花と緑を追いかけて

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いっぱいの主婦の日記です

湘南海岸の夕景と思い出巡り

2011年09月20日 | 日常の日記
夏の太陽が照り続けた暑い三連休が終わりました。
こちら関東南部は台風15号の影響で、昨夜来から雨になっています

この台風は何やら本州の東海岸を北上しそうなコース予報・・・
12号の影響で紀伊半島には土砂ダムができており、それが決壊するのが一番怖い
これ以上被害が広がらない事を切に祈りたいですね

サンデー毎日の私には連休もさほど関係なく、
「敬老の日」も合わせて、もっぱら両親の病院と施設に通いました。

そして久しぶりに「湘南海岸」にも出向いてみました。

9月18日・「稲村ヶ崎」からの夕景

連休2日目のこの日は、朝から富士山が綺麗に見えていました

珍しく、午後なってもまだ我が家の2Fのベランダから富士山が望めたので、
藤沢の病院で療養中の母を見舞った帰りに、湘南海岸に出てみました。


「稲村ヶ崎」から見る夕日が、私のお気に入りの場所なのです。


左手に「江ノ島」、右手に「富士山」
今の季節はその間に夕日が沈んでいきますが・・・


日中は快晴だったのに、思いがけず富士山の周りにはスジ雲が多くて
残念ながら真っ赤な夕日は見られませんでした


病院から真っ直ぐ1本道で7~8km、車で15分も走れば「江ノ島」です。
それがこの日は大渋滞で、1時間半以上もかかりました

海水浴から帰る車と、夕日を期待して見に行く人で大混雑
真夏の間は避けていた「海岸通り」、お天気が良い日の休日はまだまだ渋滞覚悟ですね。


あっと言う間に夕闇が迫り、
太陽の照り返しも期待できそうになかったので帰り仕度です。

この三連休で、湘南海岸の「海のシーズン」も終わりでしょうか?
少しばかりの淋しさが感じられました。


稲村ヶ崎を訪ねた時はいつも利用するのが、この海岸通りに面したレストラン&駐車場
1967年オープンで、何度かリニューアルを繰り返し、店名も変わりましたが
ここから見る絶景は昔と同じです。

両親とも何度か訪れている思い出のレストランです。


大渋滞の中の運転ですっかりノドが乾きました。
ヤマモモのシャーベットがとても美味しい

母にも食べさせたいといつも思います。
母は誤嚥性肺炎を避けるため、去年の11月の入院から
一切口からの食事は出来なくなりました

枕元で「お母さん、naoよ」と3~4回呼びかけると、辛うじて反応がありますから
私が来た事は判っているのだと思いますが、もう10ヶ月間も寝たきりで・・・

青春時代はあの大戦争で人並みに苦労したようですが、
サラリーマンの主婦としての後半は、結構恵まれた人生を送った母・・・
「人生の最終章がこれではちょっと可哀想だなぁ~」と、病院に行く度に切なくなる私です。

ここから先は私の個人的な「思い出の地巡り」の記録ですので、
お忙しい方はスルーして下さい

中目黒~代官山散策
「国立新美術館・二期会展」に行く前に、東横線の「中目黒」から「代官山」まで歩いてみました。


私は昭和27年から31年の春まで「目黒区」に住んでいました。
その時の思い出の一つに「目黒銀座」の縁日があります。

六本木の美術館に行く途中、東横線の「中目黒駅」で下車して、まず目黒銀座に向いました。

駅前は高層ビルが建ち並びまるで変わっていましたが、
目黒銀座は何となく昭和の香りが残っていました。


こちらは私が1年生から4年生まで通った小学校
創立110年とは驚きますが、私が在籍していたのは半世紀以上も前のことになります。

学校の前は区の総合庁舎になっていた毎日歩いて通った道路は「駒沢通り」だった

私がこの小学校に通っていた頃、学校の前には「アメリカンスクール」がありました。

その後、生命保険会社の大きなビルに変わったのは知っていますが、今は目黒区のお役所。
その時代その時代の優勢な力関係が判るような変遷ですね。


この「目黒川」も良く覚えています。
最近では桜の名所として脚光を浴びていますが、
私の子供の頃の思い出にここの桜はありません


この「駒沢通り」を真っ直ぐ進むとJRの「恵比寿駅」です。

化学を学んだ父は戦争には行かず、学校を出るとすぐに北海道の国策会社に勤め
三国同盟のドイツから輸入したプラントで「石炭から石油と作る」という
壮大で夢のような研究に携わっていました。

その会社も昭和27年には閉鎖となり、家族揃って父の故郷の東京に引き揚げました。
そして落ち着いた先は父の姉の嫁ぎ先が所有していた目黒のアパート

丁度右側に建ち並ぶビルの一角にあったような・・・?

東横線が見えてきました。この手前ですねビルの裏のマンションに当時の面影が

戦前に建った鉄筋コンクリート造りのアパートは、戦災に遭わなかったのか?古びたままで、
現代のモダンなマンションとは全然違いましたが、なんとなくこの辺りの雰囲気を覚えています。

アパートの部屋にはお風呂がなくて、この東横線の線路伝いを歩いて銭湯に通いましたね。

父は2年間、中央区にある「化学」の協会団体に勤め(この時の年金が行方不明なのです)
その後某化学会社に勤める先輩に誘われて、その会社の新潟研究所勤務となりました。

昭和31年の春、会社の持ち家制度を利用して父は新潟市に家を建て、
我々家族を呼び寄せましたが、それまでの1年半は単身赴任・・・
まだ30歳前後だった母が時々泣いていた姿を覚えています。

この目黒に住んでいた頃が、母にとっては一番辛かった時代かもしれません。


私が住んでいた所は目黒区と渋谷区と品川区の境界で、
正面に見えるJR「恵比寿駅」までは、子供の足で歩いて10分位だったでしょうか?

祖母が居た父の新橋の実家に行く時は歩いて恵比寿駅に出て、当時の省線電車に乗りました。

この日は30度を越す暑い日で、私はとても恵比寿まで歩く気にはならず、
歩いて5分の一番近い東横線の「代官山駅」に出て、
途中、東京メトロ千代田線に乗り換えて「乃木坂」の国立新美術館まで行きました。

母に連れられて、当時は渋谷の東横デパート(今の東急)によく行きましたが
その度に利用した代官山の駅周辺もすっかり変わりましたね。
今では若い女性達に人気の街らしい・・・

束の間の私の「思い出探し」でした。


コメント (27)
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