昨日の続きです。
以上のような視点に立って、これから、それまでハリウッドと呼ばれていたものが、あるとき、もはやそう呼ばれることの意味を殆ど失うしかなくなった1950年代を中心として、その『変容』の歴史をたどってみようと思う。変化は、なによりもまず、華麗なものだった照明の不意の衰えとして始まったのであり、その意味で、それは『変容』の歴史であると同時に『翳り』の歴史をも描き出すことになるだろう。だが、映画の歴史が、光りと輝きに対する感性によって書かれるというにとどまらず、影と暗さに対する感性によっても書かれうるものだという事実を、人びとはいまだに納得しかねているかにみえる。それゆえ、ここでは、すでに1930年代から素描され始めていた『翳り』の歴史として綴られることになるだろう。
『翳りの歴史のために━━『50年代作家』を擁護する』と題された第一章では、ホークスの、フォードの、ウォルシュの、あるいはヒッチコックのいかにも強靭な透明さをもはや自分達のものではないと自覚せざるをえなかった一群の作家たちが、いかにして映画との困難な関係をとり結び、どれほど残酷に映画から引き離されざるをえなかったかをたどりなおしてみることになるだろう。具体的には、そうした作家たちの諦念と、それにもかかわらずたやすくは絶望に行きつくことのなかった彼らの生への執着に視線を注いでみたいのだ。その際、50年代のハリウッドをまがりなりにも公式に代表していたジョゼフ・L・マンキーウィッツ、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマンといった名前とはいくぶん異なる顔触れが登場することになるだろうが、それは、彼らがことのほか『変容』に敏感だったからにほかならない。そうした作家たちの名前は、いまは記さぬままに話を続けることにする。
第二章は、『絢爛豪華を遠く離れて━━『B級映画』をめぐって』と題されており、主題が『B級映画』にあることは一目瞭然である。だが、この言葉で総称される映画のカテゴリーの実態は必ずしも明瞭でない。そこで、ここでは、ハリウッドの華麗さを構造的に支えてきた『貧困』なるものの素顔と、それがまがりなりにも果たしえた創造的な役割について論じられることになるだろう。重要なのは、粗製乱造のプログラム・ピクチャーだと安易に誤解されがちなこの『B級』というカテゴリーが、トーキーの成立とともに形成され、50年代におけるハリウッドの崩壊とともに消滅するしかなかった歴史的な概念にほかならぬ事実を確かめることにある。『B級映画』の消滅は、ハリウッドの崩壊とあくまで相関的な現象なのである。その点を見逃さずにおくことにしよう。システムとしての撮影所の栄光と悲惨とに視線を注ぎながら、人は、改めてアメリカ映画への親しみをおのれのものとすることができるはずだからである。
『神話都市の廃墟で━━『ハリウッド撮影所システム』の崩壊』と題された第三章では、アメリカ映画が50年代に体験した悲劇的なできごとの余波ともいうべきものが、80年代までたどられることになるだろう。それはまず、映画とは無縁の企業家たちによる驚くほど野蛮な撮影所の買収ゲームとして始まる。それはまた、破産と競売によって始まったといってもよい。そのとき明らかにされねばならぬのは、ハリウッドがいかにしてアメリカ合衆国と闘ったかという闘争の、無益なまでの苛烈さである。この闘争は、多くの優れた作家たちを際限もなく疲弊させ、彼らの早すぎる死を準備するものだった。
とするなら、映画という闘いにおいて勝利したのは、いったい誰だったのか。より正確には、映画の側からアメリカ合衆国に仕掛けられた闘いを真に支えていたのは誰なのか。それを多少とも明らかにすることで、われわれは、現代のアメリカ映画がかかえこんでいる問題の大きさに、改めて触れることになるだろう。
いまや、このアメリカ映画史にホークスやフォードやウォルシュが登場しない理由が明らかにされ始めている。彼らに限らず、かつてのハリウッドの巨匠と呼ばれる監督たちは、いずれも、真の意味での闘争をくぐり抜けることなく勝利してしまった幸福な作家なのである。もちろん、そうした巨匠たちが、頑固なプロデューサーといちども葛藤関係に入らなかったというのではない。だが、ホークスも、フォードも、ウォルシュも、それをいくぶんか厄介ではあるが、持って生まれた性格なりちょっとした策略なりによって、いくらでも回避できる日常茶飯事ぐらいにしか考えてはいない。おそらく、シュトロハイムの不幸さえ、ことと次第によっては避けることのできた偶発事だとみなされていた時代が、アメリカ映画の歴史にはまぎれもなく存在していたのである。(また明日へ続きます……)
以上のような視点に立って、これから、それまでハリウッドと呼ばれていたものが、あるとき、もはやそう呼ばれることの意味を殆ど失うしかなくなった1950年代を中心として、その『変容』の歴史をたどってみようと思う。変化は、なによりもまず、華麗なものだった照明の不意の衰えとして始まったのであり、その意味で、それは『変容』の歴史であると同時に『翳り』の歴史をも描き出すことになるだろう。だが、映画の歴史が、光りと輝きに対する感性によって書かれるというにとどまらず、影と暗さに対する感性によっても書かれうるものだという事実を、人びとはいまだに納得しかねているかにみえる。それゆえ、ここでは、すでに1930年代から素描され始めていた『翳り』の歴史として綴られることになるだろう。
『翳りの歴史のために━━『50年代作家』を擁護する』と題された第一章では、ホークスの、フォードの、ウォルシュの、あるいはヒッチコックのいかにも強靭な透明さをもはや自分達のものではないと自覚せざるをえなかった一群の作家たちが、いかにして映画との困難な関係をとり結び、どれほど残酷に映画から引き離されざるをえなかったかをたどりなおしてみることになるだろう。具体的には、そうした作家たちの諦念と、それにもかかわらずたやすくは絶望に行きつくことのなかった彼らの生への執着に視線を注いでみたいのだ。その際、50年代のハリウッドをまがりなりにも公式に代表していたジョゼフ・L・マンキーウィッツ、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマンといった名前とはいくぶん異なる顔触れが登場することになるだろうが、それは、彼らがことのほか『変容』に敏感だったからにほかならない。そうした作家たちの名前は、いまは記さぬままに話を続けることにする。
第二章は、『絢爛豪華を遠く離れて━━『B級映画』をめぐって』と題されており、主題が『B級映画』にあることは一目瞭然である。だが、この言葉で総称される映画のカテゴリーの実態は必ずしも明瞭でない。そこで、ここでは、ハリウッドの華麗さを構造的に支えてきた『貧困』なるものの素顔と、それがまがりなりにも果たしえた創造的な役割について論じられることになるだろう。重要なのは、粗製乱造のプログラム・ピクチャーだと安易に誤解されがちなこの『B級』というカテゴリーが、トーキーの成立とともに形成され、50年代におけるハリウッドの崩壊とともに消滅するしかなかった歴史的な概念にほかならぬ事実を確かめることにある。『B級映画』の消滅は、ハリウッドの崩壊とあくまで相関的な現象なのである。その点を見逃さずにおくことにしよう。システムとしての撮影所の栄光と悲惨とに視線を注ぎながら、人は、改めてアメリカ映画への親しみをおのれのものとすることができるはずだからである。
『神話都市の廃墟で━━『ハリウッド撮影所システム』の崩壊』と題された第三章では、アメリカ映画が50年代に体験した悲劇的なできごとの余波ともいうべきものが、80年代までたどられることになるだろう。それはまず、映画とは無縁の企業家たちによる驚くほど野蛮な撮影所の買収ゲームとして始まる。それはまた、破産と競売によって始まったといってもよい。そのとき明らかにされねばならぬのは、ハリウッドがいかにしてアメリカ合衆国と闘ったかという闘争の、無益なまでの苛烈さである。この闘争は、多くの優れた作家たちを際限もなく疲弊させ、彼らの早すぎる死を準備するものだった。
とするなら、映画という闘いにおいて勝利したのは、いったい誰だったのか。より正確には、映画の側からアメリカ合衆国に仕掛けられた闘いを真に支えていたのは誰なのか。それを多少とも明らかにすることで、われわれは、現代のアメリカ映画がかかえこんでいる問題の大きさに、改めて触れることになるだろう。
いまや、このアメリカ映画史にホークスやフォードやウォルシュが登場しない理由が明らかにされ始めている。彼らに限らず、かつてのハリウッドの巨匠と呼ばれる監督たちは、いずれも、真の意味での闘争をくぐり抜けることなく勝利してしまった幸福な作家なのである。もちろん、そうした巨匠たちが、頑固なプロデューサーといちども葛藤関係に入らなかったというのではない。だが、ホークスも、フォードも、ウォルシュも、それをいくぶんか厄介ではあるが、持って生まれた性格なりちょっとした策略なりによって、いくらでも回避できる日常茶飯事ぐらいにしか考えてはいない。おそらく、シュトロハイムの不幸さえ、ことと次第によっては避けることのできた偶発事だとみなされていた時代が、アメリカ映画の歴史にはまぎれもなく存在していたのである。(また明日へ続きます……)