先日、主人の母の23回忌の法要が、世田谷の芦花公園近くにある主人の実家でとり行われました。
肺炎で入院した孫娘の菜々ちゃんも元気になり、親戚一同への初披露も兼ねて、息子一家も全員出席しました。
その時の写真がないので、11月18日に行った鎌倉「円覚寺」の未公開画像を入れて、亡き義母の想い出を綴ってみたいと思います。
「黄梅院」
円覚寺の境内最奥に位置する塔頭寺院。足利尊氏が夢窓疎石(円覚寺15世住持)の塔所として文和3年(1354年)建立されたもの。
義母は今から22年前の12月初めに、突然「心筋梗塞」で亡くなりました。
76歳でした。
朝、同居している兄嫁から「お母さんがちょっと苦しがっているので、これから病院に連れて行きます。診察が終わったら叉詳しい事を電話で知らせますから」との
結局その日の午後に、義母はあっと言う間に息を引き取ったのです。
境内の「リンドウ」
実は義母が亡くなる5日前に、横浜の郊外に建築中だった我が家の「上棟式」を催し、主人と私の両親4人にも参加してもらったのです。
晩秋とは思えない暖かい日和でしたが、それでも「あの時の無理がたたったのかしら」としばらくは辛い思いに駆られました。
主人は「いいんだよ。俺の力で建てる家を見せたんだから。出来上がりは間に合わなかったけど親孝行したんだ」と言いますが・・・
当時大阪に住んでいた主人の上の姉も「一ヶ月前に大阪にきてもらったのよ。私が忙しくて中々一緒に観光も出来なくて・・・、最後はお母さんと喧嘩別れのようだったの。それが影響したのかしら?」と涙が隠せませんでした
突然死なれると、みんながみんな自分に原因があったのではと、悩むものなんですね。
それでも、誰にも手を煩わせる事無く亡くなった、如何にも義母らしいアッパレな死に際でした。
「仏日庵」
円覚寺の開基である、北条時宗公をおまつりしてあります。現在のは江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものとされています。
義母は「明治女」の強さを持った芯のある人でした。
主人と結婚して挨拶に行った時、最初に言われた言葉が「naoさん、人間は向上心が大切ですよ」と・・・
義母は11歳の時に父親を亡くしたそうです。
上の姉達はおんば日傘で育ち、結婚式も提灯行列だったけど、母はその時「女も自立する事が大事」と悟ったとか・・・
当時としては珍しく女ながらに2級建築士の資格を取り、昭和の初めには東京駅前の丸ビルにある建設会社の設計部で図面を引いていたそうです。
義父とはそこで知り合いました
「S建設の社内結婚第一号」なんだそうです。
「マユミ」
妙高では真っ赤な実を、そして箱根ではピンクの実を見ましたが、ここでは白い実でした
今回の法事では、出された会席料理を戴きながら主人の姉2人が、弟の嫁2人に「お母さんは何でもできる人だったのよ」と想い出を語ってくれました。
「戦後の何もない時代でも、全部手作りで可愛いお洋服を縫ってくれたし、家族で百人一首やトランプをするといつも母が一番だったの。誰も敵わなかったわ」
そういえば亡くなる前日まで「中華料理教室」に通い、踊りと謡いを習っていたらしい・・・
最後まで向上心を失わなかったお姑様!、頭が下がります。
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「方丈」
元来は寺の住持の住む建物を指しますが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっています。前庭のビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝えられています。
マウスオン・クリックでご覧下さい
義父が40代で管理職に付いたとたんに、突然肺結核で倒れました。
当時の結核と言えば「死の病」
義母は「何が何でも私が夫の命を助ける」と・・・
肺の手術前後三年間、義父の家庭内療養の看護を完璧に行なったそうです。
上は中学生の兄から下はまだ未就学の弟まで、子供5人は義母の母が面倒を見てくれたそうです。
江戸時代の家老の娘として育ったお婆様の躾けは相当厳しかったようで・・・
主人のガンコさ、古さはその時の影響かと・・・
最近孫のハー君に言っている言葉が、そう思えてなりません。
境内に咲いていた「冬桜」
幸いその後「パス」や「ストレプトマイシン」などの良い薬が開発されて、義父は元気になり、職場に復帰しました。
当時は休職していても80%の給料が保証され、社宅にそのまま住んでいられた良い時代のようでした。
葬儀の時、内助の功を発揮した妻に先立たれた義父を見て、親戚みんなが「三年持たないだろう」と心配しました。
が・・・
義父は妻の17回忌を済ませても元気に生き抜き、4年前の98歳の秋に眠るように自宅で亡くなりました。
義母は亡くなっても「夫に淋しい思いをさせない」賢夫人だったようです。
「三門」
三門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の執着を取り払って佛殿(涅槃・解脱)に至る門とされます。
私が戻る頃、どっと団体客が押し寄せてきました。
私の育った家は全く逆で・・・
姉達とは一周り以上年の離れた末っ子の母は、おんば日傘で育ったまま歳をとりました。
母はすべて父を頼り、父が家族を引っ張っていました。
私から見ればとても頼りになる父だったのです。
私たち夫婦の悲喜劇は、立派な母親を持った主人と、頼れる父親を持ったファザコン気味の私が結婚した事にあるのかな~と、時々考えてしまう私です。
久しぶりに会った主人の兄弟夫婦や姪甥たちと、取り留めのない話をしながらも・・・
女として尊敬すべきお姑様の想い出に終始した一日でした。
菜々ちゃんも、初めて会う大伯母様たちに次々に抱かれて、幼いハトコたちからもいじくり回されて・・・
お疲れ様でしたね。
肺炎で入院した孫娘の菜々ちゃんも元気になり、親戚一同への初披露も兼ねて、息子一家も全員出席しました。
その時の写真がないので、11月18日に行った鎌倉「円覚寺」の未公開画像を入れて、亡き義母の想い出を綴ってみたいと思います。
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円覚寺の境内最奥に位置する塔頭寺院。足利尊氏が夢窓疎石(円覚寺15世住持)の塔所として文和3年(1354年)建立されたもの。
義母は今から22年前の12月初めに、突然「心筋梗塞」で亡くなりました。
76歳でした。
朝、同居している兄嫁から「お母さんがちょっと苦しがっているので、これから病院に連れて行きます。診察が終わったら叉詳しい事を電話で知らせますから」との

結局その日の午後に、義母はあっと言う間に息を引き取ったのです。
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実は義母が亡くなる5日前に、横浜の郊外に建築中だった我が家の「上棟式」を催し、主人と私の両親4人にも参加してもらったのです。
晩秋とは思えない暖かい日和でしたが、それでも「あの時の無理がたたったのかしら」としばらくは辛い思いに駆られました。
主人は「いいんだよ。俺の力で建てる家を見せたんだから。出来上がりは間に合わなかったけど親孝行したんだ」と言いますが・・・
当時大阪に住んでいた主人の上の姉も「一ヶ月前に大阪にきてもらったのよ。私が忙しくて中々一緒に観光も出来なくて・・・、最後はお母さんと喧嘩別れのようだったの。それが影響したのかしら?」と涙が隠せませんでした

突然死なれると、みんながみんな自分に原因があったのではと、悩むものなんですね。
それでも、誰にも手を煩わせる事無く亡くなった、如何にも義母らしいアッパレな死に際でした。
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円覚寺の開基である、北条時宗公をおまつりしてあります。現在のは江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものとされています。
義母は「明治女」の強さを持った芯のある人でした。
主人と結婚して挨拶に行った時、最初に言われた言葉が「naoさん、人間は向上心が大切ですよ」と・・・
義母は11歳の時に父親を亡くしたそうです。
上の姉達はおんば日傘で育ち、結婚式も提灯行列だったけど、母はその時「女も自立する事が大事」と悟ったとか・・・
当時としては珍しく女ながらに2級建築士の資格を取り、昭和の初めには東京駅前の丸ビルにある建設会社の設計部で図面を引いていたそうです。
義父とはそこで知り合いました

「S建設の社内結婚第一号」なんだそうです。
![]() |
妙高では真っ赤な実を、そして箱根ではピンクの実を見ましたが、ここでは白い実でした
今回の法事では、出された会席料理を戴きながら主人の姉2人が、弟の嫁2人に「お母さんは何でもできる人だったのよ」と想い出を語ってくれました。
「戦後の何もない時代でも、全部手作りで可愛いお洋服を縫ってくれたし、家族で百人一首やトランプをするといつも母が一番だったの。誰も敵わなかったわ」
そういえば亡くなる前日まで「中華料理教室」に通い、踊りと謡いを習っていたらしい・・・
最後まで向上心を失わなかったお姑様!、頭が下がります。

元来は寺の住持の住む建物を指しますが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっています。前庭のビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝えられています。
マウスオン・クリックでご覧下さい

義父が40代で管理職に付いたとたんに、突然肺結核で倒れました。
当時の結核と言えば「死の病」
義母は「何が何でも私が夫の命を助ける」と・・・
肺の手術前後三年間、義父の家庭内療養の看護を完璧に行なったそうです。
上は中学生の兄から下はまだ未就学の弟まで、子供5人は義母の母が面倒を見てくれたそうです。
江戸時代の家老の娘として育ったお婆様の躾けは相当厳しかったようで・・・
主人のガンコさ、古さはその時の影響かと・・・
最近孫のハー君に言っている言葉が、そう思えてなりません。
![]() |
幸いその後「パス」や「ストレプトマイシン」などの良い薬が開発されて、義父は元気になり、職場に復帰しました。
当時は休職していても80%の給料が保証され、社宅にそのまま住んでいられた良い時代のようでした。
葬儀の時、内助の功を発揮した妻に先立たれた義父を見て、親戚みんなが「三年持たないだろう」と心配しました。
が・・・
義父は妻の17回忌を済ませても元気に生き抜き、4年前の98歳の秋に眠るように自宅で亡くなりました。
義母は亡くなっても「夫に淋しい思いをさせない」賢夫人だったようです。
![]() |
三門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の執着を取り払って佛殿(涅槃・解脱)に至る門とされます。
私が戻る頃、どっと団体客が押し寄せてきました。
私の育った家は全く逆で・・・
姉達とは一周り以上年の離れた末っ子の母は、おんば日傘で育ったまま歳をとりました。
母はすべて父を頼り、父が家族を引っ張っていました。
私から見ればとても頼りになる父だったのです。
私たち夫婦の悲喜劇は、立派な母親を持った主人と、頼れる父親を持ったファザコン気味の私が結婚した事にあるのかな~と、時々考えてしまう私です。
久しぶりに会った主人の兄弟夫婦や姪甥たちと、取り留めのない話をしながらも・・・
女として尊敬すべきお姑様の想い出に終始した一日でした。
菜々ちゃんも、初めて会う大伯母様たちに次々に抱かれて、幼いハトコたちからもいじくり回されて・・・
お疲れ様でしたね。
なかなか立派なお義母さまだったようです。
よいところはnaoママさんも受け継いで子孫に残さないといけませんね。
親戚一同が集まるのは結婚式か法事しかないようです。
その法事もしない家族が増えたそうです。
時代の流れでしょうか?
私の祖母も(父の母)は長生きしてくれました。
立派なお義母さまでしたね。
義母はまだ働いています。義父の1周忌が終わって少し落ち込んでいるのが心配ですが・・・
近くに住んでいるのでしょっちゅう会いに行きます。
主人の祖母がもうすぐ94歳ですが、一度危ないと言われ、
覚悟していたら、今、本家でご飯をパクパク
曾孫の顔もあまりわかりませんが、ドライブが好きで、デイサービスの車に乗るのがいいみたいです。
お正月に会いに行きます。
ついつい・・・貴方のご両親の話と、ごっちゃになって^^;;
でも目に見えるよう、手の取るように分かりました。
あの時代に素晴しいお方ですね。
確かにあの時代は、その家の前を駆けっこで通り抜けた思い出が有ります。隔離病棟に入院した人や。
でも、皆さん懸命に闘って生きてきたんですね。
男三人に女二人のご兄弟だったのですね!私も良く似た時代を生きてきました。法事に集まって、しっかりお話しているお姉さま二人の様子が生き生き感じられます。貴女の様な弟家族さんだったら、得々として喋っているワタクスでしょうか。聞いて貰って嬉しいばかりです。
と言うわけで
写真も見ないで、お話ばかりに熱中してしまいました。
良いお話ですね。また、聞かせて下さいね。因みにワタクスの両親は貴女のお家と一緒です。
そして、戦後生まれの私には義母のような芯の強さは持ち合わせていません。
でも「人間、向上心が大事」という教えは、孫達にも伝えて行きたいと思っています。
本当に主人の兄弟が一同に集まるのは冠婚葬祭に限られてきましたね。
次回は再来年の義父の七回忌でしょうか?
その前に姪や甥の結婚式があるかな?
本家を継いだ長兄が、脳梗塞や糖尿病で半身不随&片足切断となりましたが・・・
甥が立派に後を次いで同居していますので、法事はやってくれるでしょう。
肝が据わっている感じですね。
到底太刀打ちできません。
ミンゴさんのお婆さまもそうでしたか・・・
ご主人のお母様は未亡人になられてまだ日が浅いのですね。
女が残る場合は立ち直りは早いと聞いています。
淋しさがあるでしょうから、時々訪ねてあげるのが良いでしょうね。
主人の両親は兄一家と同居して三年目で母が亡くなったので・・・
義父は淋しかったと思いますが、生活面での不自由がなかったのが幸いしたんだと思います。
娘である姉もすぐそばに住んでいたので、何かと訪ねて面倒を見てくれていました。
老人は孤独にさせない事が大事なんでしょうね。
父は母が亡くなって49日を済ませたら力が抜けてしまったのでしょう。1週間後に亡くなったのですよ。実家を守っている弟は今思うと大変だったろうと思います。
気丈な母の背中を見せるだけで、皆親孝行な子供に育ったようです。
今の時代、親が楽をしていては中々親孝行な子供は育たないでしょうね。
会社も今のようにすぐに首を切る時代ではなかったので、主人達5人の子供は、父親が療養中にも関わらず広い社宅で伸び伸びと育ったようです。
お婆さまは厳しかったそうですが・・・
S18年生まれの主人は5人兄弟の4番目・・・
上に姉二人がいたので何かとクッションになってもらい、一番自由奔放に育った次男坊です。
私の母はS20年に札幌で父と結婚しました。
日本が戦争で負けた年なのに、ちゃんと結婚式を挙げ、定山渓に新婚旅行に行っているのですよ。お米持参だったそうですが・・・
北海道ではジャガイモ、牛乳、シャケ、数の子と手に入り、母から食糧難の苦労の話を聞いた覚えがありません。
何でも両親や姉達が助けてくれたから、姫様でいられたようです。
主人の母にはかなわないなぁ~と、ひれ伏すのみでしたが・・・
私の母にはどっちが親かわからなくなることがあります。
つい最近まで「施設の皆様に親切にされたらちゃんと”ありがとう”って言うのよ!」って教えていました。
今ではそれがちゃんと言える母になっていて、ホッと胸をなでおろしている私です。
mikoさんのお母様はきっと可愛い奥さんだったんでしょうね。
主人の母は立派過ぎて、きっと義父は頭が上がらなかったんだと思います。
子供達の親に接する態度を見ても、それは十分にうかがい知る事ができました。
ですから母が亡くなった後、父は重石もとれて、18年も長生きをしたのでしょう。
そこには兄夫婦や姉達の献身的な介護があったからだとは思いますが・・・
次男の嫁の私などはたまに顔を見せるくらいで、さして親孝行もせずに申し訳ないと思っています。
その後、お体の具合は如何ですか?
私たち世代は戦争を体験した母たちの強さはには全く及びませんね。私の母も父を亡くして十数年、田舎で一人で頑張っていました。近くの町に弟夫婦がいましたが、毅然として一人で先祖から受け継いだ家を守っていました。母が亡くなって、その家にはもう誰も住んでいません。寂しいですがそれが現代なんですね。
奥様に先立たれたご主人のお父様が98歳まで長生きしたんですね。ご兄弟の協力が欠かせませんでしたでしょう。我が家の主人は自分が先に逝くと思い込んでいますが、大丈夫かしら?
ご主人の義母様のお話を伺ってから23年、
早いですね。不思議に思うんですよ、結婚し
相手のご両親、兄弟、親戚と他人の中に加わり
大切な関係に成るんですね。
私自身もお嫁さん2人いても、少しも成長せず
96歳に成る義母に頭が下がります。
又お正月は田舎で義母に会えそうです。
何時もnaoママのブログで山や自然や花に
感動してます。
お仕事も始めて忙しいでしょうが、お身体に
気を付けてね