前回の続きです。
グローバルな知識経済への適応を前提とする限りは、筆者のロジックはほぼその通りだろうと思います。企業社会において、大学院の学位が余り評価されないのは、私の周囲でも、社内留学でせっかく修士を取得しても、結局は退社・転職している人が多い現実に裏付けられます。このように企業社会において高等教育機関への期待値が必ずしも高くないのは、日本には、入社した従業員をいわば丁稚から社内で鍛え上げるという、教育に対する独特の考え方が日本的経営の中にあるからであり、突き詰めると、その根本にあるのは、流動性が低いことを前提に日本の社会が造り込まれている事実にぶち当たるように思います。これは、江戸時代以来、形成されてきた歴史的・文化的な特性であることを思うと、突き動かすのは容易ではないと感じてしまいます。江戸時代の士農工商は、もとより差別と言うより、機能分担を示すものであり、社会の安定維持装置として機能すると同時に、社会を固定するものでもありました。日本的経営の中で、まるで江戸時代の藩よろしく終身雇用と年功序列が対になって語られるのは、長く勤めあげる人ほど功労者と讃えられ、給与も退職金・年金もあがるムラ的な仕組みになっていることが一因です。
このように日本の社会全体として見れば流動性が低いのは事実ですが、その中で、辛うじて流動性を確保して来たのが、総合の名を冠する大企業群でした。所謂総合商社、総合電機などは、多くの異なる事業体を内部に抱え、その事業の盛衰とともに人材を内部で移動させながら、企業として見れば最適化を図り成長を遂げて来ました。これは日本が高度成長のステージにあったからこそ成り立ち得た緩い体制だったのかも知れません。現に、1990年代に入ると、アメリカを中心に単体事業体の企業群が俊敏な動きで急成長を遂げるのと対照的に、日本の総合企業の非効率性が目立ち始め、内部に赤字事業を温存させる、ムダの多い、構造改革を遅らせる旧体制として批判の対象に晒されたのでした。2000年前後には、業界一位か二位でない事業は切り出し、GEという総合企業でありながら優良企業に育てあげたジャック・ウェルチの経営を見習うように、日本の総合企業はこぞってコンサルタントの助言を受け入れ、個々の事業の独立性と競争力を高めるような、事業の切り離しと他社との合併や子会社化、あるいは社内カンパニー制に移行することなどを含む構造改革を断行したのでした。これは却って企業としての一体感を失い、企業内のタテ割りの硬直性を高める結果にもなり、総合企業としての競争力を失って、現在に至っています。
これらは飽くまで私の周辺の企業社会で起こっている現象を記述してみたに過ぎません。しかしこれは、真の意味でのグローバル化が進展し競争が激しくなる中で、日本的経営のありようが行き着いた先にある一つの混乱と理解することは可能だと思います。日本的なものとグローバル・スタンダード的なものとが混在する混乱、あるいは日本的なものから脱皮しようとして完遂できていない混乱です。政治の世界で言えば、小泉内閣のもとで取り入れられた新自由主義的な考え方と、それに対する内向きの反動的な動きです。筆者が冒頭で提言している、雇用・教育システムを「一体として改革する」という意味は、別の見方をすれば、新自由主義の考えのもとに、規制緩和による競争を促進し、構造改革を促すことと符号するように見えます。
そこで、もう一度、前提が正しいかどうかの議論に戻るわけです。果たして私たちはグローバル経済の中で生き抜く覚悟が出来ているのかどうか。
昨今、新自由主義への風当たりが強いようです。ここ10年で規制緩和がどれほど進んだのか。日本社会の持てるものと持てざるものとの分断化が進んでいるといっても、どれほどのものなのか。それは本当に新自由主義の改革によるものなのか、単に景気後退で露出したに過ぎないのではないか。因果をきっちり検証するのは難しいですが、実際には景気悪化で説明出来る部分がかなりあるように思います。そういう意味で、私は、新自由主義への批判には、ある作為を覚えます。いつか見た風景、そう、世界で共産主義が崩壊し、冷戦が終結して、鳴りを潜めていた所謂「進歩的」な考え方の復権です。
所感と言いながら話がどんどん逸れてしまいましたが、私の身の周りに起こっている出来事をあれこれ思い浮かべながら、もう一度、民主党をはじめとする内向きの議論に一石を投じることを期待しながら、この論文を興味深く拝読したというわけでした。
上の写真は、再びコアラのなる木。ブリスベンにて。
グローバルな知識経済への適応を前提とする限りは、筆者のロジックはほぼその通りだろうと思います。企業社会において、大学院の学位が余り評価されないのは、私の周囲でも、社内留学でせっかく修士を取得しても、結局は退社・転職している人が多い現実に裏付けられます。このように企業社会において高等教育機関への期待値が必ずしも高くないのは、日本には、入社した従業員をいわば丁稚から社内で鍛え上げるという、教育に対する独特の考え方が日本的経営の中にあるからであり、突き詰めると、その根本にあるのは、流動性が低いことを前提に日本の社会が造り込まれている事実にぶち当たるように思います。これは、江戸時代以来、形成されてきた歴史的・文化的な特性であることを思うと、突き動かすのは容易ではないと感じてしまいます。江戸時代の士農工商は、もとより差別と言うより、機能分担を示すものであり、社会の安定維持装置として機能すると同時に、社会を固定するものでもありました。日本的経営の中で、まるで江戸時代の藩よろしく終身雇用と年功序列が対になって語られるのは、長く勤めあげる人ほど功労者と讃えられ、給与も退職金・年金もあがるムラ的な仕組みになっていることが一因です。
このように日本の社会全体として見れば流動性が低いのは事実ですが、その中で、辛うじて流動性を確保して来たのが、総合の名を冠する大企業群でした。所謂総合商社、総合電機などは、多くの異なる事業体を内部に抱え、その事業の盛衰とともに人材を内部で移動させながら、企業として見れば最適化を図り成長を遂げて来ました。これは日本が高度成長のステージにあったからこそ成り立ち得た緩い体制だったのかも知れません。現に、1990年代に入ると、アメリカを中心に単体事業体の企業群が俊敏な動きで急成長を遂げるのと対照的に、日本の総合企業の非効率性が目立ち始め、内部に赤字事業を温存させる、ムダの多い、構造改革を遅らせる旧体制として批判の対象に晒されたのでした。2000年前後には、業界一位か二位でない事業は切り出し、GEという総合企業でありながら優良企業に育てあげたジャック・ウェルチの経営を見習うように、日本の総合企業はこぞってコンサルタントの助言を受け入れ、個々の事業の独立性と競争力を高めるような、事業の切り離しと他社との合併や子会社化、あるいは社内カンパニー制に移行することなどを含む構造改革を断行したのでした。これは却って企業としての一体感を失い、企業内のタテ割りの硬直性を高める結果にもなり、総合企業としての競争力を失って、現在に至っています。
これらは飽くまで私の周辺の企業社会で起こっている現象を記述してみたに過ぎません。しかしこれは、真の意味でのグローバル化が進展し競争が激しくなる中で、日本的経営のありようが行き着いた先にある一つの混乱と理解することは可能だと思います。日本的なものとグローバル・スタンダード的なものとが混在する混乱、あるいは日本的なものから脱皮しようとして完遂できていない混乱です。政治の世界で言えば、小泉内閣のもとで取り入れられた新自由主義的な考え方と、それに対する内向きの反動的な動きです。筆者が冒頭で提言している、雇用・教育システムを「一体として改革する」という意味は、別の見方をすれば、新自由主義の考えのもとに、規制緩和による競争を促進し、構造改革を促すことと符号するように見えます。
そこで、もう一度、前提が正しいかどうかの議論に戻るわけです。果たして私たちはグローバル経済の中で生き抜く覚悟が出来ているのかどうか。
昨今、新自由主義への風当たりが強いようです。ここ10年で規制緩和がどれほど進んだのか。日本社会の持てるものと持てざるものとの分断化が進んでいるといっても、どれほどのものなのか。それは本当に新自由主義の改革によるものなのか、単に景気後退で露出したに過ぎないのではないか。因果をきっちり検証するのは難しいですが、実際には景気悪化で説明出来る部分がかなりあるように思います。そういう意味で、私は、新自由主義への批判には、ある作為を覚えます。いつか見た風景、そう、世界で共産主義が崩壊し、冷戦が終結して、鳴りを潜めていた所謂「進歩的」な考え方の復権です。
所感と言いながら話がどんどん逸れてしまいましたが、私の身の周りに起こっている出来事をあれこれ思い浮かべながら、もう一度、民主党をはじめとする内向きの議論に一石を投じることを期待しながら、この論文を興味深く拝読したというわけでした。
上の写真は、再びコアラのなる木。ブリスベンにて。