この年齢になって縦走ができるとは、正直思わぬことであった。大鳥池の湖畔のタキタロウ小屋から以東岳から寒江山、龍門山、西朝日岳を経て大朝日岳。山小屋に3泊、食糧やシュラフを担いで行く山行は、古い時代の山登りをわずかではあるが追体験できる貴重な機会である。都会のホテルのような山ご飯を提供することは全くない。辛うじて水とトイレはあるが、生活は背負ったリュックのなかにあるものに頼るほかはない。この記事を書いているのは、この縦走をこなして自宅の戻っていることの証しである。大正い15年の7月、深田久弥は、この大朝日連峰への縦走をおこなっている。
「這松で覆われた頂上は狭いが、その展望は素敵だった。朝日縦走しようとする峰づたいのコースが一目に見渡される。どの山にもまだベッタリ雪が残っているので、2千㍍にも足らぬ連峰ながら、ひどく雄大な感じがする。行く手はなかなか遠い。振り返って来きた道をみると、まだ僕らは朝日連峰の緒についたに過ぎなかった。」
大正時代に深田が抱いたと同じ思いを追体験する得難い機会であった。しかもほぼ全行程を晴天のもとで歩くことができたのは望外の幸せであった。深田の時代には、山小屋などというものはない。寝るためのテント、煮炊きにはテント近くにカマドを作り、枯木を拾い集めて、川で米をとぎ飯盒で炊飯する方法であった。今日の我々には想像を超えた難行が、登山というものであった。
泡滝登山口から大鳥池まで
登山口から大鳥川に沿ってつけられた登山道を歩く。この川には、思い出がある。50年も前の5月の連休の一日。勤め始めて年数もたたない頃だ。当時はまっていた渓流釣りに、後輩とこの川に挑んだ。朝日村にあるたった一軒の釣り宿。そこに泊まって早朝から雪の消えない山道を川に向った。宿には関東方面からの釣り客も入り、一晩、宿の主人の釣り談義を聞いた。囲炉裏に小さく干してあるのは熊の胃である。宿の外に小屋があって、そこに捕獲した熊が飼育されていた。今思えば、大鳥川までかなりの距離だ。スノーブリッジになった川は自由に渡ることができた。かなり奥に入って、岩陰からたった一尾のイワナがつれた。渓流釣りというのが、これほどの労苦の果てに20㌢位のイワナが一尾。その時の疲労と釣りのだいご味は、今も身体の奥に眠っている。
川の沿った山道は、5年前に登った以東岳の記憶を呼びおこした。たしか台風が去ったばかりで、川の水位は高く、ところどころに流された流木の上を越えながらの歩きであった。この日は心配された雨も上がり、朝日に山の木々が光っていた。滝を見て、吊り橋を二つ渡り、七曲りの坂道に着く。朝10時半に登りはじめて七曲りまで2時間ほど。七曲りを登り切ろうとするころ雨が落ちてきた。通り雨である。雨具を着て一息つくと、雨は去っていく。結果から言えば、この雨が登山中に来たたった一度の雨であった。
七曲りを登りながら思い浮かべるのは登龍門という言葉だ。西朝日岳の麓に龍門山があるので、なおさらその思いを強くする。急流を登る鯉の心境だ。この難所を越えろ、さもなければ、大朝日の登頂など思いもよらない。自然の地形がつくる体力テストと言える。Mさんから七曲りを半分、あと四つと声がかかる。大鳥池は東に聳える戸立山からの花崗岩の大石を含む土砂の地滑り崩落によって沢が埋まりできた。水深は最深部で65ⅿであったが、昭和の初め、下流の田地の灌漑のために流水口に堰を作り、湖水の水を3m上げた。大鳥池にはこんな人工の手が加えれている。七曲りには、湖水から水が沁みだし、所々に水の飲み場ある。それを飲みながら、足の疲れに気合を入れて登りきる。
タキタロウ小屋の前に雨具の干場がある。ここで濡れた雨具を干し、小屋に入って雨のしみ込んだ衣服をハンガーにかけて着替え。持ってきたビールとつまみでとりあえず乾杯。明日の晴れを祈る天気祭りである。