想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

桝添問題と人の生き方

2016年05月13日 | エッセイ

震災6年5月13日

 今、桝添都知事の湯河原から端を発した出張、旅費問題が話題なっています。彼の釈明を聞いていて、リーダーたるものの資質のなさに愕然ときました。そんなに税金を無駄遣いにしていたとは知りませんでした。都民には寝耳に水のことでしょう。

 単にお勉強ができるということは現実を処理する能力が高いということであって、必ずしもそれが、全体の幸せを考えての処理の仕方ではないということが、いうやと言うほど分かりました。

 一番大切な公に供するという公共の福祉の観点が抜けているのが、大きな問題でした。目先のことに目を奪われ、利己のために、その頭を使って小賢しいことをしてしまう体質のある知事を選んでしまった都民にも責任がありますが、選ばれた彼には最も大きな責任があります。

 湯河原にせよ、出張費にせよ、全国の知事群の中でも別格の公費を使っているのも問題です。

 その、内訳たるや殆ど部下に任せているように思います。自分で方向ぐらいはしっかりと把握して、公共の福祉に供するよう強い意志がなかったのでしょうか。彼には自由に使えるお金でしょうが、庶民にとってはライフラインのお金なのです。

 今日午後二時に釈明会見でどこまで、真実が語られるか分かりませんが、どうなるのでしょう。

 どちらにしても、せっかく優秀な資質を持ちながら、常日頃の行動を見ていると、結局を自分を利する所に向かっているのが過ちのもとです。

 人の上に立つ人は、まず、清廉潔白であり、目標をいつも都民の為と、そこにおいて行動していないと、大変なことになるという見本のようなものです。

 ムヒカ大統領の例までださなくとも、わかることだと思います。善なる方向に常時力が向いていれば、あんなせこいことはやらなかったのだと思います。

 ですので、私は一番大事なことは、いつも、人の幸せにベクトルを向けて行動することだと思っています。何でもいい、こうすれば、彼らが幸せになるという意識を毎日持つことの大切さです。

 偏差値教育の極みがあんな所に負の遺産として残ってしまったのだと残念に思います。偏差値はその時点での相対的な点数です。そのエネルギーがどこに向かっているのか、その刹那そのエネルギーは倫理面でどうだろうか、などが、加速度として加味されていない結果だろうと思います。

 小学校から通信簿で国算理社などで、5を目指してやってきたのだろうが、その5はその時点での、処理や応用面の巧みさを示すだけであって、それが、どれだけ価値のあるものか等精査するものではありませんでした。そして、その5にどれだけの加速度ついているのか、その加速度はどの方向へ進もうとしているのか、精査する必要があるのです。

 道徳が教科になりましたが、知的教科が成績がよくても、道徳で低い評価であれば、かえってマイナスです。世の中で大切なことは、人に信頼される。情操がある、畏敬の念がある、未来を善に集約するエネルギーがある、いつでも考えがぶれない、善に向かって同じ姿勢をずっと続けることができる。などの、善なる精神力と結びついている生き方が身に付いているかが最も重要ではないでしょうか。

 最近の偏差値教育はこの長いスタンスを善に導いているエネルギーに着目せず、瞬時の頭の良さだけを問題にしているところに大きな罪があるように思えてなりません。知的には耕されているけども、それに倫理的な裏付けがないのです。どんな力を持っても、倫理的な裏付けのない力は正義ではありません。正義は力であるが、その根底に善へのエネルギーが横たわっていなければいけません。

 今回の桝添都知事公費問題は、その典型のような気がしてなりません。即刻辞任すべきでしょう。あれだけの財源を世の困っている人に向ければどれだけの庶民が幸せになれるのでしょう。リーダーだけの問題でなく、誰にも潜んでいる問題でもあります。

 一番不幸せなことはお金がないからではなく、心が貧しいことだと思います。あらためて、ムヒカ大統領の言葉をかみしめてみたいと思います。

 「貧乏な(=貧しい)人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」

「私達は発展するために、働くために、お金を稼ぐために生まれて来たのではありません。幸せになるために生まれて来たのです。」

 彼の慈愛に、満ちたお顔を見ているだけで幸せになります。ムヒカさん色々ありがとうございます。日本人の清貧な人たちも沢山勇気づけられたでしょう。

 桝添さんとは比べものにならないでしょう。お顔を拝見しただけでその人の生きてきた世界観がわかるような気がしました。

 ところで、浜松の賀茂間淵記念館にある間淵の銅像のお顔も素晴らしいです。見ているだけで、吸い込まれそうです。遙か遠いところをじっと見つめている彼には深遠さに溢れています。一度見て見ると、感動します。学問の神様だて言われているのも分かります。

 現在でもお顔が素晴らしい人が沢山います。その人の生き方を表しているのでしょう。最近では中曽根康宏さんや、河野洋平さん、稲森和夫さん、ゴルバチョフさん、渡辺和子さん等に人間的な魅力を感じます。

 彼らの共通していることは、狡猾なところがなく温かく人間的で志しを感じます。遠くを見つめている澄んだ瞳がみんな魅力です。目は口ほどにものをいうとは、昔の人はよくいったものだの感があります。慈悲というか人としての温かみも感じられます。そんな人に近づきたいですね。

 まず、人の良さが一番ですね。それに、意志力や賢さ志しがあれば、鬼に金棒です。

 今回の桝添問題では色々考えさせられました。

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パナマ文書と経済の二極化

2016年05月11日 | エッセイ

震災6年5月11日

 

 


 今、世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えています。現在73億人を超えています。
 世界中で、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれます。
 貧富の拡大、温暖化など問題が山積です。
 石油の枯渇が近づき、表土と森が失われています。
 水と食料が、病院と学校が不足しています。
 人の生活が、太陽と地球からの恵みを、超えそうです。

 

「世界の一握りの大富豪が、全人類の下位半分、すなわち36.5億人と同額の資産を持っている」と、いうことらしいのですが、今回パナマ文書が公開され、益々その謎が明らかになってきました。富める者は益々富み、貧困にあえぐ者は、益々貧困化してゆく仕組みが構築されているのです。

 前回来日した世界一貧乏な元大統領ムヒカさんと偉い違いです。

 

  過去を振り返れば、狩猟採集時代を経て自然の力で農業革命を→機械化により産業革命を→貨幣の発達により→金融革命を起こして来ました。今、まさにすべてのことがITと繋がり世界はせわしく動いています。


 このままでは、益々二極化が進むことが分かりました。そうです。富の中心にある者に大きな権力が集中しているのです。そして、彼らに倫理観がないことが問題なのです。

 

 世界の金融市場も一握りの思いで動いているのでしょう。為替も、株式も、石油の値段も…。困ったものですが、庶民にはどうしようもありません。ただただ、指をくわえて見ているだけでしょうか。

 さて、国民の三大義務といわれる
、教育、勤労、納税の一つの納税に大きな問題が顕在化してきたのが、パナマ文書の公開でした。やはり、そうかというのが私の偽らざる感想でした。やっと、顕在化してきたのです。隠し事はやがて、Discoverされ、いつか漏れるのです。

 

 誰もが、当たり前のように、決められた納税をしてきたのが、違法でないというだけで、世の中を闊歩している実態が明らかになったのです。

 

 違法でなくても、やってはいけないことはいくらでもあります。それなら、すべての行動に法規制の網をかぶせないと生きていられません。そんなことをしたら、余計に息苦しくなるでしょう。

 

 法の前に、人には良心が宿っているということではありませんか。そう、先人から教えを受けてきたのでは、ありませんいか。誰もやっているから、やっても、良心が痛まないという道徳的に二流人の考え方からやってしまっているのではありませんか。経済は生活を支える手段ですが、目的ではありません。人の最終目的は幸せです。

 

 自分だけ、法の目をくぐり富を得ても幸せですか。人様が喜んでいる様子を見るのが最高な幸せではありませんか。その辺が欠落しているような気がしてなりません。お金持ちより心持ちになりましょう。



  違法でないなら何をやってもいいかというと、昔から法規制のない時代でも自然法というしっかりした思想があったのではないのですか、誰もが等しく幸せに生きる権利は、すべてに優先する倫理的な規範ではないのですか、法文にないから違法行為はしてないのでなく、誰も良心があるのではありませんか。

 

 もし、そういうことを平気でいう人がいたなら、結局、法により規制が必要になるのです。タックスヘイブンが誰にも公にされ利用されているなら、まだ、いいのですが、金持ちしか利用ができないようなしくみになっているのが、不平等なのです。

 

 今の今まで国民はその事実にだまされていたわけです。ある一部の人だけがぬくぬくと利用していたのです。残念ながら、その力は庶民にはありません。

 

 もっと、上に立つ人の良心に訴えるしか方法がないのです。どうか、世のお金持ちといわれる人は、良心のかけらを持って、1円でも稼いで、子供のために汗水流して働いて、なけなしの金で税金を払っている人がいることを肝に銘じていただきたいと思います。

 

 一方税制から考えても、それもそのままにしておくことは納税の義務の崩壊にもつながって行きます。しいては、社会の混乱をもたらし、自由主義経済を破滅にも追いやることになるでしょう。

 

 即刻、政府はこのことを明らかにして、誰もが平等な社会を作っていただけるようにして欲しいです。正直者が馬鹿をみることのないような社会の実現を政治に望みます。

 

 資本主義経済も根本にしっかりした倫理観がないと、大変なことになります。やがて、それに変わる新たな仕組み作りが必要になるでしょう。力のある人が良心をなくすと大変なことになります。上に立つ人は高度な良心を持って行動してほしいと思います。

 

 江戸時代に士農工商という言葉がありました。確かにどこに価値をおいていたかが、このことからよく分かります。

 

 士は心のあり方であり、農は生きるのに必要な生命の源の供給であり、工はその作品に心を吹き込んで作ることであり、商は人が作った物を売買して利益をえることであり、やはり最下位に商が位置づけられているそれなりに理由がよく分かります。

 

 江戸時代はある面、よき時代で合ったのかもしれません。最近つくづく思います。


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バラはやっぱり美しい!

2016年05月07日 | 

震災6年5月7日


 

 

 

 

 

ばらには洋館がお似合いですね。

 

 

 

 


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なぜ、学校卒業後差がつくのか?

2016年05月07日 | エッセイ

震災6年5月7日

 

 


 社会に出たら勉強じゃないよ。あの人は、勉強ができなかったのに、社長になって何十人も人を使っているし、たいしたものだという話を何度も聞いて育ったと思います。

 

 学校は極論すれば学問という狭い範囲での学習しかしてきません。最近は経験学習とか、総合的な学習など言葉としては出て来てはいますが、それも、所詮、試験管の中の出来事なんです。

 

 それを理解せずに、洗脳されて来たのです。「学校教育=すべて」みたいに…。これほど、罪なことはありません。社会に出て成功する人の多くは、学校でも学問以外の色々なことを経験して来ているのです。

 

 お勉強だけできる子は二次元の平面の世界でしか経験がありません。現実社会は三次元の立体なのです。1+1=2なる解答しか、知らないわけですので、複雑怪奇な社会の縮図から考えれば、その1/10しか経験値がないのです。

 

 先生にしかられたり、時には決まりを破った経験値が後日、役に立って来るのです。学校では失敗からこそ、学ぶ経験が大事です。試験管での解答は理論であり、実証的ではありあません。そして、経験だけは誰しも、机上で教えられても身に付きません。汗水流し体を通し、その生身の現場で体験するのです。ですので、いくら口で教えて教えられるものではありません。

 

 こういう面では教師は謙虚にならないといけません。経験だけは、教えられないと……。

 

 ここで、誰でも気が付くのですが、お勉強だけできる子に育つと、そのお勉強がすべてだと思ってしまうのです。いくつになっても、そのときの100点の思いでだけで、生きているようなものです。それでは、現実の競争社会でやっていくことはできません。

 

 研究室でも入って世間から隔離された社会では通用するのでしょう。しかし、現実は色々な考えや出来事が起こります。想定内ならいざ知らず、想定外のことも日常で起こってくるのです。人間上り調子の時は、あまり、考えません。奈落の底に迄落ちて、初めて気づくのです。「親孝行したいときには親はなし」など、まさにそのことをいっています。

 

 空気があるときには空気の存在には気づきにくいのです。空気がなくなったり、汚れて初めてその大切さに気づくのです。健康も、病気になり初めて健康のありがたみに気が付くのです。それでは、遅いのです。

 

 ですから、大切なことは日頃から、生かされている自分に感謝することが大切です。そして、感謝することにより得た安定で自分の目指す方向にエネルギーを向けて行くのです。そうすることにより、日頃から健康なうちにでも健康に感謝できるようになり生きて働く力へと変わって行くのです。

 

 中には、感謝ばかりしている能天気な人もいますが、その人はストレスもないかわりに、今の世の中、自分の命までとられかねません。現実はある面厳しいのです。

 

 社会で活躍できる最も大きな資質として、私があげたいのはやはり、志です。何かをしたいというエネルギーを一生持ち続けることが最も大切なことです。それは、人や物との縁で生まれます。その縁を大切にし生かした人が社会での成功者となるのです。

 

 人の言葉で語ったり、そのまま鵜呑みにするのでなく、自分なりにそれをどうとらえるか、人との関わりの中で自分は、どう生き抜いていくのか、自分はどんなことがしたいのか、何のために生きているのか、どうしたら、人の役にたてるのか、自分の存在はこの世の中で、どういう位置づけにいるのか、なぜ、自分はこの世に生を受けたのか、社会の仕組みはどうなっているのか、自分が生きるための優先順位はどう考えたらいいのか、色々悩み、二歩の後退であきらめず、二歩後退しても三歩進めば一歩進めると考えられるか、その辺が大切です。

 

 そのようなことを勉強していかないと、大学まで出ても何も進歩しません。大学の卒業も自分の志の中の一通過点です。むしろ、卒業はこれからの出発点になるのです。そして、学んだことは必ずエネルギーとしてそれをとらへ、自分の進むべき方向へ、そのへネルギーを集中させ収束化させて行くことです。そのような学びが身に付けば鬼に金棒だと思います。単なる机上の学問も現実の中で淘汰され生きるエネルギーに変えて行くのです。 

 

 そいうい意味では、今の自由で民主主義的な考え方のできる時代は幸せな時代だといえます。天につばするのも自由、しないのも自由、ただ、確実にいえることは、天につばすれば、やがて、自分にそのつばがふりかかって来ます。

 

 ですから、そのことを自覚し、何事も自分で責任を負うという考えで思慮のある自立した生活をして行く必要があります。


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赤い宝石 今度はイチゴが採れた! イチゴからの想い

2016年05月06日 | エッセイ

震災6年5月6日

 赤い宝石、今年はイチゴがどっさり採れました。我が家ではイチゴミルクにしたりデザートに出して、食べました。ただ、私がどういう訳か、イチゴ、スイカ、リンゴ等、果物を多く採りすぎると、夜に寝られなくなることに昨年気づきました。ですので、量を加減して食べています。果物は大好きですが、これも、神様のいいつけのような気がしています。何でも、程々に、過ぎたるは及ばざるが如しなんだと思います。たかが、果物、されど果物です。彼らから、いいことを学びました。

※一袋600Gありました。これが8袋ぐらい採れましたので、4.8Kgです。妹の所や近所におすそわけです。種類は紅ほっぺが主になります。

 

 食は薬だといわれます。私自身もそう思います。三食三度毎日食べますので、食べ物には気を遣っています。殆ど、好き嫌いをせずに何でも食べます。ただ、苦手な物もあるのですが、食べるうちに愛着がわいて、何でも好きになっていくのです。ですので、あなたの好きな物は何ですか?と、いう問いには、はたと、返答に困ります。好きなすしでも毎日食べていると飽きが来ます。やはり、本来の体がそうなっているのかもしれません。

 何でも食べますので、自分にはあまり偏見というのがないと思っています。また、そうならないよう努めています。人様が一生懸命丹誠込めて作ってくれた物は、何でもおいしく感じます。

 まあ、自分の野菜作りも、同じようなスタンスで何でも、植えたり作ったりしています。そして、試行錯誤で育てるようにしています。

 今の畑では、昨年は、ソラマメがうまくできませんでした。それは、土壌の酸性にあると思い、次回から苦土石灰を多く入れるようにしましたら、アルカリ化したのかよくできるようになりました。また、ほうれん草も作る前に、たっぷり苦土石灰を入れ、アルカリ化するようにしたところできるようになりました。

 今、よくできないのが、トウモロコシと、トマトです。今後、無農薬でどうすれば、よくできるようになるか、考えてみたいと思います。

 多分、土作りが大切だと思います。まあ、素質と環境の両面も大いに関連しているだろうとも思います。トマトは収穫間際になると、枯れたり腐ったりしてしまうので、苗が強く育つような土作りや品種選びが肝要かと考えています。

 昔から、その土地で育てられている強い種を手に入れるのも一考かと思います。今、それが、ブームになっています。

 今の苗は、温室用にはいいのかも知れません。多分工場で大量生産されている関係上、純粋過ぎて、菌の耐性がないのだと思います。耐性の遺伝子が削がれているのでしょう。

 菌がいても感染しないような体力作りを考えたり、病気に強い品種を植えたりする工夫です。ちょうど、学問は学問であり、実践で鍛えてないと、その学問が実践化されないのと同じことだと思います。

 このように考えていると、生物はいかに環境に影響されているかだと思います。そして、それに立ち向かう種の持つ免疫力を高めるかです。人間も生物ですので、同じようなものではないかと推察してます。

 それにしても、最近、アレルゲンが問題となっています。ある幼稚園ではアレルギーのある子供の給食を以前は個別で作っていたのですが、最近では、給食センターが手が回らず、個別対応を保護者に任せる地域も出てきていることを聞きました。こう、アレルギーが増えると、学校ももう、限界です。一人一人に合ったものをつくるなど現実では無理でしょう。

 人のアレルギー問題も文明の進歩と共に大きな問題になってきています。生物界に人為的な変化が顕著に表れて来ている時代になったなと、つくづく感じます。このままでは、アレルゲンが増えて食べるものがなくなってしまう事態にもなりかねません。

 生物とは何か、自然循環型社会とはどういうものかを、グローバルに考えていかないと、大変な時期に来ている気がします。

 科学は自然を理解するものに使うようにし、自然の生態系を破壊するようなものに使わないようにするのが一番だと考えています。石油製品が色々できていますが、これも、徐々に減らして行くことが大切です。それから、自然界に存在しないものを作ることもやめていった方がいいのではと思います。

 薬も程々にしておかないと、自然治癒能力を下げてしまいます。

 そういう意味で、今後はより、里山的な感覚が大切だと思います。里山というイメージは、人と、自然がほどよく調和している状態だと考えています。そのような方向に世の中が進んでいってくれたら、人々はもっと、幸せになれるような気がします。その点、医学や化学の世界では大切なことではないでしょうか。

 

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