大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

連載 15  江戸時代には、豊臣秀吉による朝鮮侵略以後の国交回復を目的として行なわれた。

2015-06-30 | 「私がお話し」します。

 

第2章、  朝鮮通信使と京都

 

 

 

1、京都伏見城 家康・秀忠伏見城で松雲太師と通信使相談 

 

 朝鮮通信使は、日本との善隣友好を目的とした使節団です。室町時代の足利将軍に初めて派遣されましたが、江戸時代の通信使は、徳川将軍の代替わりや世継の誕生などの際に、日本の招きに応じて、朝鮮国からの国書を携えて派遣された外交使節です。

 

江戸時代には、豊臣秀吉による朝鮮侵略以後の国交回復を目的として行なわれ、慶長 12年(1607年)から文化8年(1811年)まで200年の間に計12回、日本を訪れています。しかし、朝鮮国の当初の主な目的は、朝鮮侵略のために捕虜として 日本に連れて来られた朝鮮人たちを帰国させるためでした。そして和平の継続でした。
 使節の一行は、正使・副使・従事官の三使をはじめとする約500人ほどの行列で、漢城(ソウル)から江戸へ向かいました。その戦後処理から始まった江戸時代の朝鮮通信使は、日本側が捕虜を帰還し、「侵略しないことを宣言」し、朝鮮側は日本の実情をつかみ、本国にに知らせる上でも重要な役割をはたしました。長期にわたって「日朝友好のシンボル」として続けられましたが、京都はその大切な舞台でもありました。

 

使節団は、京都市内の大きなお寺(大徳寺・本国寺・本能寺・方広寺等)に分宿し市内を通って三条京阪から山科を通り大津に入りました。日朝協会京都府連は「通信使の通った道」をできるだけ忠実に通り、休憩したお寺にもたちより住職から古文書を見せていただきながら説明を聞いたことがありますが、当時の絵画や屏風絵・書などが今も大切に保管されています。

 

 

 

さて、「通信使」が行われるためには多くの準備が必要でした。

 

徳川家康が征夷大将軍に就任した1603年の翌1604年 朝鮮の僧松雲太師が対馬に来島し 修交について 話し合いがもたれました。 これは正式の友好使節団ではなく 朝鮮では 探賊使といって 好戦的な日本の偵察と捕虜の送還が目的でした。

 対馬の宋義智(そう よしとも)は 一刻も早く 朝鮮と交易関係を築きたかったので幕府に朝鮮使節の来島を知らせました。 家康と 秀忠はわざわざ 京都の伏見城まで出向き松雲太師と会見しました。松雲太師は朝鮮人捕虜3,000人を連れて帰りました。さらにその後 1,390人を送還したのです。 儒家などの学者は殆ど帰国したが 薩摩に連行されてきた陶工などは残りました。 これは 彼等の意思で残ったのかも知れないといわれています。
 朝鮮では伝統的に 陶工など職人と兵士は、下賎(げせん)とみなされていました。薩摩藩は朝鮮陶工には 朝鮮の風俗 文化 言葉を継承することを命じ 士分扱いとしました。母国にいるよりは待遇がよかったのです。朝鮮の風俗 文化 言葉を継承することを命じたのは 注目に値いすることです。 近世において 日本統治時代 日本は朝鮮の文化を破壊しようとしたのですから・・・。 

 翌 1605年徳川幕府は 二代将軍秀忠の将軍職 関白就任の慶賀の親善使節団を送るよう対馬藩を通じて朝鮮に要請しました。 戦乱の傷も癒えていないし 正式国交もまだないので 朝鮮は 当惑したが 二つの条件を出して 使節団派遣の即答は避けました。 その条件は 一つは家康から先に朝鮮国王に対して国書を送ること。
二つには文禄 慶長の役で 日本軍が行った蛮行の一つである朝鮮国王の王墓を暴き、荒らした犯人を引渡すこと。
しかし 先に国書を送ることは 朝鮮に従属的になるし 朝鮮国王の王墓を暴き、荒らした犯人をすぐ特定することも難しい。日本側の対朝鮮外交担当の対馬藩は玄蘇和尚(げんそおしょう)の入智恵で 国書を偽造し 王墓荒らしの犯人として罪人を送ることにしました。
 対馬の宋家は 朝鮮に対する幕府の外務省の働きをしていました。米の実高は 2万石であったが格付けは10万石でした。 

 


1607年 正使以下 500名の正式外交使節団が来日しました。 対馬藩主宋義智と百名の対馬藩士が江戸まで同行しました。 この第一回から第三回までは 回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)、 つまり 外交案件にたいする回答と捕虜を連れて帰る使節団でした。 

 

1636年(寛永13年) 第四回 朝鮮使節団から 朝鮮通信使というようになったのです。
朝鮮通信使は 釜山をでて 対馬に寄航し 瀬戸内海を通って 大坂(阪)へ着き、淀川をさかのぼって 淀の淀城や近隣の寺で宿泊しました。 淀から、伏見、京都を経て 徳川家康が 関が原の戦いの後、通っためでたい道で 大名行列も許さなかった現在の野洲市から 彦根までの道の通行を許しました。 この道は 「朝鮮人街道」と呼ばれています。

 朝鮮通信使の日本派遣は1811年を最後にとだえました。 日本は 1854年 神奈川で日米和親条約を締結し 「開国」し 世界と通商を始めました。 しかし朝鮮は鎖国政策を採り続けたのでした。

 明治元年・明治新政府は 対馬藩主 宋義達(そう よしあき )を通じて 国交修交の書を朝鮮に送ったが 当時の摂政 (せっしょう ) 大院君( ダエ イン クン )は国書の受け取りを拒絶しました。 国書の差出人が 天皇という言葉が尊大だと立腹し”皇”という文字は朝鮮の宗主国(そうしゅこく)清国の皇帝のみが使う言葉であると考えたためでした。



2、朝鮮通信使は、京都に新しい文化を伝えました 

 

 京都伏見城 家康・秀忠伏見城で松雲太師と通信使相談 

 朝鮮通信使は、日本との善隣友好を目的とした使節団です。室町時代の足利将軍に初めて派遣されましたが、江戸時代の通信使は、徳川将軍の代替わりや世継の誕生などの際に、日本の招きに応じて、朝鮮国からの国書を携えて派遣された外交使節です。                                 

 江戸時代には、豊臣秀吉による朝鮮侵略以後の国交回復を目的として行なわれ、慶長 12年(1607年)から文化8年(1811年)まで200年の間に計12回、日本を訪れています。しかし、朝鮮国の当初の主な目的は、朝鮮侵略のために捕虜として 日本に連れて来られた朝鮮人たちを帰国させるためでした。そして和平の継続でした。

 

 使節の一行は、正使・副使・従事官の三使をはじめとする約500人ほどの行列で、漢城(ソウル)から江戸へ向かいました。その戦後処理から始まった江戸時代の朝鮮通信使は、日本側が捕虜を帰還し、「侵略しないことを宣言」し、朝鮮側は日本の実情をつかみ、本国に知らせる上でも重要な役割をはたしました。長期にわたって「日朝友好のシンボル」として続けられましたが、京都はその大切な舞台でもありました。

 

 使節団は、京都市内の大きなお寺(大徳寺・本国寺・本能寺・方広寺等)に分宿し市内を通って三条京阪から山科を通り大津に入りました。日朝協会京都府連は「通信使の通った道」をできるだけ忠実に通り、休憩したお寺にもたちより住職から古文書を見せていただきながら説明を聞いたことがありますが、当時の絵画や屏風絵・書などが今も大切に保管されています。

 さて、「通信使」が行われるためには多くの準備が必要でした。

 徳川家康が征夷大将軍に就任した1603年の翌1604年 朝鮮の僧松雲太師が対馬に来島し 修交について 話し合いがもたれました。 これは正式の友好使節団ではなく 朝鮮では 探賊使といって 好戦的な日本の偵察と捕虜の送還が目的でした。
 

 対馬の宋義智(そう よしとも)は 一刻も早く 朝鮮と交易関係を築きたかったので幕府に朝鮮使節の来島を知らせました。 家康と 秀忠はわざわざ京都の伏見城まで出向き松雲太師と会見しました。松雲太師は朝鮮人捕虜3,000人を連れて帰りました。さらにその後 1,390人を送還したのです。 儒家などの学者は殆ど帰国したが 薩摩に連行されてきた陶工などは残りました。 これは 彼等の意思で残ったのかも知れないといわれています。

 

 朝鮮では伝統的に 陶工など職人と兵士は、下賎(げせん)とみなされていました。薩摩藩は朝鮮陶工には 朝鮮の風俗 文化 言葉を継承することを命じ 士分扱いとしました。母国にいるよりは待遇がよかったのです。朝鮮の風俗 文化 言葉を継承することを命じたのは 注目に値することです。 近世において 日本統治時代 日本は朝鮮の文化を破壊しようとしたのですから・・・。


 翌 1605年徳川幕府は 二代将軍秀忠の将軍職 関白就任の慶賀の親善使節団を送るよう対馬藩を通じて朝鮮に要請しました。 戦乱の傷も癒えていないし 正式国交もまだないので 朝鮮は 当惑したが 二つの条件を出して 使節団派遣の即答は避けました。 その条件は 一つは家康から先に朝鮮国王に対して国書を送ること。
二つには文禄 慶長の役で 日本軍が行った蛮行の一つである朝鮮国王の王墓を暴き、荒らした犯人を引渡すこと。 

 しかし 先に国書を送ることは 朝鮮に従属的になるし 朝鮮国王の王墓を暴き、荒らした犯人をすぐ特定することも難しい。日本側の対朝鮮外交担当の対馬藩は玄蘇和尚(げんそおしょう)の入智恵で 国書を偽造し 王墓荒らしの犯人として罪人を送ることにしました。 

対馬の宋家は 朝鮮に対する幕府の外務省の働きをしていました。米の実高は 2万石であったが格付けは10万石でした。 

 

 1607年 正使以下 500名の正式外交使節団が来日しました。 対馬藩主宋義智と百名の対馬藩士が江戸まで同行しました。 この第一回から第三回までは 回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)、 つまり 外交案件にたいする回答と捕虜を連れて帰る使節団でした。 

 

 1636年(寛永13年) 第四回 朝鮮使節団から 朝鮮通信使というようになったのです。
朝鮮通信使は 釜山をでて 対馬に寄航し 瀬戸内海を通って 大坂(阪)へ着き、淀川をさかのぼって 淀の淀城や近隣の寺で宿泊しました。 淀から、伏見、京都を経て 徳川家康が 関が原の戦いの後、通っためでたい道で 大名行列も許さなかった現在の野洲市から 彦根までの道の通行を許しました。 この道は 「朝鮮人街道」と呼ばれています。
 朝鮮通信使の日本派遣は1811年を最後にとだえました。 日本は 1854年 神奈川で日米和親条約を締結し 「開国」し 世界と通商を始めました。 しかし朝鮮は 鎖国政策を採り続けたのでした。


 明治元年・明治新政府は 対馬藩主 宋義達(そう よしあき)を通じて 国交修交の書を朝鮮に送ったが 当時の摂政 (せっしょう) 大院君( ダエ イン クン )は国書の受け取りを拒絶しました。 国書の差出人が 天皇という言葉が尊大だと立腹し”皇”という文字は朝鮮の宗主国(そうしゅこく)清国の皇帝のみが使う言葉であると考えたためでした。

 朝鮮通信使伏見人形

 

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6月23、24両日に日本とフィリピンの軍用機が中国の南中国海にある礼楽灘に2度接近した。

2015-06-30 | 人民網日本語版

専門家「南中国海への日本の介入は「火遊び」、中日関係改善に無益」

人民網日本語版 2015年06月30日09:11

 

 中国社会科学院の高洪副所長は25日、「日本は南中国海の域外国であり、南中国海の敏感な問題への介入には危険性があり、『火遊びの要素がある』」と述べた。中国新聞網が伝えた。

 高氏は同日、中華全国新聞工作者協会の「ニュース茶座」で「現在の中日関係」について、国内外の記者の質問に答えた。

 報道によると、6月23、24両日に日本とフィリピンの軍用機が中国の南中国海にある礼楽灘(英語名リード・バンク)に2度接近した。中国外交部(外務省)は「関係国が地域のいわゆる緊張を人為的、故意に誇張し、さらには作り出すことのないよう希望する」と表明した。

 高氏は「日本は域外国であり、南中国海情勢を騒がすことは両国関係の改善に無益だ」と指摘。「日本が南中国海をかき乱し、トラブルを作り出すのは、こう した活動を通じて国際社会を中国の海洋問題に注目させ、東中国海での自らの問題を緩和するのが目的だ。また、日本は米国の『アジア太平洋回帰』の重要な支 点でもあり、海洋問題で日本を利用して中国を封じ込めるのは米国の政府と軍の既定方針だ」「こうした活動は中日関係改善の大局と逆行する」と述べた。

 高氏は「中日両国の海洋紛争は東中国海であり、双方は比較的自制している。中国側は対話と交渉を通じた問題解決を堅持しており、日本側も実際の行動である程度自制している」と述べた。

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連載 14 秀吉が朝鮮を侵略し、明治・大正・昭和の天皇が朝鮮を侵略・併合、嫌いです。

2015-06-29 | 「私がお話し」します。

3、「耳塚」  韓国・朝鮮人は、秀吉と明治・大正・昭和天皇が嫌い

 

 朝鮮人が日本人をあまり好きではない原因は、秀吉が朝鮮を侵略したからです。(1592年~93年・第一次出兵を文禄の役、1597~98年第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という。)韓国では壬辰倭乱(ジンシンワラン)という。

この戦争で、朝鮮の国土を奪い人々を大量に殺したからです。また明治・大正・昭和の天皇が嫌いです。天皇も武力で朝鮮王朝を倒し、国土と国民の命までも奪いつくし、天皇の軍隊が朝鮮人を奴隷のように扱い国土と民族を奪ってしまったからです。そのことが現在まで朝鮮・韓国の人々に大きな損失と心に傷を負わせてきたからです。そうして現在までも謝罪も賠償もまともにしないことが、きらいな大きな理由なのです。

 さて、その象徴ともいうべき史跡が京都にあります。「耳塚」です。

  JR京都駅から 七条通りを東に進み、加茂川を越えてすぐ左に国立博物館、右に三十三間堂が見えます、国立博物館の北隣に、豊臣秀吉を祭る「豊国神社」があり、耳塚は豊国神社の正面100メートルほど行った左側にあります。二度の侵略戦争で抵抗した朝鮮人を捕まえ見せしめの為に「鼻を切れ」と命令し、数万人の鼻を塩漬けにし持ち帰ったのです。その供養塔です。それにしてもひどいことをしたものです。この場所に韓国の青年を案内したことがありますが、彼らは、供養塔の前にひざまずき、深々と頭を下げてじっとしていました。


 

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安倍首相は2013年4月の国会で「侵略の定義は定まっていない」と発言

2015-06-29 | ちょっと気になるマスコミ報道

安倍談話の諮問機構「首相に提出する報告書に『侵略』表現明記」

2015年06月26日10時39分
[ⓒ 中央日報日本語版]

  日本の安倍晋三首相の戦後70年談話(安倍談話)関連の諮問機構が安倍首相に提出する提言書の性格をもつ報告書に「侵略」を明記する方針を明らかにした。

  安倍談話に関する首相の私的諮問機構である「21世紀構想懇談会」(以下、懇談会)の座長代理人、北岡伸一・国際大学長は25日、東 京首相官邸で最終となる第6回会合を開催した後、来月安倍首相に提出する報告書に「(先の大戦で)侵略した事実は書くだろう」と述べたと26日、共同通信 などが報じた。

  「侵略」という表現は戦後50年談話である村山談話(1995年)の核心キーワード(侵略、植民地支配、痛切な反省、心からのお詫 び)の一つで、安倍談話に含まれるかどうかが関心を集めている。また、韓国メディアは懇談会の提言に拘束力はないものの、政府が委嘱した専門家が「侵略は 事実」と指摘した報告書を出した状況で、談話に侵略を明記しないのは安倍首相に負担になるだろうと展望した。

  一方、安倍首相は2013年4月の国会で「侵略の定義は定まっていない」と発言し、「歴史修正主義者」という批判を自ら招いていた。
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連載 13 現在の京都市右京区は、地域ぐるみ朝鮮文化を引き継いでいるところです。

2015-06-29 | 「私がお話し」します。

2、松尾大社は、秦一族の氏神

 

 阪急電鉄京都線、桂駅で嵐山線に乗換え二つ目の駅が松尾駅です。三つ目が嵐山駅です

松尾駅のすぐ前に「松尾大神」の大鳥居が目にはいります。その西側一帯が「松尾大社」の境内です。松尾大社には次のような説明文が出ています。

五・六世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住し、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。松尾大社は、この秦氏がたてた神社です。

また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き 今の「渡月橋」のやや上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開懇して行ったと伝えられております。

酒造については秦一族の特技とされ、室町時代末期以降、当社が「日本第一酒造神」と仰がれるようになりました。

 

奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものとされています。だから秦氏は京都を造った功労者だと言えるでしょう。松尾大社のまつりごとは、秦氏の子孫がつとめるようになったといわれています。

 

嵐山の観光名所の一つに天竜寺がありますが、その前の「嵐電・ランデン」嵐山駅から四条大宮と北野白梅町まで京都の観光名所をゆっくり走る情緒あふれるローカル線があります。秦氏にまつわる地域を走っています。

丁度中ほどに、「太秦広隆寺」と言う駅があり、国宝第一号「広隆寺の弥勒菩薩像」があるところです。韓国ソウル博物館の弥勒菩薩と非情によくにていて新羅の国から伝わってきたのか、新羅の仏師が創ったものだと言われています。太秦には、秦氏が住んでいたことがよくわかる史跡が多く残っており地域ぐるみ朝鮮文化を引き継いでいるところです。

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遠山金さんも大岡忠相も,百田発言には「百たたき]のうえ、打ち首獄門申し付けるで一致したそうな?

2015-06-28 | なんでこんなあほなことが

“つぶれてほしいのは「朝日」「毎日」「東京」”

百田氏 今度はツィッターで

 

 

 沖縄の2紙(琉球新報と沖縄タイムス)を「つぶさないといけない」などという暴言を自民党議員らの会合で語った作家で元NHK経営委員の百田尚樹氏が、27日にもインターネットの短文投稿サイト・ツイッター上で言論抑圧の暴言を繰り返しました。

 問題のツイート(投稿)は、「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です」という もの。沖縄紙に対する暴言への批判には「冗談」「ジョーク」だと言い訳していましたが、今回は「本当につぶれてほしい」と断言するなど、弁解の余地はあり ません。

 全国紙などの主要紙のうち、戦争法案や沖縄米軍新基地建設を推進する安倍政権の立場に近い論調の新聞をつぶしたいメディアから除外した百田氏に対 し、ツイッター利用者からは「百田さんにとって信頼できるのは産経、読売?」という皮肉まじりの問いかけとともに、作家がときの政権に守られながら暴言を 放つなら、「『どんな意見を容認するかは権力次第』となる」と警告する声も上がっています。

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声明文は会合に出席 した議員や百田氏に送付し、県民への謝罪を求める。

2015-06-28 | 琉球新報より

県選出野党議員が自民報道圧力に抗議 「違憲、看過できず」

2015年6月28日

 

  沖縄県選出の野党国会議員でつくるうりずんの会(会長・照屋寛徳衆院議員)は27日、安倍晋三首相に近い自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」に講師 として招かれた作家の百田尚樹氏や出席議員から、県内2紙をはじめ報道機関に圧力をかける発言が相次いだ問題で、抗議声明を発表した。声明文は会合に出席 した議員や百田氏に送付し、県民への謝罪を求める。

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「早ければ来月、遅くとも(光復70周年 の)8月15日以前に訪朝できそうだ」と述べた。

2015-06-28 | 韓国あれこれ・・・

金大中大統領夫人、来月にも訪朝…金正恩と会談も

2015年06月27日11時02分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

李姫鎬(イ・ヒホ)氏
  故金大中(キム・デジュン)元大統領の夫人、李姫鎬(イ・ヒホ)氏が早ければ来月、北朝鮮を訪問する。訪朝すれば金正恩(キム・ジョンウン)第1書記に会うと予想される。

  金大中(キム・デジュン)平和センター理事の金聖在(キム・ソンジェ)元文化部長官は26日、「我々から18日に『李姫鎬氏の平壌 (ピョンヤン)訪問について協議しよう』と連絡し、これに対して北が昨日(25日) 『開城(ケソン)で30日に会おう』と連絡してきた」と伝えた。これを受け、金聖在元長官をはじめとする南側の関係者5人とメン・ギョンイル朝鮮アジア太 平洋平和委員会副委員長ら北側の関係者5人が30日、開城で李姫鎬氏の訪朝日程を調整する予定だ。

  北朝鮮の金正恩第1書記は昨年末、李姫鎬氏あてに親書を送り、金正日(キム・ジョンイル)総書記3周忌の弔花について謝意を表し、 「来年の良い季節に女史が必ず平壌を訪問し、休養しながら楽しい日々を送ることを期待する」と招請した。李姫鎬氏側は当初、5月末の訪朝を進めたが、北側 が留保的な態度を見せ、延期された。金聖在元長官は「陸路訪朝と(平壌)百花園招待所投宿および金第1書記との面談などの日程は、前回に北側が李姫鎬氏を 招請した当時にすでに協議した内容」とし「(30日に開城では)訪朝の時期を主に協議する予定」と述べた。続いて「早ければ来月、遅くとも(光復70周年 の)8月15日以前に訪朝できそうだ」と述べた。

  統一部の林丙哲(イム・ビョンチョル)報道官はこの日、「金大中平和センター側が李姫鎬氏の訪朝申請をしてきた」とし「政府は訪朝の 必要性と申請要件を満たしているかなどを判断し、承認するかどうかを検討する予定」と伝えた。また「政府は南北間の実質的協力通路を開く意味で民間レベル の交流を積極的に支援している」と述べた。統一部の別の当局者も「承認しない理由は特にない」と話した。
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連載 12 京都の都の造営(都市計画)は朝鮮人技術者の指導でつくられたのです。

2015-06-28 | 「私がお話し」します。

第二章        京都は昔から「韓国・朝鮮」と深いつながりがありました

1、京都から、韓国・北朝鮮との友好の花を咲かせよう

京都は朝鮮と深いつながりの土地

 

1、        向日市寺戸町大牧・桓武天皇皇后陵

 

 私が生まれ、住んでいる京都府向日市向日町は桓武天皇が西暦784年奈良の都を長岡京に移した中心、大極殿のそばです。

さらに794年に京都平安京に遷都したのです。だから向日市には桓武天皇皇后陵があり、桓武天皇陵はそこからよく見える京都伏見区桃山町にあります。

 

 宮内庁のホームページには、平成13年12月18日皇居石橋の間で天皇が誕生日を前に恒例となって居る記者会見において「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。

韓国から移住した人々や、招聘された人々によって、 様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。

 そうして日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」と述べています。

 

京都の都の造営(都市計画)は朝鮮人技術者の指導でつくられたのですから、現在も朝鮮とつながりが深い場所や施設が多く存在しています。

朝鮮人の母から産まれた桓武天皇が長い間生活していたのが、向日市と京都なのです。

だから今、この土地に住んでいる私たちが、差別意識をなくし、韓国・朝鮮・との友好親善のために努力することは大変意義深いことだと思うのです。

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「福島原発事故の原因もわからず、収束もできていないのに、再稼働をいうこと自体許せない。

2015-06-27 | 原発再稼動反対・増設・輸出反対

再稼働・増設もダメ

官邸前抗議 声あげ続ける

 

 

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(写真)「すべての原発再稼働反対」とコールする人たち=26日、首相官邸前

 首都圏反原発連合(反原連)は26日夜、首相官邸前抗議行動を行いました。2030年度の電源構成で原発の比率を2割とする政府案を受け、電力9 社の株主総会で、原発の早期の再稼働、新増設などを求める社長の発言が相次ぎました。雨のなか、1000人(主催者発表)の参加者は「再稼働反対」「原発 ゼロを撤回するな」と声をあげました。

 会社の同僚とともに参加した群馬県高崎市の男性(25)は、「福島原発事故の原因もわからず、収束もできていないのに、再稼働をいうこと自体許せない。政府の方針も納得できません。私も声を上げ続けたい」と話します。

 北海道小樽市の女性(77)は初めての参加です。「電力会社に勤めていたときから原発に反対していました。安倍首相は国民の声を聞いていない」と怒ります。

 埼玉県越谷市から参加した女性(68)は、「夫の実家が福島県浪江町です。津波で流された人たちを原発事故のせいで助けられなかったという無念の思いを親戚から聞きました。次世代のために原発をなくしたい」。

 「国は子どもたちの命と健康を守れ!」のプラカードを持つ川崎市の女性(74)は、「このままでは、子どもたちの未来を守れないと思い、ほぼ毎週来ています。原発ではないエネルギーが必要です」と語りました。

藤野議員がスピーチ

写真

(写真)官邸前でスピーチする藤野議員=26日

 日本共産党の藤野保史衆院議員は26日、原発に反対する首相官邸前抗議行動に参加してスピーチしました。「政府が事故被害の賠償を事実上打ち切る 方針を出したことに、怒りが広がっている。福島第1原発の状況は、ぜんぜんコントロールできていない。安倍首相が行うべきは、事故の完全な賠償と、事故収 束に全力をあげることだ」と強調しました。

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自民党の勉強会は、「不勉強」かい。聞いてあきれる本当の話。「文化芸術混乱会」:安倍指導

2015-06-27 | 戦争反対・戦争法廃止

 「左翼に乗っ取られている」 自民、党勉強会で県内2紙批判

2015年6月27日

 

 【東京】25日に自民党本部で開かれた自民党若手議員による勉強会「文化芸術懇話会」で、党所属の長尾 敬衆院議員(比例近畿)が琉球新報と沖縄タイムスの報道に対し「左翼勢力に乗っ取られてしまっている」などと批判していたことが26日、明らかになった。 大西英男衆院議員(東京16区)も「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番だ」などと述べ、勉強会で講演した元NHK経営委員で作家の百田尚樹氏に対し、経団連に働き掛けるよう要請した。政権に批判的な報道機関に圧力をかけ、言論を封殺しようとする自民党の姿勢が浮き彫りとなった。


私のフェイスブックより

 自民党の勉強会は、「不勉強」かい。聞いてあきれる本当の話。「文化芸術混乱会」:安倍指導。自民党の若手は、こんな勉強会をして、安倍提案に手を上げる だけのロボットになっている。最近のロボットは感情表現ができるまでに進歩してきたが、それ以下だと言われても、反論できない「緊急事態」だ。

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連載 11 北朝鮮を四面楚歌におい込んではならない。38度休戦ラインを平和ラインに。

2015-06-27 | 「私がお話し」します。

次は 北朝鮮についてですが。私はならず者国家とは思っていません。

 

  現在北朝鮮は、すでに多くの国際機構に参加しています。1991年9月、国際連合に加盟し・国連食糧農業機関、国際民間航空機関、万国郵便連合、国連貿易開発会議、国際電気通信連合国連開発計画、国連教育科学文化機関、世界保健機関、世界知的所有機関、世界気象機関、国際海事機関、赤十字国際委員会・非同盟諸国、アセアン地域フォーラムのメンバーでもあります。

 

 アメリカが北朝鮮を、「悪の枢軸」と呼び、米国の影響力の強い国々に呼びかけ国際的に軍事圧力と制裁を加えることに対して、北朝鮮は、核兵器を持ってこそ対等に話し合えるのだという立場を強めています。

 しかし、この考えは、間違っていると思います。米国や日本の軍国主義復活に利用されていると同時に 核兵器は、使用することを前提に作られるものであり、北東アジアの平和に有害なものです。北東アジアの国々からも北朝鮮の軍事対応は間違いだと抗議の声が出るのは当然です。


  私は今、我々が思い出さなければならないのは、日本の第二次世界大戦開戦時の情勢です。日本の開戦理由は、一口に言って国際的な四面楚歌です。それを打開するために開戦で突破口を開こうとしたわけですから、北朝鮮を四面楚歌のような立場におい込んではならないと思うのです。

 

最後に、今後のアジアの平和に向けての私の考えですが      

 

私たちは、北朝鮮に対して核開発の中止を求めること。アメリカやロシア、中国にも核廃絶を要求します。日本政府と米国政府にも「制裁や軍事対応ではなく」日朝平壌宣言で確認されている方向に沿って、日本と北朝鮮が国交正常化への話し合いを進め、6カ国協議を通して朝鮮・韓半島の非核化を実現し、国際機関と各国との関係を平和的に発展させ、38度休戦ラインを平和ラインにかえることです。

 アジアにおける米国や日本・韓国の反動支配を許さないことが、南北の平和はもとより、アジアの平和に貢献できる道であると確信しています。

 さらに、日・朝・韓・中の国民のなかに友好運動を活発にし、安倍首相や橋下大阪市長の誤った発言や行動、間違った歴史認識、「在特会」のヘイトスピーチを許さない国民の力を作らなければならないと思います。

 日朝協会はそのためにがんばる決意を申し上げ発言とします。

 

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連載 10 再び、北朝鮮・韓国を犠牲にして戦後日本の国づくりが進められました。

2015-06-26 | 「私がお話し」します。

 

 

  この朝鮮戦争が、日本を大きく変えました。


   日本では、開戦一ヶ月も経たない50年7月、マッカーサーの命令で警察予備隊7万5000人が創設され、後に憲法違反の自衛隊になりました。当時の在日米軍の肩代わりです。

   日本は朝鮮戦争に参加したことになっていませんが、国会で朝鮮戦争協力決議を可決し、日本のすべての力を集めて米帝国侵略軍の肩代わりをし、出撃基地、補給基地としての役わりを果たしたのです。日本は「朝鮮戦争特需」で経済は一気に戦前の水準を回復し、軍国主義復活の足がかりを作ったのです。

   このときも1910年以来の反省はなく、再び、北朝鮮・韓国を犠牲にして日本の国づくりが進められたのでした。

翌8月には、全労連の解散命令レッドパージ 1万2000人と国民への弾圧が行われ、

1951年9月8日、朝鮮戦争のさなか、米国は日本の独立と占領をセットで進め、サンフランシスコ市において「単独講和条約」「旧・日米安保条約」を締結させ、日本を半ば占領し続けることになったのです。

 

   韓国では、「朝鮮戦争」休戦協定(53・7・27)の調印2ヵ月後の10月1日、米・韓相互防衛条約調印・米韓安保が結ばれたのです。その後1965年、日韓条約が締結されました。日韓条約は、日・韓軍事同盟でもあります。こうしてアメリカは、冷戦時代のアジア支配体制の、日・米・韓、防共最前線基地を作ったのです。

   1953年7月まで戦争は続けられ停戦条約・休戦協定が結ばれましたが62年経った現在まで、韓国でも日本でも米軍による半ば占領状態が続いているのです。今もそこに、戦争の火種が残っているのです。

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戦争立法に反対する国会前抗議行動 毎週金曜日 午後7時半~9時半 国会正門前にて

2015-06-25 | 戦争反対・戦争法廃止

人の命のことだから“戦争法案絶対止める”

戦争法案に反対する「自由と民主主義のための学生緊急行動」SEALDsが会見

 

 

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(写真)戦争法案反対への思いを語るSEALDsの学生たち=24日、東京都内

 戦争法案に反対する「自由と民主主義のための学生緊急行動」(SEALDs=シールズ)のメンバーが24日、東京都内で記者会見を開き、国会前抗 議や、東京・渋谷駅ハチ公前のアピール街宣に取り組むことを発表しました。「この社会はよくならないとかいってる場合じゃない。いろんな人を巻き込んで、 戦争法案を絶対に止めたい」と参加をよびかけました。

 定例で行う金曜国会前抗議行動は、26日に4回目を迎えます。幅広い世代で協力して、10万人単位の大きな行動にしていこうと訴えています。

 27日のハチ公前アピール街宣は「国会前より親しみやすい場所で、戦争法案反対の声をあげる場所をつくりたい。政治について知る機会をつくりたい」という思いで企画。学生をはじめ、日本共産党や民主党、維新の党など幅広い政党やゲストを招きます。

 首都圏の大学生9人がそれぞれの思いをアピール。3年生の女子学生は「私は、日本は戦争を起こさず、平和的に解決することに最大の努力をする国で あってほしい。だから戦争立法に反対します」と訴え。同じく3年生の女子学生は「今回の法案が出て、初めてまじめに国会中継を見ましたが、人の命のことな のに、不誠実な答弁で、信用できないと思いました」と話しました。

あす国会前行動

 戦争立法に反対する国会前抗議行動 毎週金曜日 午後7時半~9時半 国会正門前にて

 戦争法案に反対するハチ公前アピール街宣 27日(土) 午後4時~6時 東京・渋谷駅ハチ公前広場

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権力によっ て学問が弾圧されて、戦争に負けるまでわずか10年だったという事実を重く考えている

2015-06-25 | 戦争反対・戦争法廃止

戦争法案 明確に違憲

立憲デモクラシーの会 撤回声明

 

 

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(写真)声明を発表する立憲デモクラシーの会共同代表の樋口氏(中央)と山口氏(右端)ら=24日、衆院第2議員会館

 集団的自衛権の行使容認の「閣議決定」に反対する学者らでつくる「立憲デモクラシーの会」は24日、衆院第2議員会館で会見を開き、「安保法制関連諸法案の撤回を求める声明」を発表しました。

 声明は法案について、「集団的自衛権の行使を容認する点、外国軍隊の武力行使と自衛隊の活動との一体化をもたらす点で、日本国憲法に明確に違反し ている」と批判。「立憲主義をないがしろにし、国民への十分な説明責任を果たさない政府に対して、安全保障にかかわる重大な政策判断の権限を与えることは できない」として法案の撤回を求めています。

 共同代表の山口二郎・法政大教授(政治学)は、戦前、天皇機関説事件などで国家権力により大学の自由な研究が抑圧されたことに触れ、「権力によっ て学問が弾圧されてから、戦争に負けるまでわずか10年だったという事実を私たちは重く考えている。この機会に学者としてなすべきことをしようと声明発表 に至った」と経緯を説明しました。

 同代表の樋口陽一東北大・東大名誉教授は、戦争法案と安倍政権に対し「国会に対する姿勢、法案が出されてからの対応の仕方は、国会を支えている主 権者国民に対する侮辱だ」「さらに他国の議会で、自国の議会にも提出していない法案を、時期を限って成立を約束するというのは、国民主権を前提とし、その 国民がつくっている国家主権にも無頓着な対応だ」と断じました。

 会見には他に小林節慶応大名誉教授、小森陽一東京大教授ら7人が出席。「砂川判決から集団的自衛権の行使は合憲だという結論が導かれることはな い」(長谷部恭男早稲田大教授)、「安倍政権の対話を拒む体質の背景には、民衆は言葉の操作によってだませるという前提が透けて見える」(千葉眞国際基督 教大特任教授)と問題点を指摘しました。

 

    

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