これは、遙か昔、私が6歳くらいのことである。空を見上げ、飛行機を見て「あっ二機。」と、叫んだ子がいた。高林君という2歳ぐらいの近所の子である。何だろうと思って私も一緒に空を見上げた。飛行機が空を飛んでいた。
その子は飛行機を二機と言っていたのだ。
飛行機のことを二機と言ってるんだなと、当時思ったことを今、新聞の「空を見上げている子供の写真」から思い出した。
言葉と言うものは、飛行機であれ何であれ、たまたま、二機飛行機が飛んでいる場面を見て、誰かが、それを二機飛んでいるという飛行機の数で表現しているのを、彼が勘違いして、あの飛行機のことを二機と思っているらしい。と、気がついたことを思い出した。
小学校の生活科では「気づき」を大切にする教科だが、まさに、そのことが、「気づき」そのものだなと、今、回想している。「気づき」の連続が生活科の本質である。
昔は、そんな教科がなくても、色々と生活していれば、何かと気づくことはあったろうと思う。その足跡の上に自分の生き方も見えてくる。人生は「気づき」の連続であるともいえる。ならば、この世の旅立ちまで、「気づき」の連続の人生であろう。
生活科も本来、気づきの空間さえ与えれば、自分で気づいていけるのかも知れない。気づきは内面の問題でもあるので、なかなか、その力を育てるのは難しい。教育も、そのきっかけを与える程度かも知れない。