友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

準決勝とサボテンの花

2018年08月20日 18時11分51秒 | Weblog

 

 友だちが「今朝、マンションの通路脇に置いたサボテンの2鉢、同時に花が咲きました」とメールをくれた。すぐに見に行くと、1鉢に4・5株くらいのサボテンが窮屈そうに植わっていて、そこからかなり大きな花が咲いていた。匂いはないが、美しく見事な花だ。友だちはマンションの花の世話をしているグループのメンバーで、私とは同じ歳だ。

 「時々、お花を持って行ってしまう人がいるので、見張り役のつもりで夏前に置いたんだけど、もう3回も花が咲いたの」と教えてくれた。我が家のサボテンはほとんど花が咲かない。どういう訳なのだろう。新聞販売店が何かの記念に購読者に配布したもので、もう何十年にもなる。水も肥料も与えたことがないからダメなのか。

 高校野球はまた、私の予想と違った。準決勝の第1試合は金足農と日大三高だった。いくら金足農の吉田投手が凄い球を投げるとしても、これだけ連投が続いているし、打撃力のある日大三高を抑えることは出来ないだろうと思っていた。ところが、日大三高の選手はここぞというところで打てない。まあ、そのうち打てるようになる、きっと金足農の投手は力尽きるはずだ。

 そう思っていたのに、最後まで投げ切り、日大三高は敗者となった。回が進むにつれ、金足農への応援は大きくなっていく。吉田投手が三振を取れば、スタンド全体から歓声が沸き起こる。弱いと思ったチームが勝利をつかんだ瞬間、観客席がどよめいた。それでも負けた日大三高も爽やかだった。もちろん、涙を流す選手もいた。負けることは悔しい、しかし仕方ない。

 第2試合の済美と大阪桐蔭は、松山出身の友だち夫婦には申し訳ないが、私の予想通り大阪桐蔭が勝った。多分、明日の決勝戦は大阪桐蔭の春・夏連覇が実現するだろう。先ほど、サボテンが見事な花を咲かせた原因が分かった。朝の友だちから、「サボテンが家にあった時、白い粒の肥料をボクが何回もやったからだと夫が威張ってます」とメールが来た。やっぱり、放っておいては咲かないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

窃盗事件の責任

2018年08月19日 16時37分26秒 | Weblog

  歌手の五木ひろしさんの新曲『VIVALAVIDA!~生きてるっていいね!~』を聴いた。「VIVALAVIDA」って聞いたことがある気がした。日本では「美しき生命」と訳されたイギリスの歌だった。英語が分からなかったが、かなり意味のある歌だった。五木ひろしさんは、「終わりよければすべてよし」と歌っていたが、そう言い切れるならそれでいい気がするのに、それでいいのかなと思ってしまう。

 昨夜は涼しかったのに、なぜだか眠れなかった。これまで1度も夢に現れたことのなかった最後の職場が出てきた。最初の学校と同じ工業高校だったが、各科の1年生に美術を教えていた。彼らにとっては息抜きのホッとできる時間だったから、楽しめるようにとテーマを考えて取り組んだ。「美術クラブを作りたい」と言われた時は嬉しかった。美術室はあったが、格別に備品があるわけではなく、やりたいことを手助けするしかなかった。

 美術室の隣が準備室で、そこが私の居場所だった。一番悔やまれるのは、新学期の初め、全員にスケッチブックを買ってもらうが、その集めたお金を私は机の引き出しに入れていた。私がトイレに立った僅かな時間、部屋に戻ると引き出しが空いていた。ここに金が入っているのを1年生は知っているから、1年生全員の指紋を取れば犯人はすぐわかる。けれど、そんなことをしていいのかと思った。

 組合のリーダーと教頭には相談した。教頭は学校での犯罪が公になることを恐れたし、組合のリーダーは私と同様に生徒を犯罪者扱いすることに嫌悪があった。そこで私は、全ては自分の落ち度が原因なので、なかったことにすると申し出た。組合はカンパをしてくれたが、私は本当に自分が情けないと思った。目の前に金があれば盗るのは当然だ。誰でも自由に準備室に入っていいとしていたが、もっと注意をしておくべきだった。そんなことのせいなのか、夢を見てしまった。

 今晩は久しぶりの誕生日会。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嗚呼、熱闘甲子園

2018年08月18日 18時43分07秒 | Weblog

  うーん、疲れた。朝から高校野球の準々決勝戦を観戦、ハラハラドキドキ続きで本当に疲れた。社会人になった孫娘はボーイフレンドと甲子園まで出かけて行った。「満員で入れない」とメールしてきたが、第2試合の途中から、「入れた」とメールが届いた。1度、入場できたなら最後の試合まで見られるのだろうか、どういう仕組みになっているのか聞いてみたい。

 高校野球は何が起きるか分からないから面白い。確かにプロ野球選手に比べれば身体も細いし技術も未熟かも知れないが、一生懸命なプレイは何故か涙を誘う。勝っても負けても、なんといい試合だったのかと思えるから不思議だ。初めはもちろん地元チームの応援からだが、そのうち、なんとなく贔屓なチームができてくる。ぜひ、もっと勝ち進んで欲しいと祈ってしまう。

 準々決勝まで進んでくると、やっぱり前評判の高い強豪チームばかりになるが、それでも強豪チームだから絶対に勝てると限らないのが高校野球だ。第1試合の大阪桐蔭と浦和学院は事実上の決勝戦と私は決めていたが、試合は大阪桐蔭が終始圧倒した。第2試合は報徳学園と済美で、私の予想は報徳学園の圧勝だったが、済美が打ち勝った。松山出身の友だち夫婦は大喜びしていることだろう。

 ビックリしたのは第3試合の日大三高と下関国際。私の予想は日大三高の圧倒的な勝利だったが、下関国際に先取点が入り、その後は全くの投手戦だった。日大三高は6回までノーヒットに抑えられていた。下関国際の勝利かと思っていたら、7回に初ヒットが生まれた。すると8回に3球で2点取り、一気に同点となり、あっという間に3点目を勝ち取り逃げ切った。

 それよりもっとビックリしたのが第4試合の金足農と近江。私の予想通り近江の勝利が目前だった。9回2対1で近江がリード、そのウラ金足農が1度のスクイズで2点を取り、逆転勝利した。まさか2塁走者までホームベースに走り込んでくるとは思わなかった。カミさんが応援していた金足農のピッチャーは4試合とも10奪三振の力投だったので、カミさんお喜びようはひとしおだった。孫娘がその時の観客席をメールで送って来てくれた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿波踊りと私たちの夏祭り

2018年08月17日 17時20分58秒 | Weblog

  爽やかな風が少し強めに吹いている。エレベーターで一緒になった知り合いに「涼しくなりましたね」と言うと、「ウチのは何にもできないの。洗濯も掃除も何もしない。私が作らなかったら、外で食べるか、スーパーで弁当を買ってくる。食べても片付けないし、家のためにしようという気が全くない」といきなり愚痴られた。「あなたがいなくては生きられないのだから、最後まで面倒見なくちゃー」と言うと、「無理、無理。絶対無理」と強い口調で応えた。

 ダンナとは一緒に役員をしたこともあり、時には挨拶もするが、そんな風にカミさんから思われているのかと知る。昨日、先輩たちとお茶をしていた時、徳島の阿波踊りの対立に話が飛んだ。「実行委員会はもっとみんなの意見を聞かなくてはダメだ。実行委員長の市長も『申し訳なかった』と言っていたが、全く踊り子たちの気持ちが分かっていない」と先輩が言う。

 「どこも同じ。上から目線で勝手に決めている。権力を持つと自分の立場しか見えない」。「そもそも累積赤字が4億円というが、なぜそうなったのかが大事なことなのに、総踊りを中止して分散すれば黒字化できるという発想がおかしい」。「阿波踊りを支えてきた振興協会の総踊りは連日満員の観客なのに、徳島新聞側に所属するグループの総踊りはチケットの売れ行きが不調で、徳島新聞に肩入れする市長は、総踊りの中止を打ち出した」と事情通が説明する。

 私たちも「市民の皆さんと共に楽しむ」をモットーに、屋台で祭りを盛り上げてきた。それが突然、「協力金を集める」と実行委員会が市の広報に載せたので、それは祭りの趣旨と違うので参加しなかった。徳島の阿波踊りの踊り子たちも、「総踊りを踊りたい」ので、市長の命令に逆らって踊りを実行した。長年連れ添った夫婦でも、互いを理解し合うのは難しいのだから当然だろう。「踊る阿保に見る阿保、同じ阿保なら踊らにゃーそんそん」という訳だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変化について行けない

2018年08月16日 18時05分34秒 | Weblog

  曇っていたのに急に晴れてきて、陽が差していたのに真っ黒な雲が広がり、雷が鳴ったり大雨が降ったり、生暖かい風が急に冷たい風に変わったり、今日の天候はめまぐるしいかった。各地で土砂崩れが起きるほどの大雨になっている。地震も起きているし、火山活動も活発になっている。この地方は2000年の東海豪雨の時から、大きな災害に見舞われていない。「そろそろ、何か起きるんじゃーないか」と今朝も友だちが言う。

 「この世界的な異常気象の原因は、地球の基軸が変わってきているせいじゃーないか」と、私は自説を展開してみせる。否定されるかと思ったら、「そういう可能性もある」と同調してくれた。災害時に、どんなに井戸が役立っているか、もっとアピールする必要があると意見が一致したのに、情報発信ができる人はひとりしかいない。「ブログよりもツイッターかフェイスブックがいいよ」と言われるが、それができるのも彼しかいない。

 アメリカで暮らしている80歳を超えた先輩のお姉さんからメールが来た。かなりの長文の手紙だ。訪日することは無理だろうと思っていたら、娘さんが同行してくれることになり、年末年始を日本で過ごすことができそうというものだった。「アメリカとメールのやり取りができるのに、SNSをやらないなんて遅れてるよ」と彼は冷やかすが、まだよく分からない。私はパソコンで文章を作り、それをコピーしてgooIDにアップしているが、それ以外の使い方を知らない。

 絵描きは技術を競ってきたが、印象派が生まれて、何をどう表現するかになり、次に何が重大な課題かになった。しかし、今は見る側をびっくりさせることが目的となったので、「平面での表現」はもっと違う方法が必要になってきた。これだけ情報発信の方法がいろいろあるのだから当然の帰結である。そういう点でも私はまだ紙に固執しているし、テーブル型パソコンから抜け出せないでいる古い人間である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆と戦争

2018年08月15日 18時07分07秒 | Weblog

  13日の夕方に、みんなで手を合わせ、迎え火を燃やした。先祖の霊が迷わず、帰って来られるためだと祖母は教えてくれた。3日間、この世にいた霊が再びあの世に帰るので、15日の夕方にはまた送り火を燃やした。だからお盆の3日間は、亡くなった人たちの霊が溢れている。あの世に連れて行かれないように、海で泳いだりせず、蝉取りもやめ、「ちゃんとお参りしなさい」と祖母は私に言った。

 子どもの頃は「そういうものだ」と納得していた。どこの家庭もそうするものだと信じていた。それが、小学生も3・4年になると、「これまでに何人の人が亡くなったのか知らないが、地球上は亡くなった人の霊で一杯になっているはず。おじいさんのおじいさんは帰る家があるが、その前のご先祖はどうしているのだろう」などと、屁理屈を考えるようになった。それに、15日が終戦記念日で何百万人の日本人が亡くなったと知り、病死や老衰ならともかく、どうして殺されなければならなかったのかと思うようになった。

 仏壇には叔父の位牌があり、その叔父のための墓石もあった。「フィリッピン沖で亡くなった」としか、私は知らない。「戦争は何故起きたの?戦争をした人はどうなったの?」。戦争責任に関心を持った私に父親は、「誰も責任は取らなかった」とだけ言った。近所にも戦地に行った人はいたが、戦争の話をする人はいなかった。触れたくない過去を避けているようだった。友だちの家で、中国戦線にいた父親が密かに持ち帰った写真が一番印象深い。

 日本の軍人が中国人の首を軍刀で切り落としていた。切り落とされた首が縄でつながれていた。今朝の新聞で特攻機に乗り込んだ人に「怖くなかったのか?」と質問していたが、戦争は普通の精神状態ではいられないから、「軍人になった時から死は覚悟していた」と答えている。そんな気持ちにさせてしまうから戦争は怖い。戦地には行かずに、命令だけ下していた人たちは何故責任をとらないのかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵画は限界にある

2018年08月14日 17時12分28秒 | Weblog

  酷暑が続いている。雨が降っても、風があっても、べっとりと暑い。暑さと関係するのか分からないが、私の心臓も過労気味な気がする。寝ていても胸のあたりは汗でびっしょりだ。ペースメーカーを装着しているから左を上にして寝ているが、どういう訳か、心臓がチクリと痛む時がある。ペースメーカーのおかげで心臓は無理やりでも動いているはずだが、なんとなく悲鳴を上げているようだ。

 昨日、現代アートを代表する大学の先輩に会った。先輩と同期の人の息子さんで東京で活躍している現代アート作家が、故郷で『アートdeお盆ナイト』を開くからと連絡をもらったので出かけた。先輩は相変わらずよくしゃべる。あの時、先輩の誘いを受け入れ、一緒にインドへ行っていたら、私の人生も変わっていただろう。会った途端、「あの時、どうして行かなかった」とまた、言われてしまった。

 私が子どもの頃、父親は小説家になりたかったと知った。だからなのか、「物書きや絵描きは絶対に不幸になる。芸術なんか目指したら、まともな生活は出来ない」と母親が言ったのか、祖父母が言ったのか、そんな言葉をよく聞かされた。物心ついて、芸術家の生涯を知ると、狂気の人が多い。両親が亡くなり、苦労せずに合格できるだろうと、なんとなく好きな美術を選んでしまった。

 教員になった時、同科の先輩教師から「教師になるのか、芸術家になるのか、決めておけ」と言われた。芸術家を目指すだけの能力も覚悟もなかったが、私をインドに誘ってくれた先輩に従っていれば、新たな才能が開花していたかも知れない。才能は技術というよりひらめきだから。昨日も先輩と話していて、「絵画は限界にある。小説や映画や音楽のような、いやもっと凄い伝達手段を見つけなければ」との結論に至った。

 久しぶりに先輩の、元気で構想の大きな話を聞いていて、自分の人生は真面目ではあったが不甲斐なかったと思った。明日のカミさんの家族の集まりは、義弟の体調不良で中止になった。やっぱり酷暑のせいだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校生が出来るなら、大人も出来るはず

2018年08月13日 17時11分44秒 | Weblog

  姉の娘家族も、兄貴の息子たち2家族も、妹の家族も、大きな問題もなくむしろ慶事が進んでいた。男たちは相変わらずよく飲み、言いたい放題で、カミさんたちもそれなりに不満はあるのだろうが大不満ということでは無いようだった。小3の孫娘はやっぱり大きくなっていて、母親や祖母の肩たたきをして「上手ね」と言わせて回っていた。

 義弟が「アベの3選を許したらイカンですよ」とブチ上げていた。「退職してからテレビの番人をしている」と言うだけあって、最近は政治のことにも詳しい。人々がいろんなことに関心を持ち、それを平気で口にできるのは、社会の大きな進歩ではないだろうか。「子どもを産まないLGBTは生産性がない」と決めつけた自民党の女性議員に、「セクハラ罪という罪はない」と開き直った麻生財務大臣の見識に、批判が集中したのも国民の意識が高いことの表れだろう。

 なのに素直に喜べないのは何故なのだろう。アメリカで白人至上主義への抗議集会が行われたが、同時にこれに反対する抗議集会も開かれた。白人至上主義を掲げるのは「思想と表現の自由」と発言する人までいる。沖縄の基地反対闘争に参加する現地の人を、「どじん」呼ばわりしたり、「基地闘争の参加者は金をもらってやっている」とか、さらに亡くなられた翁長知事を「中国の手先」とまで言う。

 何を考え、何を表現しても、自由でなければならないが、だから何でもいいというのは、「思想や表現の自由」を危険にするだろう。自由を求めてきたのに、自由を奪いかねない。人間はどこまで進めば、互いを認め合い尊重するようになるのだろう。高校野球をテレビで見ていたら、足がつった選手に相手チームの選手が水や氷嚢を持って駆けつけた。高校生が出来るなら、大人も出来るはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兄貴の息子のふたり

2018年08月12日 14時51分31秒 | Weblog

  もうすぐお盆だというのに、なかなか暑さから逃れられない。子どもの頃、「盆過ぎたら海に入ってはいかんよ」と言われた。海水温度がそれまでとは比べ物にならないくらい低くなると祖母は言う。確かにお盆を境に一気に秋に近づいていく、そんな気がしていたが今年はどうなのだろう。

 今晩は私につながる親族が集まる。昨年まではお寺に集まってお参りし、その後、みんなで食事をしたが、墓石を撤去してしまったので、今年からは会場を名古屋駅前に移す。とはいっても、会場探しは兄貴の息子の次男の嫁が行ってくれた。「悪かったねえ」と甥っ子に言うと、「喜んでやってましたよ」と言ってくれる。

 兄貴の息子は2人いて、長男はおっとりしていて公務員になっていた。利発な子だったし堅気が似合っている。次男は正義感が強くやんちゃだったから、どんな仕事に就いているのかと思ったら、彫刻家になっていた。日展にも出品していたが、最近、「観に来て」と言わないと心配していたら、屋外の立体物を作っていた「工房を閉じた」と言う。

 「不景気で注文も減り、従業員を食べさせれなくなった」と話す。右肩上がりの景気がよい時は、この地方だけでなく、遠い所からも注文があった。ワイン好きな彼は、「ヨーロッパへ一緒に行きましょう」と誘ってくれたのに、今はヒマはあってもカネがないようだ。子どもがいないから、余生を夫婦でどのように過ごすのか、ゆっくり考えていくしかない。

 以前、「どうしてアーチストの道へ?」と尋ねたら、大学生の私が家で課題の油絵を描いているのを見て、「かっこいいと思ったんですよ」と言う。嬉しいことを言ってくれると思ったが、責任は重大だ。長男は顔つきも性格も兄貴に似ているが、次男は私に似た面がある。長男は生け花の師範の免許をもっているというから、表現することの「技」では共通している。無口な長男とおしゃべりな次男、今晩はどんな話が聞けるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「酒の種類と量を制限している」

2018年08月11日 17時15分33秒 | Weblog

  「お暑い中 お越し下さり、誠にありがとうございます。ポカリスエットで熱中症対策していただきながら まずは私の歌をアカペラで1曲、いや2曲くらい聞いていただきましょう」。喪主である息子さんの「お礼の言葉」の書き出しである。亡くなられたお父さんは大塚製薬に勤められていた。歌が好きで自宅にホールまで造ってしまい、私も歌を聞かせてもらった。

 なかなか豪快な人だったが、私は亡くなった父親より母親の方が親しかった。彼女は読書クラブにいたので、本を通して話をする機会があり、親しく声をかけてもらった。喫茶店で一緒した時、どうしてそうなったのか分からないが、彼女から新婚旅行でヨーロッパを回った話を聞いた。ダンナは私よりも年下で大企業に勤めていたからヨーロッパだったのか、そんな印象だったが、ふたりは音楽で結ばれたから、彼女は自慢することもなくヨーロッパの街並みを淡々と話してくれた。

 その彼女の方が先に亡くなり、3回忌の当日にダンナは倒れ、そのまま帰らぬ人となったと言う。息子さんの最後のご挨拶も両親のエピソードで、こんな風に故人を語ってくれるのもいいなあーと思った。先日の葬儀でも、孫が亡くなった祖母に語りかけていたが、故人の別の一面を知ることが出来た。お別れをするということは、恭しく儀式を行なうことではなく、参列者が故人を偲ぶことにあると思った。

 その参列者4人で帰りに喫茶店に寄り、故人を偲ぶというより極めて現実的な「おしゃべり」に終始した。私を除く人は痛風持ちで、「お酒の種類と量を制限している」と言う。「そうなの。じゃー量はそのくらい?」と聞くと、「ビールなら500と350の2本」と言う。「えっ、それで制限なの」と大笑いした。「元気に、こんな話が出来ることが大事で、制限は安心の空証文」とまた笑う。みんな70代、それでも元気に地域のために活動している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする