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第四章 韓国の戦後事件史 国民の抵抗と民主化の戦い
韓国の第二次世界大戦後の歴史は、社会進歩を目指す韓国国民と親米・親日勢力を含むアメリカの支配との激しい戦いの連続であり、国民が大きな民主的前進を勝ち取ってきているが、今も激しく戦われている。
さらに韓国の戦後史は、日本の近代政治と密接な関係があり、韓国を知れば、日本の現状、特にアメリカ支配との関係をより深く理解することができる。また、戦後も朝鮮を利用して、建国を進める日本の姿を見ることができる。
そのうえ日本が、韓国「併合」支配した歴史の傷跡が生々しく残っており、日本の加害責任を謝罪し、21世紀のアジアの時代を切り開いていくために、知らなければならない事柄なのである。
- 終戦後のアジア・韓国はアメリカの支配と李承晩政権の反共独裁政権との戦い
韓国・朝鮮がどのような終戦の迎え方をしたのか、南北朝鮮の建国の経緯については先に見てきたとおりであるが、大韓民国成立過程からその後の政治は、アメリカの直接・間接支配によって「共産勢力の拡大を食い止める」ために、「冷戦」の矢面に立たされた。
建国以前の駐留米軍と李承晩は、第一回国政選挙を行うために、南朝鮮の単独選挙に反対する38度線以南区域に住む民主的人士や民主団体のすべてに「アカ」のレッテルをはり徹底的な弾圧を繰り返した。
特に済州島では、統一国家を望む運動が強く1948年5月10日の南朝鮮だけの国政選挙は、やめろと運動が繰り広げられた。米軍は、かいらい政府をつくる必要性からなんとしても選挙を行い、表面だけでも国民の支持で新しい国を作らせることが、米国政府の至上命令だった。
選挙前から全国的な「アカ」狩りが行われたが、済州島民に対する選挙前後の弾圧は、アメリカの直接指導による拷問、集団射殺、焼き殺す、殺し尽くすという歴史上もあまり例がないほどひどいものだった。それが、済州島四・三事件である。
1947年2・10米軍政庁下の観徳停(カンドクチョン)広場で、日帝支配に変わった米国の殖民地化反対統一朝鮮をめざす最初の反米集会とデモが行われた。
その1ヵ月後に「3・1 28周年記念済州大会」が行われ、参加者が解散して帰る途中に幼い子が騎馬警官の馬にけ飛ばされ死亡する事件が起こった。しかし警官はその場をたち去るので怒った住民が警察につめ寄った。その行為に警察が発砲し6人死亡、6人が重症をおうことになった。3月2日真相究明を要求する住民の中から、学生25名が連行された。3月8日、米軍が調査団を派遣し、建国の邪魔になるとして左翼の弾圧に乗り出した。米軍は、現地の報告を鵜呑みにし、70%が左翼とその同調者で「赤い島」と米軍政庁に報告し、弾圧を正当化した。
1947年3月10日から20日ごろまで 島全体のゼネストが決行された。米軍と右翼、警察は首謀者を捕らえることを口実に検挙を繰り返し500名が拷問受ける。さらに3月末から右翼・西青(西北青年会)のテロが始まった。そうして島民への弾圧と権力組織の強化が進められていった。48年3月、青年3人が警察で拷問急死する事件が起こり、三日間の葬式が行われたが、抗議のデモにかわりそこでも弾圧が繰り返された。
1948年4月3日 南労党済州島委員会は、弾圧ならば抗争だ。単独選挙・単独政府樹立反対。反米救国闘争を行うとして武装蜂起が始まった。警官1700と右翼団体、西青団員500が新たに増員された。4月末には、権力による二度にわたる大々的捜索作戦が繰り広げられ、4月28日 第9連隊長・金益烈インニョルと武装隊総責任者金達三ダルサンによる平和交渉が行われたが決裂した。金益烈が解任され、新任連隊長 朴珍景チンギョンは、「暴動鎮圧のためには済州島民30万人を犠牲にしてもかまわない」と発言、強行鎮圧を。くりひろげた。
米軍は48年5月10日に南部単独選挙を決定した。選挙成功が至上命令だとして米軍が直接関与したのだった。しかし、統一を願う人々は、全国大部分の都市でボイコット・投票所攻撃などが行われ、騒ぎと流血事件が起こった。これは同時にアメリカ支配に反対する戦いでもあった。済州島は投票率が全国最低で、再選挙が実施されることになったが
それもできず無期限延期となり、知事・柳海辰ユヘジンは解任された。米軍司令官ブラウン大佐は、私の使命は鎮圧のみだと語ったという。5月22日から6月30日までに検挙住民5000人にのぼった。連隊長朴珍景は、部下に暗殺された。
8月15日 大韓民国政府が樹立されたが、米軍によって統一を願う国民を大弾圧してかろうじてこぎつけた建国だった。
8月24日 李承晩大統領と駐韓米軍司令官ホッジ中将は「韓米軍事安全暫定協定」を結び49年6月23日まで韓国軍弾圧部隊を指揮し、批判勢力の撲滅作戦をくり広げた。
済州島では、「ウサギ追い込み式捜索作戦」が繰り広げられ、翌3月まで虐殺の場に変った。済州島は、火山によって標高1950mの漢ナ山を中心に出来た島であるが、全島海岸から5キロ以外の地点、山岳地帯不許可通行禁止令が出され、この布告に違反するものは、その理由の如何にかかわらず、暴徒の輩とみなし、銃殺の刑に処すというものであった。さらに三尽・三光作戦といって放火・殺人・飢え、が進められた。
11月~12月の巌寒の時期にも武装隊が村を襲撃、各地で大量が繰り広げられた。 吹き荒れた狂気の光景派、8月まで続いた。
1948年8月15日 米軍政統治から大韓民国政府が樹立したが、米軍支配はおなじだった。11月17日済州島に戒厳令ひかれ、虐殺615名、軍法会議に871名がかけられた。1948年4月1日から1年間に1万5千人が虐殺された。内80%が討伐隊による射殺だった。
この間政府は報道を禁止し、世間に知られなかった。済州島出身在日同胞が世間に訴えたことから徐々に事実が知れようになった。
1950年 朝鮮戦争勃発、予備検束 7月末~8月末 集団虐殺チョントウル飛行場済州島飛行場)と、アルトウル飛行場252名(モスルボ飛行場)などで処刑、その他大韓民国軍による銃殺事件が多数明らかにされた。
朝鮮戦争中も弾圧は続いた。
1954年9月21日 漢ナ山禁足地域解除、全面開放まで6年6ヶ月にわたる三尽・三光作戦が繰り広げられたのだった。4・3事件の責任は政府と米軍支配下で起こった事件で米軍の国際法違反はあきらかだった。
4・3事件のその後は、赤のレッテルを貼られた済州島住民は、「連座制」の適用で左翼思想の子弟だと就職差別結婚差別まで行われた。1999年12月16日 済州島四・三事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法「4・3特別法」が可決され 四・三特別委員会→済州島四・三被害調査報告書がだされて上記のことが明るみに出たのである。
