ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

階段でおはようございます

2014-08-10 20:59:18 | 出会い
 現職時代の私は、千葉市海浜地区に住み、
主に東京都東部の小学校に勤務していた。

 まだ車通勤が黙認されていた若い頃を除き、
いつも電車・バスを使い、1時間半前後の通勤だった。
 教員の宿命で、朝は早く、勤務校が変わっても
いつだって6時半には家を出ていた。
 通勤ラッシュ前には最寄り駅につき、そこから自転車かバス、徒歩で学校に行った。

 私に限らず出勤にはそれぞれの定刻がある。
だから、お定まりの車両の扉や駅ホーム、通勤路で毎日同じ人と会う。
 しかし、誰もが何かと慌ただしい時間に加え、
朝のこの時間はその日の仕事のこと等でいっぱいいっぱいで、
そのためだろう、毎朝出会い、すれ違うだけの人の顔など、
しっかりとは覚えていないものである。
ましてや、挨拶など交わすことなどない。

 とある日、
私は午後の研修会で他校へ出張に出かけた。
昼下がりの地下鉄の車内は、人もまばらで席が空いていた。
「これ幸い」と座った矢先、
斜め向かいからの視線に気づいた。
おもむろに、そちらに目を向けると、
その女性はすでに視線をはずし、うつむいていた。

 どこかで見たことのある顔だったが、思い出せなかった。
 私が視線をはずすと、その女性は再び私を見ているようだった。
 私は、「間違いなくどこかで会ったことのある、見覚えのある顔だけど。」
と、もう一度その女性を見た。
その時、視線が合ってしまった。
 私はためらいながらも素知らぬふりができず、
ゆっくりと頭をさげ無言の挨拶をした。
すると、その女性も会釈を返してくれたが、
しかし、その表情は私に何も教えてはくれなかった。
その女性は、次の駅で私を見ることもなく、降りていった。

 私と同じくらいか、若干年上ようにも思えた。
いつどこで会ったのか、仕事上の知り合いかプライベートかなど
全く思い出せないまま私は、
電車が出張先の駅に着く頃には、もう仕事のことを考えていた。

 ところが、ところがであった。
翌朝のことだった。
 定刻に家を出て、電車を一度乗り換えて
勤務校の最寄り駅で地下鉄を降り改札を抜け、
いつもの階段を登り始めた。

 この階段では、毎朝一人の女性とちょうど真ん中あたりですれ違った。
 その朝も彼女は、静かな足取りで近づいてきた。
何気なく顔を上げると、昨日の昼下がりの電車内が蘇った。
階段を登る足取りが止まりそうになった。
私の斜め前に座っていた女性だ。

 私は、一瞬躊躇した。
そして、階段を降り、私に近づいてくる女性も、一瞬躊躇したように思えた。

昨日、あの車内で頭を下げ合ったのは確かである。
私は、昨日の朝までと同じように
見知らぬ顔でその場を通り過ぎることができなかった。
できるだけ普通に、静かに「おはようございます。」
と言い、すれ違った。
ほぼ同じように、その女性も
「おはようございます。」
と、軽く会釈をし、階段を降りていった。

 以来、勤務校が変わるまでの毎朝、
私とその方は、
地下鉄から地上に出る細い階段で、
「おはようございます。」
と、挨拶をした。

 「あの昼下がり、車内で会った時、
貴方は毎朝階段ですれ違っていた私だと気づいていましたか。」
と、訊くこともなかった。

 人は誰でも、沢山の様々な人と出会う。
しかし、私にとってこの出会いは、なぜかいつまでも記憶にある。

 マスクをしていた日は、風邪ひいたのかなと、
 少し髪が短くなると美容院へ行ったんだと、
 そして、いつしか
 「おはようございます。」の声で、勝手に喜怒哀楽を感じたりしていた。

 人生には、そんなささやかなドラマがいくつもあっていいと、私は思う。



イタドリの花が咲き始めた(後ろは有珠山)
 
コメント
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