友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

タコには何も罪はない

2010年07月10日 23時05分45秒 | Weblog
 教訓は全く生かされていなかった。お酒を飲んでブログに書き込んではいけないのに、夢うつつでパソコンに向かっている。けれども決して常識を逸脱するようなことは書かないだろう。半分眠くて、起きているのか眠り始めているのか分からないのに、ブログに向かおうとしている。

 今日は何を書きとめておきたかったのか、思い出そうとするけれど、何も浮んでこない。サッカーW杯では決勝戦はスペイン対オランダ戦が日曜日の夜中、むしろ月曜日の朝方に行なわれる。大方の予想はスペインの勝利だ。ドイツとスペインの準決勝戦をテレビで見たけれど、これまでの試合とは全く違っていた。守って勝つ、そんな文字通りの試合だった。どうしてこれほど勝つことにこだわるのかと、一瞬は思ったけれど、私が監督であればやはりそうしたであろう。いやむしろ、私ならばもっと前から一戦一戦が慎重すぎるくらいに慎重な作戦だっただろう。

 守ることは大事なことだけれど、守ってばかりいたなら勝つことは出来ない。ドイツも終始守るつもりでいたとは思えないが、スペイン同様に初めは守っていく作戦だったであろう。ドイツが初めから点を取りにいくことに全力を注いでいたなら、局面はかなり違っていたはずだと、当事者でない私は無責任にそんなことを思っていた。結果的に、スペインが勝利したということは、やはりW杯の勝者はスペインなのだろう。

 オランダが優勝でもすれば、互角に戦った日本チームは大きく評価されるであろう。けれども現実は、スペインが優勝杯を手にするであろう。タコのパウル君(どうしてこんな名前がついたのだろう?)が槍玉に上がっている。ドイツとスペインの戦いで、スペインの勝利を予言したからだ。タコがたまたまドイツの水族館で飼われていたから、ドイツ贔屓の人たちの反感を買ったのだろう。それにしても人間は誠にずるいし、身勝手だ。タコにいかほどの罪があるというのだろう。

 先のことを予言することは実際には出来ないことだ。けれども過去のことならば、もし、でも、と歴史を改ざんするように、求めるようなことは何時の時代にもある。先のことは誰もが予言できないのであれば、「神」に任せるしかない。過去のことは紛れもない事実だから、これを変えることは出来ないが、その解釈は幾通りも出来る。自分自身の過去であっても、あの時のあれは、本当はこうであったとか、済んでしまったことを後からいろいろと解釈しようとする。

 辻仁成さんの『サヨナライツカ』を読み終えた。馬鹿馬鹿しいと思いながら、涙が止まらなかった。この作者、やるじゃないかと思った。小説を読んで泣くなんてことは滅多にない。けれども泣けてしまった。辻さんはまだ若い作者だけれど、読者を泣かせるものを持っていると感心した。それと同時に、この作品は人の人生における終末を描いているのだから、作者はこれ以上の作品は書けないのではないか、そう思った。生きていることの意味、愛することの歓びをこのように書き上げてしまうと、次に何が書けるのだろうか、そう思った。
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子どもから大人へ

2010年07月09日 20時23分14秒 | Weblog
 隣の小学校のプールから、歓声とハンドマイクで呼びかける先生の声が聞こえてくる。プールの季節、子どもたちは元気がいい。いいや、子どもはいつも無邪気で元気だ。それなのに、自分の家に火を放ったり、イライラしたからと駐車している車に火を点けたり、ビックリするような事件が続いている。川で遊んでいて、わざと背中を押して溺れさせたり、悲惨な事件ではコンクリート殺人事件もあった。確かこれも10代の子どもが起こしたことだ。

 小学校の運動場を眺めていると、本当にみんな元気に無邪気に遊んでいる。どうやらクラスは2つか3つのグループに分かれ、男の子同士や女の子同士が圧倒的に多いが、意外に男女混合のグループもある。運動場を見ている限りでは、ひとりでポツリといる子はいないように見える。こんな風に一見仲が良いように見える子どもの世界でも、学年が上がるとともに、違った要素が生まれてくる。先日の小学校のクラス会で初めて知ったけれど、女の子は2つのグループに分かれていたそうだ。男の子は、リーダーだった子が転校したので、強力なボスが存在しなかった。

 それでも目立つ子が中心になって、ヤンチャをしていたらしい。すると目立つ子のせいにして、ヤンチャを煽る子もいたらしい。私は学級委員や児童会長をしていたが、ほとんど記憶にない。おとなしくて消極的な性格を直そうと思うようになったのは小学校の5年生の後半で、そのために児童会長にも立候補した。何とか積極的な、大きな声が出せる、男の子になろうと決めていた。

 中学生になった時、国語の先生が「君たちはもう大人だ。だから、父ちゃん、母ちゃんとは呼ぶな。お父さん、お母さんと言いなさい」と言われた。なぜかその時、そうだもう自分は大人だ。大人はひとりの人間として独立した存在だ。自分は独立した存在なのだから、しっかりと自分を磨いていこう。人間を高めていこう。そう思った。母親が「男はジェントルマンでなくちゃダメだよ」と言っていたことと重なり、紳士であることが大人なのだと思った。

 中学生になって、自己改革は完成した。自分の中に閉じこもり、積極性に欠けるおとなしいだけの子どもから、紳士である大人に変身した。付いて回りの子どもから、クラスをまとめていく大人になっていた。しかし、大人になるということは同時に人間としての存在の矛盾に気付くという課程でもあった。純真にひとりの女性に恋しているのに、恋とは正反対のエロスに曳かれている。事実と妄想、理想と現実、愛と憎しみ、相反する矛盾をうまく整理することができなかった。

 子どもたちの犯罪を新聞やテレビで知る。もう少し、どこかで誰かが、声をかけてあげていたならきっと防ぐことができたであろうと思う。正常も異常も、実に紙一重の差だと思う。あんなに無邪気に遊んでいる子どもたち、純真で何の恐れもない子どもたち、それが大きくなるに従い、他人に暴力を振るったり、家族を痛めつけたり、さらには人殺しにまで行なってしまう。どこかにワナがあるのではないのか。人の優しさ、人の愛、人の温かさ、きっともっと触れていたなら、人を傷めたりはしないだろう。どこまでも人間は愛されることを求めている。
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七夕原稿喪失事件

2010年07月08日 19時34分20秒 | Weblog
 中学時代からの友だちが、「お酒を飲んだらブログは書かない」と言っていた。やっぱり真面目な男だなあと思ったけれど、自分もそうしようとは思わなかった。そんなことを決意したなら、私はこのブログをほとんど毎日、立ち上げられなくなってしまう。晩ご飯前に書き上げてしまえばよいことなのだが、それがどうしてなのか、できない。日記は夜、一日が終わって、思いついたことを書き留めておく、そういうクセがついてしまっている。

 昨夜はほぼ半分以上、食事前に書き上げてあった。義弟が送ってくれた白ワインが冷蔵庫にあったので、ふたりで飲みながら食事をした。私はどちらか言えば、お酒を楽しみながら食事をする方なので、食事はつまみになってしまう。そうなると、だらだらとお酒を飲み、ご飯は最後に少しあればいい。昔は最後に必ずご飯を食べたのに、この頃はなくてもかまわないようになってきた。しかしカミさんは、お酒は食事に必要な「食前酒」なので、欠かせないけれど、あくまで食事が中心である。

 初めはテレビのことなど話し合いながら食事をしているけれど、カミさんはご飯を食べ、私はお酒を飲む。そうこうしているうちに、カミさんは無口になり、何時しか居眠りを始める。私は仕方なくまたお代わりをする。7時半頃から食べ始めて、そろそろ席を立たないとブログができないぞと思い、10時頃にはパソコンの前に移動する。そうして昨夜も、長々と1300文字ばかりを書き上げ、これでよしとばかりに、初めから読み直していた。そのはずだった。気がついたら眠っていた。時計を見たら11時を過ぎていた。1時間もパソコンの前に座っていたのか。そう思いながら、操作していたら、突然原稿が消えてしまった。

 上書き保存を行なったはずだったのに、書き上げた原稿に白紙を上書き保存してしまったのだ。慌てていろいろやってみたけれど後の祭りである。悔しいけれど、私の能力ではどうしようもない。酔いがいっぺんに醒めてしまった。だから、友だちの「酔ってブログはしない」を教訓にしなくてはいけないのに、全くダメだ。パソコンに精通している友だちは「メモからやるといい」といつも言うけれど、メモってどこにあるのだろうという程度なのだ。全く困ったものだ。これで2回目だ。失敗を教訓化できない人間は成長しないというが、本当だなと思う。

 失ってみると、実はたいしたものではないのかも知れないものが、本当は凄いできの良い文章であったようにさえ思えてくる。失くして初めて、人は失くしたものの大切さを知るというけれど、これだけは真実のようだ。昨夜は七夕である。1年に1度しか会えない男女のように、1年に1度しか書けないような傑作だったことにしておこう。そんな風に思わないとまた失敗を繰り返すような気がする。でも逆にその方が自分らしいかと、自己弁護も忘れないのだからおかしなものだ。今日はご飯前に出来上がった。やればできるじゃないか。
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一途もいいけれど、フラフラしてもいいじゃないか

2010年07月06日 22時03分36秒 | Weblog
 友だちが「立ちくらみがする」と言い、今朝の会議を欠席した。どうも見ていると彼は夏場に弱い。何時だったか、貧血になって倒れたことがある。最近の彼の様子を見ていても、元気に波がある。暑い時だから無理せず、担当の記録係りに努めてくれればいいよいと言うのだが、本人は仲間としてじっとしていることは出来ないようだ。口も出すが、真面目だから身体も動かそうとする。そんな真面目な性格は毎日怠けずにエアロバイクに乗り、身体を鞭打つことを欠かさない。もう、私たちも年寄りなのだから、身体を鍛えることに誠実になる必要はないと思うけれど、彼は黙々とやりきることに歓びを感じているようだ。

 彼は大学ではラグビー部であったというから、体育系の人は何時まで経っても身体を鍛えることを使命と思っているのだろう。怠けるという気持ちを、情けないというか悪と思っているのかもしれない。他人のことまでとやかく言うことはないけれど、歳をとってきたのだからもう適当でいいのではないだろうか。もちろん何が何でも長生きしなければならないような事情があれば、そのために健康管理に人一倍気を配っているかもしれないが、そうでもなければ65歳を超えれば、あとは儲けものと思ってもいいのではないだろうか。

 小学校のクラス会で、三途の川を渡り損なった人が3人もいた。三途の川の周りはとてもきれいな花が咲いていて、川面もキラキラと輝いていたそうだ。もっといいところへ連れて行ってもらえるところで、名前を呼ぶ声がして現実に引き戻されたという。この世とあの世を行き来した話は他でも聞いたことがあるけれど、私は自分にそんな体験がないので、まあそんなものだろうと思ってしまう。人は自分が得た知識からどんどん空想を膨らませることができるものだ。そんなわけで、私は霊とか霊感とかを、ふんふんと聞いてはいるが全く信じていない。そういう人間の知識を超えたものがあるのだろうとくらいにしか考えない。

 ドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』の上映を実力で阻止しようとする人々がいる。映画は観ていないけれど、悪書追放運動と重複してしまう。事実と違うとか、日本の食文化を理解していないとか、いろいろ言われているけれど、こんな映画はダメだ、こんな書物は悪だと言うのであれば、見なければいいのにと思ってしまう。どこかの県会議員が官能小説を政務調査費で購入していた。私は、へぇーこんな人でも官能小説を読むのだと感心したが、そんな私的な楽しみは公金を使うべきでないと判断できない幼稚性に呆れてしまった。

 官能小説にしても、意図的に作られたドキュメンタリーにしても、右でも左でも、あることが健全だと私は思っている。いろんな人がいるのに、これしかダメとかこれしかないということはあり得ない。霊を信じる人もいれば、数学的世界しか信じない人もいる。いろんなものの存在を許し、受け入れ、咀嚼できる自分になっていくことが大事で、そのためにはこれはダメ、あれもダメと遠ざけることではないと思う。一途もいいけれど、ふらふらしてもいいじゃないか。
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電車の中の出来事から

2010年07月05日 21時52分33秒 | Weblog
 電車に乗ると、乗客の半分は携帯電話を触っている。確かにケイタイがなくなったら、困ってしまうだろう。ある人にとっては唯一の連絡手段であり、ある人にとっては唯一のつながっている道具なのだろう。中学時代からの友だちのブログを見ていたら、そんな車内の事件が載っていた。今日はブログのネタが浮ばないので、ちょっと拝借する。

 「私の後ろの座席に座っていた80歳を超えたと思われる男性が、私の反対側の優先座席でケイタイをいじっている20代前半の女性のところに、ツカツカと寄っていき、盛んに何かクレームを付けている。ご老人の余りの剣幕に私は事情を把握しかねていたが、20代の女性が反論している様子で多少事情が分ってきた。つまり、混んだ列車で先の停車駅からお年寄りが乗ってきてずっと辛そうに立っているのに、優先座席にただノホホンと座っていて、なぜ席を譲らないんだと20代の女性にクレームを付けていたのだ。

 20代の女性が急にムッとして黙りこくってしまったのが、さらに気に入らなくなったのか、「君らはこの席にはペースメーカーを入れてる人が座っているかも知れないのに、なぜケイタイの電源を切らないんだ」と興奮気味に喰って掛かっている。列車のドアーが開き、20代の女性が無視して出ようとするとご老人は20代の女性の二の腕あたりに平手打ちを食らわした。さすがに20代に女性は声を荒げて、『何をするんですか?』と目を吊り上げて、そのご老人に抗議を開始する。ご老人は『君らは口で言っても分らないから、叩いたんだ』と開き直る。

 外観上は、まるで祖父と孫に喧嘩である。周囲に人の輪ができ始める。20代の女性は精一杯、ご老人に蔑みの眼差しを浴びせながら、足早に階段方向に向かって行った。20代の女性の二の腕に平手打ちをしたのはまずいが、自分が年寄りになってきたせいか、どうしてもご老人の方の肩を持ってしまう。少なくても20代の女性には混んだ列車の中でお年寄りが立っていれば、ぜひとも譲ってほしいと思うのである。」

 そうか、あなたはご老人に味方するのか。あなたの文章を読んでいると、私はご老人に「やめなさい」と声をかけてしまいそうだ。確かに、思いやりが足りないなと思える若者が多いけれど、ご老人も優先席に座る権利があるのだと思い込んでみえる。誰もが同じ料金を払って乗っているのだから、やはりそこは年の功を発揮して欲しかった。「申し訳ないけれど、座らせていただけないか」とか、「悪いけれど、座らせてもらっていいかな」とか、へりくだって言葉をかけることはできたはずだ。

 けれども、そのご老人は優先座席にノホホンと座っている20代の女性に腹を立てているから、「なぜ席を譲らないんだ」という気持ちの方が強く出てしまっている。ご老人が本当に立っているのも辛いようであれば、若い女性もきっと席を立ったかもしれない。けれども、ご老人の「君たち若いもんはダメだ」という気持ちが余りにも前面に出ていたから、反抗心が先に立ってしまったと思う。そこでさらに悪いことは、ご老人が若い女性に暴力を振るい、「口で言っても分からないから、叩いた」と平気で言ったことだ。こうなってはご老人の肩を持つのは難しくなる。

 こうなる前に、「まあまあ」と割ってはいることができるのは、同じ年寄りの役割だ。嫌な思いをするかも知れないが、それこそが思いやりというものだと私は思う。
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スポーツと勝負

2010年07月04日 21時45分30秒 | Weblog
 相撲協会は今日、野球賭博に関係した大嶽親方と大関琴光喜を解雇した。また、仲間内でお金を賭けて花札をしていた横綱白鵬が陳謝した。琴光喜は愛知県岡崎市の出身であり、郷土が同じ三河というだけで落胆も大きい。内気な性格から出世できないと言われていたのに、性格の弱さがこんな風に出てしまったのかと思うと残念だ。仲間内でお金を賭けて遊ぶことはよくある。家庭マージャンでも「お金を賭けないと本気になれない」とか言って、家族でもお金を賭けてやっているケースはある。我が家でもトランプ遊びが家族で流行っていた時、お金ではなかったが1番の勝者から順に好きなケーキを選ぶ権利が与えられた。

 勝負に対して、勝った方には褒美を、負けた方には罰を与えることは、そうすることが励みになるのだと昔から行われている。だから人はいつも勝とうとする。それはただ、技量を磨いたり、知識を蓄えるための方法の1つに過ぎなかったはずだけれど、勝負に参加するあるいは本人の意思に関係なく参加することになってしまった人は、勝つこと自体が目的になってしまう。人は目標があれば努力するけれど、目指すものがなければ何をしてよいのかわからなくなる。目標はいつも勝つことではないけれど、勝負はもっとも分かり易い目標となるのは事実だろう。

 それにしてもと思う。サッカーW杯を見ていると、絶対に強いと思っていたブラジルやアルゼンチンが負けている。全力を投入し、120%の力を発揮し、攻めて攻め抜いていたにもかかわらず、結果は負けである。辛いだろうが現実である。勝者がいることは敗者がいるということである。どうしても勝者に目がいってしまうし、その功績を讃えたいのは当然だと思う。けれども、敗者と勝者の間にどれほどの差があるというのだろう。勝負はどちらかに決めなくてはならない。ケリがつかなければPK戦で決めなくてはならない。

 私はスポーツを好まなかった。身体を動かすことは好きで、走るのは速い方だったけれど、どうも根性がなかった。努力しなければ勝てないことが嫌だった。繰り返し身体を鍛え、技術を磨き、鍛錬を積み重ねることが苦手だった。根性が無いというよりも根性が腐っているような子どもであった。孫娘がひたすら練習に打ち込む姿には頭が下がる。長女のダンナは好きなこととは言え、音楽に夢中になっている。仕事をし、家事を負担し、なおかつ好きな音楽に時間を注ぎ込むのは容易なことではない。

 周りを見渡すと、地道に努力をしている人の方が圧倒的に多い。普通に地道に毎日を送っている人は、その毎日の小さな勝負の積み重ねに打ち勝っているのだろう。そう思うと、人はいつも勝負をしているのかもしれないが、勝負の結果にこだわってはいないのかもしれない。いやむしろ、毎日の勝負の連続の中にいるから、勝負そのものに気が付かずに暮らしているのかもしれない。勝負の1つひとつにこだわることのないままに生きているのが普通の人間なのだろう。
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お金がいらない人はいないが‥

2010年07月03日 23時09分26秒 | Weblog
 昨夜、サッカーW杯のブラジルとオランダの試合を見ていた。と言うよりも、試合開始早々にブラジルが1点を取ったところまで見て、やはり圧倒的にブラジルの勝ちだと思って眠ってしまった。ところが今朝のテレビニュースで、オランダがブラジルに勝利したと知った。一発勝負のトーナメントではどんなに強いチームも負ければそれで終わりである。人生はやり直しができるけれど、スポーツの試合ではそういかないから面白いのだろう。全戦全勝のチームがあるはずはなく、どんな強豪のチームでもどこかで何かが作用して負けてしまうこともある。だから逆に、大番狂わせも生まれることがあり、それが人々を惹きつけるのだろう。

 ギャンブルが好きな人がいる。パチンコにしても競馬や競輪にしても、宝くじにしても、買う人の中のわずかな人しかお金を獲ることはない。もし、お金を得る人の方が多いようならそれを主催する側は破産してしまう。主催する側になれば、必ず大金持ちになれるだろうけれど、主催する側は国や地方自治体の許可と援助の下に行なっているので、にわかに主催者なれるわけではない。相撲界を揺るがした野球賭博も公に認められたものではないので、勝った金をよこせだの負けた金を払えだの、トラブルがつきまとう。だから暴力団が存在できる。

 私は兄がギャンブルに溺れ、ヤクザまがいの男たちが我が家にやってきた時に丁度家にいた。怖いと思わなかったけれど、何と馬鹿馬鹿しいことに巻き込まれたのかと思った。自分は絶対にギャンブルはしないと決めた。ギャンブルは負ける人が多くいなければ、勝つことは出来ない。こういう馬鹿げた仕組みに組み込まれることが許せなかった。もし仮に、何万分の1なのか何百万分の1なのか、そういう幸運の持ち主になったとしても、そのためには何万のあるいは何百万の人の犠牲が必要である。これは私には許せない生き方である。

 好きな人が好きなことをやるのは勝手だけれど、少なくとも自分はやらない、それが私の信条である。議員をしていた時、よく証券会社とか先物取引会社から電話が入ってきた。「絶対に儲かります」と言う。「儲ける気持ちはない」と答えると、中には「そんな人はいないはずだ」と決めてかかってくるからビックリする。「世の中には、お金を儲けたいと思っている人もいれば、お金を儲けようと思わない人もいるんだよ」と教えるけれど、全く聞く耳を持たない。「そんな人はいないと言うならば、それでいい。否定する気もない。それでも私はお金儲けがしたいとは思わない。そんなヘンな人が世の中にはひとりくらいはいてもいいでしょう」。

 電話をかけてきた若い男の言うように、「お金がいらない人はいない」と私も思う。だって、お金がなければ生きていけない。それが資本主義社会なのだから当然のことだと思う。けれど、そこそこ生きて行ける範囲でいいと思う人はいるだろう。もちろん、お金がいらないと思っているわけではないが、たとえばギャンブルで儲けようとか、先物取引で儲けようとか、要するに労働もせずにお金だけを得ようとは思わない人である。人は働いて、その対価として賃金を得る。それを「働かなくてもお金儲けができますよ」と言われて、乗っかるほど私はお金に余裕がないということでもある。
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人間のオスは複雑で面白い

2010年07月02日 21時33分29秒 | Weblog
 一歩も家から外に出ない日が続いている。誰にも会わないとなると、途端に無精になる。誰かに会うというわけではないので、髭を剃るのも面倒になる。年寄りがだらしなくなるのは、こうした無精から始まると言われている。遺憾!そう思って顔を洗い、髭を剃り、身支度を整えて、ルーフバルコニーへ出る。種まきから育ててきたサルビアを鉢に植え替える。今年は種まきが遅かったためか、大きく育っていない。鉢に植え替え肥料をやれば少しは遅れを取り戻すだろうか。午後にはにわか雨になりそうという予想に反して雨は降ってこない。

 80平方メートルほどの家の中を行ったり来たりする。今年は胡蝶蘭がよく咲いた。水コケの交換は止めた方がいいかのなと眺め、それならシンビジウムは古い株を取り除いてやろうと、ベランダに座り込む。終わって、さて次は何をすべきかと部屋を見回し、雑巾がけをするが、ちょっと身体を動かしただけなのに、どっと汗が噴出してくる。適当なところで止めてしまい、ごろりと横になって辻仁成さんの『サヨナライツカ』を読む。映画のサブタイトルに「この愛は、純愛ですか不純ですか」とあったことがどうにも引っかかるのだ。

 誰からも電話もメールもない。すると電話が鳴った。以前に大和塾で行なった件での問合せである。「三味線のルーツを話した人の楽器資料館に行きたいけれど、どこにあるか」と言う。やっと人と話すが、用件が済めばそれで終わりだ。ひとりで昼食を作り、テレビを見ながらひとりで食べる。小学校の時のクラス会を開いた時、「お互いに歳をとったね」と言われてしまったけれど、小学校の卒業アルバムを見ればそこには12歳の初々しい子どもたちの姿しかないから、それからの54年もの月日の流れはビックリするものがあって当然だ。

 参加できなかった人全員に、皆さんからいただいた“一言”のまとめと卒業アルバムの写真の複写および隣のページの名前をコピーして送った。今日、何度か電話したけれど話ができなかった人からお礼のハガキが届いた。「次回のクラス会には体調を整え、出席できればと思っています。同封された卒業写真と名簿とを照合し、物故者一人ひとりのご冥福を祈らせていただきました。お互いに身体に気を付けて元気に会える日を楽しみにしております。」写真を複写して送るなどといらぬことをしてしまったかと思っていたが、役にも立っているようなので安心した。

 お昼前に電話をくれたご婦人が「もう、出ないのですか?」と言う。先日、街で出会った人も「何をしている?」と聞くので、「もう、何もしていません」と答えると、「残念だね。あなたのような人が必要なのに」と言われた。ありがたいことだと思うけれど、もう私は用済みだと思っている。若い頃に「男は勃起しなくなったら終わりだ」などと言い合っていたけれど、医者に言わせると「野心を失うと勃起もしなくなる」そうだ。社会的な責任や野望は、それはストレスであると共に男の生き甲斐でもあるのだから、人間のオスは複雑で面白い。
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7月1日とりとめもなく

2010年07月01日 22時56分49秒 | Weblog
 7月になってしまった。サッカーW杯で頑張った日本チームがもう帰国してきた。サッカー協会はお金がないのかな、どうして最後まで南アフリカに留めて、決勝戦まで観戦させてあげなかったのかと思う。本当に次の世代を育てたいのであれば、そのくらいのお金は投資すべきではなかったのか。岡田監督は監督を辞任するようだけれど、燃え尽き症候群ならば当然だろう。それをどうこう言うつもりは全くない。何時の時代も、どんなことでも、必ず次が出てくる。次が期待通りか、そうでないかは二の次だ。

 さて、今日は7月1日。1年の半分が過ぎたのだ。そこでどうするのか、元旦に1年の抱負を抱くように、残りの半分に対する決意を語るべきかもしれないが、全く何も見えないでいる。それよりも先ほどから私の身体の周りを、音もなく飛び交っている蚊のいることが、気になって仕方がない。アルコールで高くなっている体温を感じて、蚊が寄ってくるのだろうけれど、それならばそれで、腕なり足なり額なりに止まってでもくれたならば、一発お見舞いしてやるのに、傍まで来てはまたどこかへ行ってしまう。

 じっーと、蚊が止まり血を吸い出すまで待つのか、辺りを見回して隠れていそうなところを見つけ出すのか、気にせずに放っておくのか、そんな馬鹿なことを考えながら、しばらくボォーとしていたが、蚊の方が警戒しているのか動きがない。民主党の菅直人首相は、盛んに消費税について触れている。これまでの首相ならば、選挙でマイナスになるような消費税問題には触れてこなかった。それをこの選挙戦の中であえて口に出すのは、国民にはっきり負担を強いる首相こそまともな人物なのだとアピールしたいのかもしれない。

 菅さんは、「自分は未来を見据えた偉大な政治家」と言いたいのだろうけれど、それでは安易過ぎると思う。自民党政治の弊害がどこにあったのか、その構造を明らかにしたならば、自民党との連携はありえないだろう。かつて、自民党と連携した村山内閣が、いっきに社会党を潰していったことを菅さんは覚えているだろう。村山内閣は棚ボタであったけれど、民主党は選挙で政権を取った。その違いを忘れ、政権維持だけに目を奪われているならとんでもないことになりかねない。今の民主党を見ているとそんな気がしてならない。

 孫娘が我が家にやってきた時、玄関で靴をキチンと揃えて上がってきた。それで私の知り合いが酔った席で話していたことを思い出した。彼は付き合っていた女の子とラブホテルへ行った時、彼女が玄関で靴を揃えて脱ぐのを見たそうだ。そればかりか、彼女は着ていた服を脱いだ時、キチンとたたんだので感心したそうだ。そして、この娘と結婚しようと思ったと言う。もちろん、その判断は正解だったと。その話から私は次女のことを思い出した。次女は幼い時、洋服をキチンとたたまないと寝られない子だった。「早く寝なさい」と急かされると、「まだたためないもん」と泣いていた。

 孫娘も、きっと几帳面で家庭的ないい奥さんになるだろう。次女は「本当のことを言ったのに」と言って泣いていたが、孫娘は「何も言わなければうまく収まる」と言う。政治家は孫娘タイプだろうけれど、苦しくないだろうかと心配になる。
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