先週・金曜日の日経に掲載された経済教室がなかなか興味深かったので紹介します。書いたのは熊本大学の大森不二雄教授で、タイトルは「雇用・教育一体改革 今こそ」というものです。
先ず、日本では、事務系も含めた管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界の趨勢から完全に取り残されているという事実を挙げ、人材の流動性と学位の可視化する知の有効活用は、コインの表裏の関係にあり、グローバルな知識経済への適応という観点から、雇用・教育システムを一体として改革することが急務だと、問題提起されます。
たとえば欧米のみならずアジア諸国においても、様々な産業分野のプロフェッショナル層における大学院修了者の優位性は世界の常識ですが、日本における人口1000人当たりの大学院学生数は僅かに2.04人と、米・英・仏の四分の一未満、韓国の三分の一程度に過ぎません。このように日本で大学院の学位やその表示する知が尊重されないのは、知識労働者の流動性の低さに起因すると分析されます。外部労働市場が発達していれば、転職の際、学位は一定水準の知の保持証明として機能するところですが、そうではない社会、つまり転職が当たり前ではない社会では、専門知識や学位を武器にする必要はなく、一般社会で通用する普遍的な知よりもむしろ組織内の人間関係やその組織に根付く特殊な知が重要になるのだという指摘は、企業人なら誰しも思い当たることでしょう。こうして、質・量ともに貧弱な大学院しかない高等教育システムは、非流動的・閉鎖的な知識労働市場の維持要因にもなっていると結論づけます。
他方、大学院生総数に占める社会人の割合も、約2割くらいまで増加してきたとは言っても、国際的に見れば極めて低水準です。日本でも雇用が流動化して来ているのではないかと思われるかも知れませんが、それは非正規雇用という不安定雇用が増大しただけの擬似流動化に過ぎなくて、正社員の転職率は、過去15年間、ほとんど変わっていないそうです(国民白書06年)。非正規雇用から正規雇用への転換は容易ではないし、正規雇用(正社員)の転職も相変わらず困難な中で、「就社」した会社の檻の中の成果主義で閉塞しているのが実態だと批判されます。こうして自らの意思による転職が例外的である一方、自らの意思によらない人事異動の一環として、系列会社への出向・転籍システムがあるのは、官僚の天下りと同じだと断罪します。社会の閉塞感や活力減退、海外から見て変革の起きない退屈な国というイメージこそ、低迷する経済指標以上にリアルな日本の病状であり、そうした病巣の中心に雇用の非流動性があるというわけです。
グローバルな知識経済では、知識労働者の、組織の壁を超えた知の交流・融合や普遍的な知識技能が新たな価値を創造し、活力や競争力を生むのであり、それには知識労働者の流動性が不可欠だと言います。それとは逆に流動性が低い場合、機能集団であるべき官庁・企業を擬似共同体(ムラ社会)にし、政官業の談合その他の不祥事や縄張り争いの温床ともなるのであり、グローバルな知識経済で通用する人材育成・活用システムに向けた改革が急務であると指摘されます。
そのための対策、縦割り行政を超え、企業を含む諸々の主体の行動変化を促すものとして挙げるのは、大学院教育の質の改善(職業的レリバンス(有意味性)の向上)、大胆な高等教育改革(新規学卒者一括採用を支える偏差値による序列構造を崩すために、例えば東大・京大などの銘柄大学を学部のない大学院大学に改組し、グローバル人材を大学院で育成する等)、大学経営におけるガバナンス(統治)改革(大学における文部科学省の強い監督権限が戦略経営の不在を招き、カリキュラムや教育方法のイノベーション、国際化などの遅れに繋がる)、雇用面で、大学院の修了者からキャリア官僚への積極採用(あるいは企業における中途採用を含む修士・博士の採用)だろうと言います。
以上、言われていることは決して目新しいことばかりではありませんが、論旨を明確にするために長い抜粋となりました。ちょっと疲れてしまいましたので、私の所感は明日にします。
教育はソフト・パワーの最たるもの。さしずめオーストラリアのコアラのようなもの。上は、コアラのなる木。ブリスベンの動物園で。
先ず、日本では、事務系も含めた管理職や専門職が修士・博士の学位を有するという世界の趨勢から完全に取り残されているという事実を挙げ、人材の流動性と学位の可視化する知の有効活用は、コインの表裏の関係にあり、グローバルな知識経済への適応という観点から、雇用・教育システムを一体として改革することが急務だと、問題提起されます。
たとえば欧米のみならずアジア諸国においても、様々な産業分野のプロフェッショナル層における大学院修了者の優位性は世界の常識ですが、日本における人口1000人当たりの大学院学生数は僅かに2.04人と、米・英・仏の四分の一未満、韓国の三分の一程度に過ぎません。このように日本で大学院の学位やその表示する知が尊重されないのは、知識労働者の流動性の低さに起因すると分析されます。外部労働市場が発達していれば、転職の際、学位は一定水準の知の保持証明として機能するところですが、そうではない社会、つまり転職が当たり前ではない社会では、専門知識や学位を武器にする必要はなく、一般社会で通用する普遍的な知よりもむしろ組織内の人間関係やその組織に根付く特殊な知が重要になるのだという指摘は、企業人なら誰しも思い当たることでしょう。こうして、質・量ともに貧弱な大学院しかない高等教育システムは、非流動的・閉鎖的な知識労働市場の維持要因にもなっていると結論づけます。
他方、大学院生総数に占める社会人の割合も、約2割くらいまで増加してきたとは言っても、国際的に見れば極めて低水準です。日本でも雇用が流動化して来ているのではないかと思われるかも知れませんが、それは非正規雇用という不安定雇用が増大しただけの擬似流動化に過ぎなくて、正社員の転職率は、過去15年間、ほとんど変わっていないそうです(国民白書06年)。非正規雇用から正規雇用への転換は容易ではないし、正規雇用(正社員)の転職も相変わらず困難な中で、「就社」した会社の檻の中の成果主義で閉塞しているのが実態だと批判されます。こうして自らの意思による転職が例外的である一方、自らの意思によらない人事異動の一環として、系列会社への出向・転籍システムがあるのは、官僚の天下りと同じだと断罪します。社会の閉塞感や活力減退、海外から見て変革の起きない退屈な国というイメージこそ、低迷する経済指標以上にリアルな日本の病状であり、そうした病巣の中心に雇用の非流動性があるというわけです。
グローバルな知識経済では、知識労働者の、組織の壁を超えた知の交流・融合や普遍的な知識技能が新たな価値を創造し、活力や競争力を生むのであり、それには知識労働者の流動性が不可欠だと言います。それとは逆に流動性が低い場合、機能集団であるべき官庁・企業を擬似共同体(ムラ社会)にし、政官業の談合その他の不祥事や縄張り争いの温床ともなるのであり、グローバルな知識経済で通用する人材育成・活用システムに向けた改革が急務であると指摘されます。
そのための対策、縦割り行政を超え、企業を含む諸々の主体の行動変化を促すものとして挙げるのは、大学院教育の質の改善(職業的レリバンス(有意味性)の向上)、大胆な高等教育改革(新規学卒者一括採用を支える偏差値による序列構造を崩すために、例えば東大・京大などの銘柄大学を学部のない大学院大学に改組し、グローバル人材を大学院で育成する等)、大学経営におけるガバナンス(統治)改革(大学における文部科学省の強い監督権限が戦略経営の不在を招き、カリキュラムや教育方法のイノベーション、国際化などの遅れに繋がる)、雇用面で、大学院の修了者からキャリア官僚への積極採用(あるいは企業における中途採用を含む修士・博士の採用)だろうと言います。
以上、言われていることは決して目新しいことばかりではありませんが、論旨を明確にするために長い抜粋となりました。ちょっと疲れてしまいましたので、私の所感は明日にします。
教育はソフト・パワーの最たるもの。さしずめオーストラリアのコアラのようなもの。上は、コアラのなる木。ブリスベンの動物園で。