キリスト教に原罪という言葉がある。この言葉は、まだ、私が10代の頃、小説「氷点」で読んだ中に載っていたことを鮮明に思い出す。消そうとしても誰も消すことのできない生来人間がもっている罪。これと、先ほど書いた人間の持つ偏見がよく似ているように思う。キリスト教では原罪であり、仏教でいえば業というのだろうか。いずれも、心の奥深くに潜んでいる人間のどろどろした部分なのかもしれない。一生人間が背負って浄化して行かなければならない根本の問題のようでもある。片や人間には情操(美しいもの、すぐれたものに接して感動する、情感豊かな心。道徳的・芸術的・宗教的など、社会的価値をもった複雑な感情。)という崇高な面も併せ持つ。情操,何と響きのいい言葉だろうか。情操には明るい面があるが、業や原罪には自分を引っ張るようなマイナス思考が働く。努めて人生プラス思考がよい。
足下にへびの屍があった。多分交通事故に遭い、ひかれたのだろう。そこで、ふと、思い出したことが偏見という言葉である。なぜ、へびを人は嫌うのだろう。前世で何かあったのではないかとも思ってしまう。
嫌な言葉であるが、残念ながら、このような偏見はこの世に広く存在する。論理を超えた所にある種の感情が多々関わっている。この感情の問題は根が深い。理屈でいってもなかなか心にまで降りてこない。正しい信仰とかの問題も深く関わってこないとなくなっていかないだろう。
へびにとっては偏見この上ない。何で私がこう人間から嫌われるのかと思うだろう。これを救うには知性に裏付けられた感性である。このようなことが他でも起こらないよう、自然界の仕組みをしっかり勉強し、人間の位置づけを理解する必要があるだろう。知性から感性に働き変えて是正していくしかないだろう。
それにしても、この問題は残念ながら人間の醜い一面からきているだろう。何か、よい解決策はないだろうか。心の痛む問題である。クラスのいじめ問題にも多少は似たようなことがあるだろうか。もっと、人間の心が向上し、暖かくなっていかないといけない。へびの屍を見てふとそのようなことを感じた。
とにかく、似たような偏見を減らす方策を考えて行きたい。心の痛む問題であり、根が深い問題なことは確かである。
凡人であり、畜生である俗界の人間には少なからずこのような業を心に抱えているだろう。残念ながら。これを救うのには正しい信仰しかないのかもしれない。