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山根貞男『映画の貌』その1

2019-02-16 07:35:00 | ノンジャンル
 山根貞男さんが1996年に出された『映画の貌』を読みました。小さい活字で650ページを超える大著です。

山根さんが書いたあとがきから引用させていただくと、「本書には、ここ十年ほどに書いた多種多様な文章が収録されている。映画評論集としては『映画狩り』『映画が裸になるとき』についで三冊目になるが、撮影現場ルポを集めた部分は『日本映画の現場へ』の続篇に当たるといえ、1980年代から90年代にかけての160本余の作品評を並べたくだりは、いまも「キネマ旬報」に連載中の時評を三年ごとにまとめた『日本映画時評』『映画はどこへ行くか』に連なりもする。
 そんな、ごった煮のような本、とでも呼びうる本を出すのは初めての経験で、そわそわと落ち着かない。時評的エッセー、映画状況論、撮影現場ルポ、作品論、監督論、スター論、書評集……。明らかにここには、映画に関わってのわたしの仕事のほぼ全領域が収められており、そうやって一覧できることが嬉しいような不安なような思いをそそるのである。
 もう一点、これまでの著書との違いを挙げれば、外国映画についての発言が多少なりとも見られることであろう。それは、内容的には、いま一つの映画評論集というべき蓮實重彦氏との共著『誰が映画を畏れているか』に連なる部分で、今後の仕事のスタートラインになるはずである。(後略)」

 では実際に本の内容を読んでいくと、まず『松田優作+丸山昇一◎未発表シナリオ集』を読み終えた時の感想が述べられます。

あるとき松田優作は丸山昇一に中上健次の短篇集『蛇淫』をポンと渡して、その一篇「荒神」のなかの《おかしくなった。わらった。涙が出た。心臓がむきだしになっている気がした。》という部分を示し、これをやりたいのだと告げた。そんな短いぶっきらぼうなやりとりから、丸山昇一の脚本づくりがはじまり、やがてシナリオ『荒神』第一稿が書き上げられる。松田優作はそれを読んでただちに本格的に映画化の準備にとりかかったあと、丸山昇一を自宅に呼び、こう言ったという。「━━最高だ。お前に会わなきゃよかった。俺はこの映画一本で駄目になる……」。本書にはこうした部分が偏在していて、これが松田優作だよ、映画というものだよ、という声が自分の胸の底から湧き上がってくるが、だからといってそれは、活字の向こうや行間に、一篇の映画をなまなましく思い浮かべ幻視するということとは、少しばかり違っている。そしてその少しは大きい。映画に向かって書く。わたしは本書を熟読して、そのひとことを教わり受け取った。

 以下、気になった文章を原文そのまま転載させていただきます。
・「いまでは、ちゃんと日本映画を見ようとするなら、外国へ出かけたほうがいい。二つの映画祭に出席して、わたしはつくづくそう思った。昨年のナント映画祭へ行けば、若尾文子主演の傑作群をずらりと見られただろう」

・「またオペラといわずとも、映画のなかで歌を歌うことにおいて相米慎二がいかに卓越した才能を発揮するかは、周知の事実だろう。」

・「映画会社がフィルムをジャンクする一番の理由は、倉庫の問題である。」

・「大井武蔵野館では、今回ジャンクされることになったロマン・ポルノ百数十作品のなかから、十三本を選び七月から九月にかけて上映するが、そのなかには、前記『ひと夏の秘密』のほかに、曾根中生の『色暦女浮世絵師』(1971年)、『実録白川和子・裸の履歴書』(73年)、『新宿乱れ街・いくまで待って』(77年)、中原俊の『犯され志願』(82年)、『三年目の浮気』(83年)など、貴重な作品が何本も含まれている。」

・「かつて映画がトーキーになったとき、サイレント作品が見捨てられ、映画がカラーになったとき、モノクロ作品が無価値と見なされ、膨大なフィルムが姿を消したが、それに似たことが起こりつつある。いやはや、まったく、ひどい話で、そこにもモノとしての映画の運命が感じられる。しかし、とわたしは思う。逆にいえば、モノであればこそ、昔の映画がどこかに残っている可能性もあるのではないか。だれかがモノとしてのフィルムを所有していてもいいではないか。事実わたしは、そのことを証明するかのように、もはや消失してしまったと思われていた小津安二郎のサイレント作品『突貫小僧』(1929年)に突き当たることができた。」

・「日本を陰湿、アメリカを明朗と、単純化することはできまい。日本の作品でも、陸軍落下傘部隊の訓練を描いた『空の神兵』(1942年)などは、豪快かつ爽快な躍動感にあふれている。それでも、日本=情緒的、アメリカ=論理的、という対比は成り立つにちがいない。二つの上映禁止作品、亀井文夫の『戦ふ兵隊』(1939年)とジョン・ヒューストンの『そこに光を』(1945年)をくらべても、そのことはいえると思われる。」(明日へ続きます……)