さしかねてなげまふよりもすまひをさのひさごばなとるけしきまづみよ
(為忠家後度百首~新編国歌大観4)
かくて、相撲の節明日になりて、内裏にいとかしこく、賄ひにあたりたまへる御息所、更衣たちは、参土りたまふべきことを思しつつ、手尽くしたる御化粧をしおはします。
その相撲の日、仁寿殿にてなむ聞こしめしける。内宴思ひ違へたるなるべし。その日、朝の御賄ひには仁寿殿の女御、昼の賄ひには承香殿の女御、夜さりの御庸ひには式部卿の女御、更衣十人、色許されたまへる限り、色を尽くして奉れり。更衣たち、みな日の装ひし、天の下のめづらしき綾の文を奉り尽くし、御息所たち、賄ひ仕うまつりたまはぬは、うなゐにてなむ候ひたまひける。(略)みな相撲の装束し、瓠花かざしなど、いとめづらかなることどもしつつ、左、右近の握打ちつつ候ふ。限りなく清らなる御かたちども、まして御装束奉りて、みなその日、男女、二藍をなむ奉りける。
(略)
今はみな相撲始まりて、左右の気色、祝ひそして、勝ち負けのかづきには、四人の相撲人出だして、勝つ方。一、二の相撲、方人に取られたまへる親王たち、上達部、大将、中、少将、楽したまふ。十二番まで、こなたかなたかたみに勝ち負けしたまふ。ただ今は、こなたもかなたも数なし。今一番は出だすべきになむ、勝ち負け定まるべき。左に名だたる下野の並則、上りて候ふに、並則が都に参上ること三度、ここばくの年ごろの中に、一度は仕うまつれり、一度は合ふ手なくてまかり帰りにき。天の下の最手なり。左大将のおとど、右の相撲、これに合ふべきはなしと思して、こたびの相撲にぞ勝負定まるべければ、せめてこなたかなたに挑み交はしておはしまさふ。左は並則を頼み、右は行経を頼みて、大願を立てつつ勝たむことを念じ、さらに相撲、とみに出で来ず。
かくいふほどに、まだ日高し。そのほどに御膳の貼ひ代はりて、承香殿仕まつりたまひけるを、今は夜さりの御膳になりて、式部卿の宮の女御あたりたまふを、この御息所、昼の御賄ひに、「なほこたみは仕うまつりたまへ。後は御譲りあらむことを仕うまつらむ」とて、今日はなほ承香殿仕うまつりたまふ、夕影のほどになり、かの賄ひ仕うまつりたまふ。
相撲の盛りにきしろひて、勝ち負けして、左右さまざまの相撲出だして仕うまつらせ、限りなく楽を仕うまつる。(略)
(宇津保物語~新編日本古典文学全集)
承和三年七月乙亥(八日)
天皇が神泉苑にいて相撲節を観覧した。
丙子(九日)
天皇が紫宸殿に出御して、相撲司の音楽と舞を観賞した。夕刻になろうとする頃、終了した。
(続日本後紀~講談社学術文庫)
承和八年七月戊子(二十日)
天皇が紫宸殿に出御し、左右近衛と兵衛に相撲をとらせた。
(続日本後紀~講談社学術文庫)
(長徳三年七月)二十七日、己丑。
今日、相撲の内取(うちとり)が行なわれた。(略)
三十日、壬辰。相撲召合
相撲の召合(めしあわせ)が行なわれた。(略)一番は右が勝った。天皇の勅判が有って引き分けとなった。二番の頃、張筵(はりむしろ)を出居の座に賜わった。三番の頃、右兵衛督憲定が天皇の御膳を供した。次に内蔵頭陳政朝臣が、東宮の饗饌を供した。(略)十七番が終わって、天皇は還御された。(略)
(八月)一日、癸巳。
相撲御覧が行なわれた。(略)次に抜出(ぬきいで)が行なわれた。一番。このこの番の頃、王卿以下に饗饌を賜わったことは、昨日のとおりであった。二番(略)。第三番の頃、近江介(源)規忠朝臣が倍膳を勤めた。民部権大輔(源)成信朝臣が春宮の饗饌を供した。東宮大進(源)頼光が弾正親王の饗饌を賜わった。
この頃、追相撲が行なわれた。白丁や陣直は、通例のとおりであった。追相撲の頃、所司が燭を執った。追相撲が終わって、天皇は還御された。五番の頃、瓜が下賜された。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長和二年七月)二十六日、丙辰。
「相撲節会の御前の内取は、左右二十人で行なわれます。左方の取手の者が、多く揃っておりません。右方の者は十六人と多くおります」ということだ。もしかしたら擬近(ぎこん)の奏によって、右大将の行なったものであろうか。内取りが終わって退出した時、雨が降った。左右大将(藤原公季・藤原実資)が参列していなかった。左右宰相中将(源経房・藤原兼隆)が参列した。
二十七日、丁巳。
昨夜から大雨であった。午剋にまで及んだ。そこで右大弁(藤原朝経)が来て云ったことには、「天皇の仰せでは、『雨脚が止まない。相撲の召合は延期すべきであろう』ということでした」と。仰せを承ったということを天皇に奏聞した。「明日は坎日(かんにち)である。明後日から行なうべきであろう」ということだ。雨は一日中、降った。
二十九日、己未。
内裏に参ろうとしていた頃、(大江)景理が来て、天皇の仰せを伝えて云ったことには、「早く参入せよ」と。すぐに参入した。巳四剋であった。午一剋に、天皇が相撲の召合に出御なされたことは、常と同じであった。右大臣(藤原顕光)が、上卿として天皇の御前に伺候した。ニ・三番は、左方が勝った。四番から七番に至るまでは右方が勝った。夜に入った。そこで十四番で停止(ちょうじ)とした。差王が勝負楽を演奏した後、右方もまた、演奏しようとしたが、停止させた。左方が勝数で一つ勝っていた。そこで右方の演奏を止(とど)められた。右方は引き分けと思ったのであろうか。
八月一日、庚申。
午一剋に、三条天皇の出御があった。相撲の抜出(ぬきいで)を御覧になられたのは、常と同じであった。右大臣(藤原顕光)がおっしゃって云ったことには、「よし」と。この詞は、やはり奇怪な事であった。左右の最手(ほて)を召した。右方の最手の(越智)常世は、極めて見苦しかった。頭は白く、髪はなかった。度々、障りを申した。手を突いて入ってきた。二番は、右方が(真上)勝岡、左方が(宗丘)数木であった。右方は、膝を突いて入ってきた。三番は引き分けであった。白丁による追相撲の取組が四番行なわれた。(略)左右が楽を演奏した。左方は蘇合・秦王・散手・太平楽・還城楽・散楽、右方は鳥蘇・皇仁・貴徳・弄槍・狛犬・吉簡であった。狛犬を演奏している間に、唐綾を公卿に下賜した。親王と大臣に三疋、納言に二疋、参議に一疋であった。公卿は拝舞した。北を上座として西面した。天皇は入御された。私は御簾の内に伺候した。式部卿宮(敦明親王)・中務卿宮(敦儀親王)・兵部卿宮(敦平親王)も、同じく昨日から内裏に候宿した。四宮(師明親王)も、また伺候した。私は宿直装束を賜った。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(建永元年七月)九日。天晴る。今暁、賀茂祇園に御幸の後、新宮に於て相撲七番了りて、還りおはしますと云々。未の時、大納言殿に参ず。旧史を披き、夕、盧に帰る。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(元久二年七月)廿七日。巳の時に参上す。毎事例の如し。今日、離宮に於て相撲あるべし。俄に御神事と云々。即ち退出す。上皇以下、相撲におはします。今日、殿下の姫君御着袴なり。故宗雅卿、養ひ奉る。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)