漂白剤にてんで弱いので、使っている洗剤ではすっきり真っ白、というところにまで至らない。
特にカーネギー前の1週間はまるで掃除しなかったし、終わってからしようと思っていたら首にきたのでまたまたやらず仕舞い。
そこに、水回りの掃除魔あさこが登場!と相成った。
わたしのダボダボのパジャマを着て、大奮闘中。手袋もマスクもしないで漂白剤かけまくって……カナダでもそうだったよねえ……。



見て見てぇ~!こんなにきれいになったよぉ~!大満足!



ほんとにもう、あんたって人は……でもありがとう、こんなにきれいになったのはここに来て初めてかもしれない。

マンハッタンに帰る彼女が乗るバス停まで、あんまりいい天気なので、みんなで散歩しながら行くことにした。
紅葉が始まっている。葉っぱがお日様の光に彩られて、どんどんきれいになってきた。





桜の木に鈴なりになっているさくらんぼ。



ハロウィーンのデコレーションも。



ハロウィーンといえばこれ。あと2週間もすると、ランタンに変身して、お菓子をもらいにやってくる子供達を迎える。



雑草もなんだかきれい。



少し早いけど、クリスマス色の我が家の垣根。




あさこは掃除が終わってから、緊張しきって張り切っている首の筋を温めながらほぐしてくれた。
彼女は、彼女自身が楽器なので、体のメンテナンスのことにかけてはとてもよく考えているし学んでいる。
今日もいろいろと、ストレッチの仕方や、物事や現象に対する考え方なんかを教えてもらった。
彼女の留学は、わたしにとっても留学なのかもしれない。あさこ、感謝!







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あたたかな気

2010年10月09日 | 友達とわたし
首が回らなくなって早三日目。
痛みは一進一退をくり返しています。

旦那は鍼をせっせと打ち、陶芸家兼マッサージ師の母親の真似をして、首のための特別なマッサージをしてくれたり、毎日一所懸命に治療をしてくれています。

ブログで知り合った、東京在住の美代子さんがまず彼女の気を、そして彼女の友人で気功名人のひろさんからも気を送っていただき、体が芯からあたたまりました。
そのあたたかさは本当に気持ちの良いもので、体だけではなく、心も芯からあたたまりました。
まだお出会いしたこともないわたしのような者のために、心配し、調べものをし、時間を割いて気を送ってくださるおふたりの気持ちがありがたくてなりません。

痛いからといって動かないでいると、余計に筋肉が固まってしまうので、とにかく動くこと、手首や足首を回すこと、冷やさないこと。そしてリラックスすること。
11月のコンサートで弾く予定になっているガーシュインのコンチェルトだけは、夏前からずっと待ってくれているアルベルトにも申し訳がないので、とりあえず少しずつ、無理のない程度に練習を再開しました。
ただ、合わせの練習をしようったって、鍵盤がまだ戻ってきていないので、しようがないのですが……。

昨日、ぶり返しでかなり痛みが戻ってきて、夜中も何回も起きて苦しかったのだけど、今日のお昼前あたりから、痛みのカタマリに気泡のようなものができ始め、そこから少しずつではあるけれど、痛みが溶け出し始めたような感じがします。

おかげさまでようやく、掃除や洗濯をする気分にもなり、さきほどから少しずつ、体操のつもりで始めました。

夏の終わりに、ピアノに対するいい加減な態度を反省し、それからがむしゃらに頑張ったこと。
録音したり弾いたり、考え込んだり落ち込んだり、自分を叱咤激励しながら本番から本番へ、休み無しで続けたこと。
そしてなによりも、普段では考えられないほどの興奮と緊張の時間が長く続いたこと。
その間に、少しずつ少しずつ、無理と無茶が続いていて、わたしの弱いところに悪い影響が出ていたのだと思います。

ピラテスなどで、背筋や腹筋、首まわりの筋肉を鍛えてきたつもりだったけれど、やっぱりまだまだ足りていなかったのでしょうね。

今夜、隣町に住む元生徒(不動産で成功している男性)の豪邸で、国連のための資金調達パーティがあり、あさことわたしはそこで演奏をすることになっています。
昨日のような状態だと、とてもではないけれど楽しくやれそうにはありませんでしたが、このままうまくいけば、ディナーテーブルのお隣さんとも、お話しながら会食を楽しめそうです。もちろん演奏も。

明日、日曜日ですが、1時間だけ、急患のための診察をしてくれる、旦那が一番信頼しているカイロプラクターの所に行って、ずれてしまった骨をアジャストしてもらおうと思っています。

ひろさんから教えていただいた、枕のことも参考にして、少々無理したからといって、またこんな無様なことにならないよう、日頃からもっと自己管理もしなければと、自分で自分を戒めながらこの記事を書いています。







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たまご好き

2010年10月08日 | 家族とわたし
うちの次男坊恭平は、大のたまご好き!
特に最近は、Sunny side upと呼ばれる、ごく普通の目玉焼きを、完璧に作って食べることに凝っている。



凝るのはいいけれど、いっぺんに三つも焼いて食べるので、コレステロールのことが心配。

で、昨日は、着ぐるみ着用状態にもかかわらず、他所様のおでんを見た途端にどうしても食べたくなり、家にある食材でおでんモドキを作った。
ついでに、きゅうりの酢の物も作った。生姜と茗荷を千切りにして和えた。
旦那が家に帰ってきた時、丁度きゅうりを薄~く輪切りにしていたところで、首を前に倒せないものだから、まるで目の見えない人のように指の感覚で切っているのを見て、こんな時に料理せんでも……と同情してもらった。

いつもより気合いが入っていたのか、どちらもなかなかの味で、満足満足。

旦那はたまごを食べる時、量を気にするので一個。
恭平とわたしは健康より嗜好を重視するので、とりあえず二個。二個とも食べるかどうかはその時に決める。
なので、昨夜は合計五個のゆでたまごを作り、おでんの中に入れた。

旦那とわたしがまず先に食べ、遅れて帰ってきた恭平が後から食べた。
その時点で四個のたまごが、それぞれのお腹の中にめでたく消化されていった。

そして今朝、なんということもなしにお鍋の蓋をあけてみると……、



あん?
たまご、三個も増えとんがな……
こういうことにはせっせと動く男なのである

さてその男、昨日いきなり、久々に、ピアノに向い、怒濤のごとく練習をし出した。
曲は十八番の『メイプルリーフ・ラグ』。彼が14才の頃からのレパートリー曲。
もう8年も、楽譜無しで、一輪車乗りのように、体で覚えて弾いている。
たいしたもんやと、旦那とわたしは少し離れた所に立ち、腕組みをして、えらそうに聞いていた。
妙~に熱い視線を感じたのか、弾くのをやめ、わたし達を見てたじろぐ息子。
「急にどないしたん?」と聞くと、「ニューヨークで弾かなあかん」と言う。
ふ~ん……。

そして今度はまた、いきなり出かけようとするので、「どこ行くん?」と聞くと、「寿司作るバイトの準備」と言う。

「ボクってほんま、いったい何になろうとしてるんやろ……」

若者は、深いなぞなぞをつぶやきながらドアの向こうへ消えて行った。
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被爆ピアノコンサートリポート

2010年10月07日 | 音楽とわたし
先日、『被爆ピアノコンサート』のリポート記事を載せていただいた中国新聞の夕刊を、担当の里田記者さんが送ってくださり、それが今日到着した。



同じ記事を、中国新聞のホームページ(http://www.chugoku-np.co.jp/)上の、『リポーター発』という欄にも載せていただいた。

字数の制限など、予め伝えていただいていたにも関わらず、おしゃべりなわたしは好き放題書いてしまい、編集を担当してくださった方にはきっと、えらい手間と苦労をかけてしまったのだろうなと反省しつつ、見事に推敲された文章を読んで感動した。


2010-10-01
[アメリカ] 平和紡ぐ被爆ピアノ(レア・眞海)

広島の原爆に遭った「被爆ピアノ」の演奏会が9月10~13日、ニューヨーク市内であった。
米中枢同時テロから9年になるのに合わせ、広島市の被爆2世たちが企画した。
演奏者の1人に加えてもらい、被爆者とテロ犠牲者の冥福を祈りながら弾いた。

演奏会が開かれるのを知ったのは7月。
テロ犠牲者の追悼行事でも演奏されるということだった。
2機の旅客機が相次ぎビルに突っ込んだ瞬間を目の当たりにして、しばらく立ち直れなかった日々が強烈によみがえってきた。

「ぜひ弾きたい」
慌てて実行委員会のホームページをチェックしたが、既に演奏者の募集は締め切られていた。
あきらめきれずメールを送った。
「いいですよ。弾いてください」
うれしい返事がもらえた。急いで曲を決め、練習を始めた。

ピアノは、広島市の調律師矢川光則さんが5年前、知人から引き取り修復した。
矢川さんは父親が被爆者で、核廃絶を願い、被爆ピアノを集めて日本各地で演奏会を開いている。海外の演奏会は初めてだという。

ガラス片の突き刺さった跡が残るピアノは、ヒロシマの証人だと感じた。
普段通りの打鍵が通用せず、拒絶されているのかと思ったが、そうではないと気付いた。
平和を祈る多くの人たちに弾き継がれてきた被爆ピアノは、人々の思いを受け取り、それを音にして歌ってきたのだろう。
そう解釈し、私もピアノと一緒に歌うことにした。

市内5カ所で開かれた演奏会では、ショパンの「幻想即興曲」とブラームスの「六つのピアノ曲」を演奏した。
苦悩や悲しみを癒し、ピアニストの夢へ一歩を踏み出す力をくれた思い出深い曲だ。
国や文化、宗教を超え、さまざまな音楽家が平和への思いを、被爆ピアノと歌い上げた。


【写真説明】国連チャーチセンターであった被爆ピアノの演奏会

最終日、関係者が国連チャーチセンターに集まり、無事コンサートを終えたことを喜び合った。
被爆ピアノを見つめる矢川さんの優しいまなざしが心にしみた。みんな、自然に涙を流していた。

私は小学生のころから図書館で原爆関連の本をむさぼるように読んできた。
惨状を克明に記した文章や写真を心に刻み、自分が生きたことのない時代と住んだことのない広島に思いをはせ、被爆者の痛みや苦しみ、悲しみを感じ取ろうとした。

きのこ雲の下の惨状と、犠牲になった人たちの無念と苦しみは永遠に消せないだろう。
「過去は変えられないけれど、未来は変えられる。平和を祈って歌って歌ってまた歌う。それでええんよ」。
梱包(こんぽう)されるピアノから、そんな言葉が聞こえた気がした。
(ニュージャージー州ブルームフィールド在住)


れあ・まうみ


【写真説明】ニューヨーク本願寺の中垣顕實住職(左)と記念撮影

三重県名張市出身。2000年に渡米。ニュージャージー州ブルームフィールド在住。
ピアノ教師をしながら、ニューヨークなどで演奏活動をする。ブログで日常の出来事を発信している。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr


里田さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 
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首まわらん!

2010年10月07日 | ひとりごと
少しずつ兆候はあった。
けれどもまあ、ひどくはならんやろうと油断していた。

そしたらひどくなった……。

昨晩はずっと、ベッドの上で、どうやっても痛む頭蓋骨と頸椎のつなぎ目あたりにホトホト困り果てていた。

解体された牛肉を引っ掛けるみたいなカギ状のフックを天井に取り付け、そこから鎖を垂らして、その上に自分の生首を乗っけて座り寝していた日々を思い出した。
もしかして……もしかして……進行が止まったと主治医も太鼓判を押してくれたあの忌々しい症状が、こんなに時間が経ってからまた悪さをし始めたのだろうか。
そんなバカバカしいことまで考えた。

夜中の陰の空気はこれだから困る。

朝まで我慢して、明け方に少しだけまどろんだ。

朝からのレッスンがあることを知っている旦那が、「お~いまうみ、起きてるかぁ~。美味しい朝ご飯があるよぉ~」と、階下から呼んだ。
起きていたけれど、起き上がろうにも起き上がれない。
動く手を後ろに回し、人並み以上にデッカイ頭を支えながら、なんとか起き上がった。
そろそろと一階に下り、台所に入って行った。

昨日、レッスンに来たエラが、手作りしたパンプキンブレッドを持ってきてくれて、旦那がそれに合うソーセージを焼いてくれていた。

「首痛い……」

簡単なツボ押しとマッサージをしてくれた。
鍼を打った方がいい、と言ってくれたけど、朝のレッスンまでにバタバタと治療してもらうのはイヤだったので、わたしとしては珍しく痛み止めの錠剤を飲んだ。

あ~痛い。

まるで自分の姿形をした着ぐるみを着ているような、きっと外から見たら結構可笑しいのだろうね……。

でも、それでもブログを書いているわたしはいったい……旦那にバレたら怒られそう……。
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息子の意地

2010年10月06日 | 家族とわたし


天気予報が珍しく外れて、良い天気になりました。
気温はまだ低くて、各部屋に電気ヒーターを入れています。
長袖のフリースの上着や、あたたかな靴下はもちろんのこと、寒がりのわたしはもう、ズボン下にストッキングまではいて、思いっきりの冬装束。
美代子姉ちゃんいわく、ヨーロッパやロシアでは、今年の冬は千年に一度の厳しい寒さになるのだとか……千年に一度って……想像するだに恐ろしい。
ヨーロッパやロシアと、ここアメリカがどんなふうに関係するのかはわからないけれど、きっとかなり寒くなるんだろうなあと、今から憂鬱な気分です。


さて、昨日の記事を書いてからもずっと、これまでのことを断続的に思い出していました。
その中にひとつだけ、これは書き足しておかねば、と思ったことがあって、今日はそれを書こうと思います。
それは、旦那が貫き通したひとつの意地のお話です。
意地という言葉には、なんとなくネガティブな響きが漂うといって、旦那はこの言葉があまり好きではありません。
けれども、この場合は、まさに意地の他のなにものでもないとわたしには思えるので、やっぱりこの単語を使います。

旦那の父親は、いわゆる成功者です。裕福な経済状態が続いていますが、だからといって無駄使いはせず、教育や芸術の振興のために寄付したり、自分の新しい勉学のために使ったりしながら、悠々自適に、さらに邁進しながら暮らしています。
旦那は自分の家族の話をする時には、こういうことを抜いて話していたので、わたしはずいぶん遅くまで事情を知らずにいました。
それどころか、彼と両親、とりわけ父親との関係が思わしくない話ばかりで、この二人の間にある氷の塊のような冷たい確執を、どうやったら溶かせることができるのか、などと思ったものです。

幼い息子達とわたし、それから旦那の4人生活が大津で始まった頃、無一文で出てきたわたし達と、稼ぎの少ない旦那の暮らしは、それはもう大変で、毎日部屋の中のあちこちから、キュウキュウキュウキュウ、貧乏虫の苦しそうな鳴き声が聞こえていました。
家賃7万円の、昔置き屋だった五軒長屋に住み、近くの市場におもらいをしに通い、大型ゴミの日の夜中に懐中電灯を持って回っていたあの頃、
とにかく息子達だけにはひもじい思いをさせたくない。このことだけを心の支えにして、恥ずかしいことも恥ずかしく思わないように自分で自分を励ましていたけど、
あんまりいつまで経っても事態が変わらないどころか、じわじわと苦しい方に傾いていくので、とうとうある日、心の糸が切れ、旦那に文句を言ったことがあります。

「なんであんたの両親にお金のこと言うたらあかんの?」

その頃はまだ、インターネットどころか、コンピューターなんて夢のまた夢の時代で、アメリカに住む両親と旦那の交わりは、手紙か国際電話のどちらかだけでした。
その、たまにしか話せない電話が向こうからかかってきて、「どう、元気?」と聞かれた旦那は決まって、「もちろん、元気だよ」と明るく応え、「暮らしはどう?」と聞かれると、「全く大丈夫。心配しないで」と即答しているのでした。
それを横で聞いているわたしは、心の中で、「大うそつき!どうして本当のことを言わへんのよ!明日の食事もままならないって!だから、少しでいいからお金を貸してもらえへんかって!」と叫びまくっていました。

「ボクは、自分の暮らしは自分で責任を取りたい。もちろん、これでは命に関わるかもしれない、という所にまで至った場合は、多分、親に助けを求めると思うけど、今はまだそういう状況ではないし、なんとか工夫したり我慢したりすることでしのげるから」

その一点張りで、とうとう日本での8年間を通し抜きました。
こちらでの逼迫した時期もやはり、同じ態度を貫きました。
旦那の父親は、子供の独立性を非常に重んじていて、だから、親が裕福だからといって、簡単に頼らないでほしい、という姿勢を頑なに守っています。
なので、旦那の姉も弟も皆、旦那と同じように、父親には一切頼らずにきました。
とうとうわたしにもその意地が移り、自分の親にも同じような思いを持つようになりました。

今となってはわたしも、何度も何度も、本当に、喉から手を千本ほど出してお願いしたかったけれど、旦那の意地に渋々付き合って良かったと思います。
なんてったって、あの悲惨な時代を、自分達で切り抜けた。その誇らしさはなかなかいいもんです。


と、今朝はここまで書いて終わっていました。
けれども、あれからもまだ考えていると、ちょっと格好良く書き過ぎているように思えました。
だって、わたし達が一切頼らなかったのは生活のためのお金で、例えば父の方からクリスマス帰省の飛行機のチケットを買ってやろうと言ってくれた時は買ってもらい、息子達の矯正の費用の半額を払ってやろうと言ってくれた時もありがたくいただき、大学の費用もいくらか助けてもらったからです。

こちらから頼まなかっただけで、助けてもらったことは今までにいっぱいあって、そのことを本当にありがたく思っています。


庭に出ると、冷たい風が吹く中、花がにぎやかに咲いていました。









秋はやっぱり朱色が似合いますね。

なんて思ってたら、隅っこでこんな小さな花がひっそりと咲いていました。




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親の失業

2010年10月05日 | 家族とわたし
ここ数年の間に、失業している親の数が増えた。
それは新聞などに出ている数字ではなく、周りの人達、さらにはわたしが知っている人達の中に、ゾクゾクと現れ出した。

旦那の失業は、今から9年前、同時多発テロが起こる直前だった。
わたしのピアノの生徒の数も今ほどではなく、失業保険を受け取れる6ヶ月が過ぎたらどうなるのだろうと心配した。
その6ヶ月間、必死で仕事を探していたが、もともと会社人間にはなれないことがわかっていた彼は、突然、鍼灸の勉強をしてみたい、と言い出した。
学ぶ期間は3年。それを無事に、延長することなく学び終えたとしても、はじめっから仕事としての波に乗れるわけがなく、だから少なくとも4年、がまんがまんの暮らしだな、と腹をくくった。
貧乏には慣れっこだ。大津に移り住んだ最初の3年間などは、ホームレス寸前のような毎日だったのだから。

生活保護こそ受けなかったけれど、健康保険など買える余裕は無く、せめて子供達だけでもと、ニュージャージー州からの無料保険を申し込んだ。
それには収入がどれほど無いかという証明が必要だったが、その通りの状態だったので別に問題は無かった。
息子達のフードチケットももらった。高校生という微妙な年頃に、貧乏人の証明のようなチケットでもって、カフェテリアの、他の大勢の生徒達の目の前で、ランチを受け取らせるようなことを強いてしまった。
その州からの健康保険が使える病院は、どこも入った途端に気が滅入るような有様で、治療の技術も怪しいことが多かった。それでも全く無いよりはまし。
日用品はすべて、日本の時と同じように、ゴミやガレージセールで揃えた。
旦那も、やりたくない種類でもなんでも、複数のバイトをこなしながら、鍼灸学校の勉強に励んだ。

親が失職するということは、家族全体に大変な思いを強いること。
わたしの実家はわたしが中学校に入った頃から様子がおかしくなり、それからは転げる落ちるように谷底へ。
食べることもおぼつかなくなり、最後の頃にはお茶碗半膳のご飯に、塩やマヨネーズをかけて食べていた。
でも、それでもどっこい生きていけるのが子供。子供って見た目なんかよりよっぽど強いししっかりしてる。自分でそう思った。
なのに大人の方がびびってしまっていて、こんなことは言えない、あんなことは言えないと、ウソをついたり隠したり。
子供はちゃんとわかってるのに。だからお腹が空いても、けったいな後遺症に襲われてても、それを言わずに平気なふりができたのに。

だからわたしは、親になった時、自分の子供には正直になんでも言おう。ウソをつかないで生きよう。そう心に誓った。

わたしの家族にも、親戚にも、友人にも、生徒の親にも、今失業しているおとうさん、おかあさんがいる。
みんなそれぞれに、懸命に生きている。
わたしみたいに、市場の終業時間を狙って回り、売れ残りのクズをもらって回るようなことをしている人がいるのかどうかは知らない。
でも、みんな、なんとかして家族を守ろうと思っている。守りたいと思っている。
形は変わってもいいと思う。おとうさんがおかあさんに、おかあさんがおとうさんに、子供達の年長の者が大人の代わりに、それぞれがそれぞれの、できることをしたらいいと思う。

ただ、身の丈に合った、その時その時の収入に見合った暮らし方に変えていかなければならないし、変えたくないのならば、それだけのものを、どんな種類の仕事であれ身を置いて、必死で揃えるしかない。

その必死さが大事。そしてその大変さを、家族みんなで共有することが大事。うそもエエカッコもない、親の正直な苦労はきっと、家族みんなを成長させる。
そうやって、とりあえず前向いて、半歩ずつでも、たとえ一時は少し後戻りしたとしても、前に前に歩いていくこと。
しんどいけど、先がなかなか見えないけど、どんなにヘトヘトになるまで働いても、なにも変わらない気がして落ち込むこともあるけれど、
そうやって歩き続けていればいつかきっと、みんなきっと、ああ、あの時はほんまに大変やったなあと思い出せる時が来る。絶対に来る。



実は今日、2年近く失業していた生徒のおとうさんが、ようやく仕事に戻ることになった。
その報告を受けて、わたしは本当に嬉しかったし、今までひとり、大黒柱になって働いてきたおかあさんの気持ちを思うと泣きそうになった。
その家の3人兄弟妹をわたしは出張レッスンで教えていたのだけど、彼が再就職するまでの期間限定で、レッスン代を安くしていた。
今日、わたしを見送りながら、「まうみ、長いことありがとう。来週からはレッスン代、ちゃんと払うからね」と彼が言った時、いったいなんのことを言っているのかわからなくてキョトンとしてしまった。

もう一度、いや、何度でも言いたい。
いつかきっと、みんなにもきっと、彼のように、わたしのように、少し戸惑いながら、少しまだ心配しながら、けれども嬉しい気持ちでにっこりできる日が来る。

絶対に来るからね。
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家族ってほんとに

2010年10月05日 | 家族とわたし
ロンドン在住の友KYOちゃんのブログで紹介されていて、朝からじ~んとしながら見たコマーシャル。
日本の皆さんはもう、何回も見て知っているのでしょうね。

でも、こういう、かあちゃんと息子、とうちゃんと娘というパターンにからっきし弱いわたし。
今もまた見て、目にいっぱい汗かいてます。

お弁当メール篇



息子達にお弁当をちゃんと作ってあげたのは、彼らが幼稚園に通っていた時と、拓人が1年だけ中学校に通った時だけ。
あとはこちらに来て、はじめのうちは日本式のお弁当を作って持たせたのだけど、やっぱりジロジロ見られたりするからイヤ、と言われてそれっきり。
こちらの子供達は、パンにジャムとピーナッツバターを塗りたくったサンドに、バナナやリンゴなどの果物、それと学校用にサイズを小さくしてあるフルーツジュースの紙パックを持って学校に通っています。
飽きてくると、学校内にあるカフェテリアで、好きなのを注文(といっても揚げ物が多い)して食べたり。
なので、日本の子供達のように、栄養や彩りなどがいろいろと工夫されたお弁当は夢のまた夢なのです。

こういうのを観ると、あ~あ、わたしってやっぱ中途半端な母親の見本みたいだったな~と、ちょっと胸の中がシクシクします。
お弁当だけじゃないけれど、なんかこう、もっと年をとってから母親のことを思い出す息子達の心の中に、わたしはいったいどんな母親として残っているのか……なんて考えると、かなり自信がないっていうか、どちらかというとトホホな像が予想されてしまいます。

お父さんのチャーハン編.



わたしの父の十八番は親子丼でした。
このコマーシャルのように、父だけしかいない夜などは、よく作ってくれたのを覚えています。
なんとなく心もとなくて、なんとなく寂しくて、なんとなく家の中全体が暗かった。
そんな家の台所から、卵とお醤油と、鶏肉の油炒めの匂いが漂ってくると、こんな時でもちゃんとお腹が空くんだな~などと思ったのでした。

嫁ぐ前の夜、ありがとうと言おうとすると、「そんなんもうええわ!」と、怒ったような顔をしてプイッと向こうを向いてしまった父のことを思い出しました。

家族ってのはほんとに、ねえ。



P.S.

KYOちゃんが、もうひとつ、こんなのがあると教えてくれました。おばあちゃんと孫娘の切ないお話です。
わたしだっていつか、こうやっていろんな物事を忘れながら暮らす日が来るかもしれません。
だからこそそれまでに、いろいろな人とつながって、いろいろな時を過ごし、いろいろな思い出を作っていくことが大切なんでしょうね。
その思い出が、誰かの胸の中に生きている限り、わたしは生き続けることができるのだから。

おばあちゃんの山菜編

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雨と猫と楽譜と

2010年10月04日 | ひとりごと
雨の日、猫は本当に寝子になる。



手足のアップ。本人(本猫)自身も、こんなにこんがらがっているのをわかっているのかどうか……。



今日は朝からだ~れも来ないし、かあちゃんもゆっくりしているし、ほんでもって雨降ってるし、ほんでもってアタシの大好きなヒーターまでついてるし。

そうなのだ。今朝は今秋初めての、めでたいオイルバーナー初点火の日となった。
今日の最高気温は14℃。
オイルの値段は高いままだし、ほんとはヒーターなんてつけたくもないんだけれど、こう冷えては仕方が無い。
気温だけでなく、湿気も相まって、体の奥から冷えてきて、いくら服を着てもなんだか寒い。
大きなイベント後の、疲労が残っている時に、体を冷やすといけないと言って、旦那はあっさりとスイッチを入れた。
ただ今部屋の中の温度は20℃。ホコホコと気持ちがいい。


ほんとはわたしもショーティのように、丸まってゆっくりしたいところだが、そうもイカの天ぷらなのだ。←すみません、意味不明で。

アルベルトが会うたび、話すたび、まだか~まだか~とせっついてくるガーシュインの練習を急がねばならない。



久しぶりに楽譜を開き、音符を見たとたん、クラクラと目眩がした。例えじゃなくてほんとに。
疲れている時にこんなものを見るのは健康に良くない。
けれどもそんなことも言っていられないので、渋々ピアノの椅子に座り、練習を始めた。
ショーティが、「うにゃ!またぁ~?!」と、すご~くイヤそうな顔をしながらノビをして、椅子から降りて二階に移動した。

やけくそで、ミヨーのスカラムーシュ(これはジェーンとの約束)の練習も始めた。



カルロスさんから譲り受けたピアノのキーは、まだマサチューセッツの工場から戻ってきていない。
2台ピアノの曲ばかり練習しているけれど、晴れてここで練習できる日は、いったいいつになったらくるのだろう……。

まあ、なるようになる。これまでもずっとそうだったように。
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えまの贈り物

2010年10月03日 | 友達とわたし
昨日のコンサートに来てくれた、わたしの大好きな友達えま。



こんなふうに、ほんの6年前は、わたしの肩の上で居眠りしてた、ほんとに可愛い赤ちゃんだったのに、今はもう、英語と日本語がペラペラのお姉ちゃんになった。

昨日はコンサートが夜から始まったので、アンコールの前に帰る電車に乗らなければならず、もっといたいよぉ~と半べそかきながらホールから出たのだとか。
せっかくまうみにあげようと思って持って来てくれていた贈り物を渡せなかった、ということで、今日、わざわざうちまでそれを渡しに来てくれた。



昨日、わたしが着ていた衣装もちゃ~んと書いてくれた。感激!



なんて上手な字なんだろう!
えまの周りはもう100%英語の世界。そして彼女は、日本語学校にも通っていない。なのに、こんなにきちんとした字が書けて、とても自然な日本語の言葉も話せる。彼女のママ(日本人)とパパ(アメリカ人)の努力の成果だよなあ。

彼女はとても真剣に、一番最初の演奏から最後の演奏まで、じっくりと、まるで音楽評論家のような熱心さでもって、パパの膝の上に座って聞いてくれたそうな。

最初、善かれと思って選んだ、二階のボックス席は、一列ずつだったのだけど、落下止めの柵が邪魔をして、舞台がちゃんと見えなかったらしい。
それで、空きがあった、舞台正面のボックス席に移動しようとしたのだけれど、ホールの係員がどうしてもそれを許してくれず、それを見かねたあるご夫婦が、僕たちの席と交代してあげよう、と申し出てくれて、晴れて真正面から見られるようになったのだそうな。

彼女はずっと、あさことわたしの演奏が一番良かった。ピアノが上手だったと褒めてくれた。

ありがと~えま!めっちゃくちゃうれしかったよ~!

カードと一緒に、さやかママの手作りのアーモンドパイとアーモンドチョコレートが袋の中から出てきて、きゃあ~!!と叫んだのは、さてさて誰でしょう?



さて、今日はなにもせんぞぉ~と決めていた。
けれども、拓人が新居のカーテンのためにといって、お気に入りの布を買ってきていて、サイズを合わせるにはどうしたらいいのだろうと悩んでいるのを見て、う~ん、暇だしやってやろうかな~などと思ったのが運のつきであった。
シンガーちゃんに登場願い、布に合うミシン糸を選び、前に座ったまではよかったのだが、いったいどうしたことか、上糸かけも、糸をボビンにまきつけることも、どうやってしたらいいのか全く忘れてしまったではないか?!
昨日の舞台で興奮し過ぎて、脳の線があちこち切れちまったのか?
そこにやって来てくれたさやか。ミシンはあんまり使わないけど糸かけは覚えてるってんで、さっそく目の前でやってもらった。
ふんふん、そうそう、そやったそやった。ずいぶん遠くまで出かけていた記憶が少しずつ戻ってきてくれたようだ。
糸の用意がちゃんとできた。
さあ縫うぞぉ~!



すべて目分量の超適当な、けれども手作りカーテン制作が始まった。

と、意気揚々と布の幅を測り、シャキシャキと気分良く切った後で、定規の目盛のインチとセンチを間違えたことに気がついた。が~ん……。

でも、髪の毛と一緒で、切ったものはもう二度ともとには戻らない。
仕方が無いので、あと一枚作り、それぞれにダーツを入れて、長さを調整した。
そんなことをやっていたので、時間が2倍かかってしまった。
ま、これは自分でやってしまったことだから仕方がない。
まあ、拓人がとても喜んでくれたので、良しということにしよう。

いろんな物をまだ残していた彼も、昨日と今日ですべて移動させることができた。
オンボロで動かなかったアパートメントの洗濯機と乾燥機も昨日、いきなりどちらも新品に替えてくれてあったそうだ。
なので、家に洗濯物の山を持って帰る必要も無くなった。部屋の家具もぼちぼち揃い始めている。

恭平は、今日来てくれたさやかから誘ってもらった、日本語の吹き替えバイトの台詞の練習に必死。
彼女が翻訳を担当している、とても有名なアパレル会社の、日本支社での社員用製品紹介ビデオのための吹き替えなのだそうだ。
場所はマンハッタンのイーストヴィレッジ。超高級日本レストラン『NOBU』のすぐ近所、ノブさんの親友ロバート・デニーロのオフィスがあるビルなのだそうだ。
うまくいくといいなあ。

旦那はわたしと一緒に緊張の毎日を送ってくれた。
いつもわたしの気の障らない程度に、上手に健康管理をしてくれた。
今日は朝からずっと、昨日来てくれた親戚や家族、それから友人達に、お礼の電話やメールを送っていた。
やっと終わったね、ビル。ありがとうね。


明日からまた、わたし達それぞれの新しい毎日が始まる。

コメント (6)
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