5・18発砲命令が書かれた軍文書、初めて公開
登録 : 2017.08.24 22:09 修正 : 2017.08.25 07:47
5・18記念財団、保安司令部505保安隊の機密文書公開
5月20日23時15分、全南大付近兵力に「発砲命令下達」
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「現場指揮官が自衛次元で発砲したに過ぎず、上部の発砲命令はなかった」という軍当局のこれまでの説明と異なり、「発砲命令下達」という軍の内部文書が初めて公開された。写真は80年5月保安司令部が作成したとされる「光州騒乱」という機密文書=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社
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1980年の5・18光州(クァンジュ)民主化運動当時、軍当局が市民に向けて銃を撃つように発砲命令を下達したという軍の内部記録が初めて公開された。国会、検察、国防部などが行った4回の5・18調査で「現場指揮官が自衛権次元で発砲したに過ぎず、上部の命令による発砲はなかった」と一貫して主張してきた軍の主張を覆すものだ。
24日、5・18記念財団が確保した保安司令部(現、機務司令部)505保安隊(光州地域管轄部隊)が作成したと見られる「光州騒乱」という機密文書によれば、80年5月20日「23時15分戦教司(戦闘教育司令部)および全南大付近の兵力に対し、実弾装填および有事の際の発砲命令下達(1人当り20発)」と記されている。当時、全南大付近に駐留していた兵力は、第3空輸旅団(旅団長チェ・セチャン)だ。チェ・セチャン旅団長(陸軍士官学校13期)は、新軍部の実力者である全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官(陸軍士官学校11期)が第1空輸旅団長だった時に副旅団長を務めた側近だ。
当時、空輸部隊への実弾支給分配の事実が確認されており、発砲がなされて市民が亡くなったにもかかわらず、37年を超えてなお発砲命令者を明らかにすることが出来ずにいた。2007年、国防部過去事真相究明委員会調査記録報告書などによれば、チェ・セチャン第3空輸旅団長は、5月20日午後10時30分「警戒用実弾」を威嚇射撃用として空輸部隊の各大隊に支給した。陸軍本部軍事研究室が出した『光州事態体験手記』(1988)にも、イ・サンヒュ中佐(当時第3空輸旅団13大隊9地域隊長)が「全南大学校で給食後に中隊長、地域隊長にM16実弾を30発ずつ与え、使用は旅団長統制」という記述が出てくる。第3空輸旅団は指揮系統上、上級部隊の第2軍司令部から発砲禁止および実弾統制指示(5月20日午後11時20分)があったにもかかわらず発砲し、5月20日夜、光州市民4人が銃弾に当たって亡くなった。翌日の5月21日午後1時から5時まで旧全羅南道庁前の錦南路(クムナムノ)では空輸部隊員による集団発砲で市民34人が銃に撃たれて死亡した。
だが2007年、国防部過去事真相究明委員会は発砲命令者については「判断不可」として明らかにできなかった。チョン・スマン5・18記念財団非常任研究員は「当時新軍部の実力者であった保安隊が作成した軍の資料に『発砲命令下達』という記述があったことはきわめて重要だ。誰がどうしてこうした命令を下したのか、発砲命令権者を明らかにする端緒になることを願う」と話した。
この日の公開文書には「馬山(マサン)駐留海兵1師団1個大隊、木浦に移動予定」という内容もある。空軍の操縦士が5月21~22日に空対地爆弾を戦闘機に載せて光州出撃待機中だったという証言に続き、新軍部が光州鎮圧に海兵隊まで動員しようとしたということだ。実際には海兵隊は光州に投入されなかった。
光州/チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
全斗煥元大統領の最側近が発砲命令下された部隊の責任者
登録 : 2017.08.25 03:48 修正 : 2017.08.25 07:41
「5月20日の発砲命令」文書によると
5月20~21日、空輸旅団に実弾を配給
発砲命令を下した上部が誰なのか明らかにできず
特戦司令部指揮権の二元化など真実を究明すべき
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1980年5月の光州民主化運動当時、戒厳軍が市民たちを暴行する姿=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社
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1987年6月抗争以降、1988年国会5・18光州(クァンジュ)民主化運動真相調査特別委員会(光州特委)や1995~97年12・12および5・18に対する検察の捜査、裁判の過程などで、1980年5月20日夜、戒厳軍に実弾が支給された経緯は明らかになった。しかし、発砲命令を下した“上部”が誰なのかははっきりしなかった。軍当局はこれまで「偶発的な自衛権発動のレベル」の発砲だったと主張してきた。 5・18記念財団が24日に公開した、505保安隊(光州)が作成したものと見られる「光州騒乱事態」という機密文書に出てくる「発砲命令の下達(1人当たり20発)」という内容は、発砲命令が実際にあったことを示す手がかりを提供している。
■自衛権発動を宣言する前に発砲
同文書が作成された時点は「1980年5月21日未明0時20分」となっている。「実弾の装填および有事の際の発砲命令の下達」の時期は「(5月20日)23時15分」だと、当時保安隊は把握している。5月20日夜11時、全南大学近くの光州駅の前では、第3空輸旅団(旅団長チェ・セチャン)所属の軍人の発砲で市民4人が死亡した。光州で軍が初めて発砲した直後の保安隊の報告に「発砲命令の下達」という内容が書かれていたことは非常に重要だ。5月21日午後1~5時、光州錦南路(クムナムノ)で、空輸部隊の集団発砲で市民34人が死亡した。戒厳司令部が自衛権発動を宣言する方針を明らかにし、自衛権の発動を認めたのは、これらが起きた後の5月21日夕方8時30分だった。
1995~97年の捜査で、検察は「発砲=自衛権」という結論を下した。「上級指揮官や別途の指揮系統にある特定人の具体的発砲命令を受けて行われたものと認められる資料がない」との理由からだった。国防部過去事真相究明委員会も2007年7月「12・12、5・17、5・18事件の調査結果報告書」を発表したが、発砲命令者を明らかにできなかった。ただし、国防部過去事委員会は「『銃器の使用は緊急時でも総長の承認があってから』となっていた」とし、「発砲の場合、陸軍参謀総長の承認を受けるべき重要な事案にもかかわらず、光州での実弾の分配と発砲については公式の報告どころか、責任を問わず、むしろ一部関係者に武功勲章を授与した。少なくとも戒厳司令部当局の暗黙的な支援の下で行われたと推定できる」と明らかにした。
■指揮権をめぐる疑惑
5・18記念財団が公開した文書に出てくる「発砲命令の下達」を行った上部は誰だろうか。光州に投入された第3空輸旅団と第11空輸旅団は、指揮系統上の上部である2軍司令部と戦闘兵科教育司令部(戦教司)司令官の承認を受けずに発砲した。5・18研究者らは、チェ・セチャン第3空輸旅団長などやチョン・ホヨン特戦司令官、全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官につながる非公式的な指揮体系から発砲命令者を探さなければならないと指摘する。「月間京郷」(1989年5月号)のインタビュー記事「チョン・ホヨン、光州事態の責任を明らかにする」に出た発言は、指揮権の二元化を暗示している。チョン・ホヨン氏は当時のインタビューで「事態が悪化すると、発砲するかどうかを問う急電が届き、私は指揮系統にいなかったが、絶対発砲してはならないという命令を下した」と話した。ところが、チョン・ホヨン氏は「5月21日には光州に行かなかった」と強く主張してきた。このため、当時、光州の戒厳軍について全斗煥など「新軍部」が、実際的な指揮権を行使したのではないかという疑惑が持ち上がったのだ。
■軍の内部資料を公開すべき
発砲命令者など、真相を究明するためには、軍内部の5・18関連資料が公開されなければならない。検察の捜査記録などよると、軍の発砲命令と関連した捜査記録の一部がまだ軍事機密保護法などによって公開されていない。検察は5月20日夜、光州駅で実弾を配分した第3空輸旅団長(チェ・セチャン准将)の捜査記録を一部除外して公開した。5月21日、旧全南道庁前で集団発砲を行った第11空輸旅団の指揮責任者であるチェ・ウン准将の捜査記録は削除された。5・18記念財団のキム・ヤンレ常任理事は「調査権を持った真相究明委員会を通じて、発砲命令者と指揮権の二元化問題などの真相を明らかにしなければならない」と話した。
光州/チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)