どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑰―旅の終わりはいつも黄昏時

2011年09月10日 | 日記
名残惜しい気持ちで揚輝荘をあとにし 近くにあったコメダ珈琲店で「たっぷりアイスオーレ」を飲む

名古屋が初店舗とあって ここ愛知県には数多くあるチェーン店らしいが 私は初めて見た

のどが渇いていたせいか ステンレスの大きなカップのそれを ほとんど一気飲み


結局 見学予定のところを幾つか残すことにして 私はごく普通の裏の名古屋を見て帰ることにした

丸の内に「河文」という老舗の料亭があるという

勿論 たとえランチだろうと入れたものではないが 入り口だけでも見ようかと思って 行ってみた

余談だが 名古屋には「八勝館」という「河文」の二分する老舗の料亭が八事にある

地図で検索したところ 広大な土地

料金のほうも 居酒屋10回分かと^^


丸の内でウロウロしていたら もっと面白そうな怪しげな道が目に入った

堀川を渡ると 今までとはまるで違った景色になる

元禄13年(1700年)の大火のあと 道を四間に広げたことから

四間道(しけみち)とよばれるようになったというその一角は土蔵や古い町家が並んでおり 

町並み保存地区に指定されているという

名古屋の町の発祥地といってもいい場所なのだそうだ

町名を那古野(なごの)

でも ナゴヤと読めなくもないね

堀川の水運を利用するため 清洲越えのあと商人が住み着いた結果 こういった土蔵を持つ町並みとなったそうだ


小さな商店街にはスナッや小料理の看板があり 昼間見る私にはなんともしなびて見えたが

あれも夜になれば 光り輝くのだろう

そして私のようなノンベイに 楽しい酒を出すに違いない

遠い過去の町の雰囲気を残したその道からは 高層のビル群やセントラルタワーズが見える

これらはあと何年生き残るのだろうか

過去の遺産に多く触れ 前回の日記の最後に言ったように 建物は語りたがっていると強く感じた旅だった


もうひとつ 多くの人に世話になったことを付け加えておく

建築物も町並みも 確かにそこにある

それを見るのが目的だから 他人がいようといまいと それ自体の鑑賞には何の関係もない

だが 相手は気にも留めていないだろうが 私の旅に間違いなく彩りを添えてくれた

見学と旅の違いはここにある

普段はあまり気にもしないことだが 私も人並み以下ではあっても やはりひとであるのだ

少々こっぱずかしいが 帰りの新幹線の中で撮り溜めた写真を見ながらそんなことを思っていた

旅の帰りは 可能な限り私の好きな黄昏時を選ぶ事にしている

車窓の景色が次第に色濃くなっていく その変化を見るのが好きなのだ

旅は終わった


週末にしか時間が取れず 結果1ヶ月近くもかかってしまった

相変わらず長いだけで 他人の旅日記なんて面白いものではないだろうとはわかっているが

お読みくださった方には 感謝!

書き足らなかったことも沢山あるし

誤字・脱字 その他誤った記載もあるかもしれないが それにはどうか両目を瞑って下さい

以上をもって 私の「旅の記憶」は尾張 じゃなかった 終わりとします

※ 写真は後日公開予定ですが 何分にも9年目のPCは最近いささかポンコツでして・・・どうなるか・・・
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旅の記憶(豊橋・岡崎・知多・常滑・名古屋)⑯―「揚輝荘」の「聴松閣」

2011年09月10日 | 日記
「伴華楼」は 和館に接して作られた(地下室があるらしいのだが)洋館をさす

洋館というよりも 洋間に近い

中には入れないものの 扉や窓は開けてあるので 内部を垣間見ることはできる

腰壁の五色玉石貼りが(これはいたるところに使用されているが)見事

煙突の市松模様も 大正モダンを連想させる

二階の外壁に使ったさわらのうろこ状の板 窓枠など 細かいところにまで気を配った建物だったが

写真を撮ろうとしていると 蚊が飛んでくるのには参った


この北園の庭は 修学院離宮を模したといわれる回遊式

でも あまり庭を愛でる私ではなく ぐるりと一周してから 職員に尋ねた

南園にある「聴松閣」は見ることが出来ないんですよね

でも どこか チラとでも見える場所ってありませんか?

職員 その質問が多いのかどうか ニヤリと笑って

一箇所だけ あります(そうこなくっちゃ!)


教えられたとおりに歩いていく途中の薬局で 虫刺されの薬を買った

すでに三箇所ほど 膨らみ始めている

坂を上りきると 木の陰にはなっているものの 建物の玄関付近が見えた

ハーフティンバーの外壁といわれているが それはわずかにわかる程度


かつてここは 迎賓館の役目を担っていた

外国人 文化人 もちろん経済界や華族などもだろうが 何千人にも及ぶ園遊会も開かれたという

中国やインドなどを旅した祐民は アジアの留学生なども泊めていたようだ

そのせいか地下はインド風であり 壁画も残っているという


時は アジアの政治が大きく動いていた頃 

謎のトンネルもあり 汪兆銘を匿う計画もあったというから 

一体ここでどんな人物によって何が語られ 画策され 秘密や密約が交わされたのか

今は豪華マンションによって分断されたこの地の過去を想像すると 好奇心をかきたてられる

建物だって 語りたがっているのだ  
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