伊達に来て初めての冬を過ごし、間もなく春を迎えようとしてしていたとき、
『春一番・伊達ハーフマラソン』のポスターを見た。
北海道では雪解けが早い伊達で、例年行われている大会だと知った。
冬の間も除雪のすんだ雪道を、
スノー用のジョギングシューズと厚手のトレーニングウエア、防寒用帽子と手袋で、
それまでより少し遅い時間帯に
スロージョギングを続けていた。
しかし、その大会への参加など無理と思ったが、
ハーフマラソンの他に、10キロと5キロのコースが用意されていた。
よくよくそのコースを見ると、5キロはいつもジョギングしている道路と重複しており、
「ここなら私でも走れるかも。」
と、思わせるものだった。
しかも、それぞれのコースが年齢別エントリーとなっており、それも私を惹きつけた。
数日迷ったあげく、思い切って家内を誘うと、
「やってみようか!」の返事。
その反応に背中を押され、
「そんな目的でジョギングしていた訳じゃないのに。」
と、思いつつ、それでもその日に向けてどことなく熱を入れて走るようになった。
4月中旬の日曜日、
道内より3000人を超えるランナーが集まり、
久しぶりの熱気に、少し若返った気分で人混みの中にいた。
コースごとに次々とスタートし、私たち5キロ組も走り出した。
沢山の若者に混じり、それでもしっかりと自分のペースを守り走り続けた。
地元開催のためコースだけは熟知していた。
ここまではなだらかな上り坂、ここからしばらくは平坦、
そして下り坂はあの曲がり角までと思いつつ走った。
私も家内も無事完走した。
ゼッケンにはチップがついており、ゴールするとすぐに記録証がもらえるシステムになっていた。
現職時代、毎年職場対抗のバドミントン等の親睦試合には出ていたが、
このような一般募集のスポーツ大会への参加は、30歳代以来だった。
そのためか、完走し記録証をいただいた私は有頂天になっていた。
家内がむけたカメラに記録証をかさしピースサインまでし、
勢い首都圏にいる息子たちに、その写メまで送った。
その頃、私たちがゴールした場所へは、次々と10キロのランナーが戻ってきていた。
特にそのランナーたちに興味があった訳ではないが、
ハイテンションの私は、10キロのランナーに拍手をしようとゴールそばへ行った。
そのゴールに、手首と手首を紐で結んだ男女のランナーが入ってきた。
テレビ報道で知ってはいたが、視覚障害のランナーと伴走者だと気づいた。
ゴール後、二人はゆっくりと歩を進め、声をかけ合っていた。
二人の晴れやかな顔。そのとき、私の時間は止まっていた。
私の倍の距離を、しかも視覚障害というハンディがありながらゴールした女性。
またその人を援助し続け伴走した男性。
私の心は、ただただ震えていた。
ところが、それは一組ではなかった。
その後、伴走者をともなったランナーが6組も7組もゴールしてきたのだった。
「私は5キロを走るのに精一杯だったけど、貴方たちはどうやって練習したの?」
「なぜその不自由な視力で、10キロもの道を走ろうと思ったの?」
私は、1本の紐で結ばれたランナーたちに、胸も目頭も熱くしていた。
そして、
今の今まで意気揚々とかざしていた5キロの記録証を後ろに隠し
「何か、恥ずかしい。」
と、つぶやいていた。
大会からの帰り道、私は「来年は、絶対に10キロを走る。」と家内に言った。
人にはそれそれ限界がある。
しかし、その限界を勝手に自分で決めてはいないだろうか。
還暦を過ぎた私にどれだけの可能性が残されているのか、
それにトライするのは、まさに身の程知らずなことかも。
しかし、私はこのままではいられない気持ちになっていた。
紐で結ばれたランナーたちへ、勝手にチャレンジャーになった。
街路樹・ナナカマドが色づきはじめた
『春一番・伊達ハーフマラソン』のポスターを見た。
北海道では雪解けが早い伊達で、例年行われている大会だと知った。
冬の間も除雪のすんだ雪道を、
スノー用のジョギングシューズと厚手のトレーニングウエア、防寒用帽子と手袋で、
それまでより少し遅い時間帯に
スロージョギングを続けていた。
しかし、その大会への参加など無理と思ったが、
ハーフマラソンの他に、10キロと5キロのコースが用意されていた。
よくよくそのコースを見ると、5キロはいつもジョギングしている道路と重複しており、
「ここなら私でも走れるかも。」
と、思わせるものだった。
しかも、それぞれのコースが年齢別エントリーとなっており、それも私を惹きつけた。
数日迷ったあげく、思い切って家内を誘うと、
「やってみようか!」の返事。
その反応に背中を押され、
「そんな目的でジョギングしていた訳じゃないのに。」
と、思いつつ、それでもその日に向けてどことなく熱を入れて走るようになった。
4月中旬の日曜日、
道内より3000人を超えるランナーが集まり、
久しぶりの熱気に、少し若返った気分で人混みの中にいた。
コースごとに次々とスタートし、私たち5キロ組も走り出した。
沢山の若者に混じり、それでもしっかりと自分のペースを守り走り続けた。
地元開催のためコースだけは熟知していた。
ここまではなだらかな上り坂、ここからしばらくは平坦、
そして下り坂はあの曲がり角までと思いつつ走った。
私も家内も無事完走した。
ゼッケンにはチップがついており、ゴールするとすぐに記録証がもらえるシステムになっていた。
現職時代、毎年職場対抗のバドミントン等の親睦試合には出ていたが、
このような一般募集のスポーツ大会への参加は、30歳代以来だった。
そのためか、完走し記録証をいただいた私は有頂天になっていた。
家内がむけたカメラに記録証をかさしピースサインまでし、
勢い首都圏にいる息子たちに、その写メまで送った。
その頃、私たちがゴールした場所へは、次々と10キロのランナーが戻ってきていた。
特にそのランナーたちに興味があった訳ではないが、
ハイテンションの私は、10キロのランナーに拍手をしようとゴールそばへ行った。
そのゴールに、手首と手首を紐で結んだ男女のランナーが入ってきた。
テレビ報道で知ってはいたが、視覚障害のランナーと伴走者だと気づいた。
ゴール後、二人はゆっくりと歩を進め、声をかけ合っていた。
二人の晴れやかな顔。そのとき、私の時間は止まっていた。
私の倍の距離を、しかも視覚障害というハンディがありながらゴールした女性。
またその人を援助し続け伴走した男性。
私の心は、ただただ震えていた。
ところが、それは一組ではなかった。
その後、伴走者をともなったランナーが6組も7組もゴールしてきたのだった。
「私は5キロを走るのに精一杯だったけど、貴方たちはどうやって練習したの?」
「なぜその不自由な視力で、10キロもの道を走ろうと思ったの?」
私は、1本の紐で結ばれたランナーたちに、胸も目頭も熱くしていた。
そして、
今の今まで意気揚々とかざしていた5キロの記録証を後ろに隠し
「何か、恥ずかしい。」
と、つぶやいていた。
大会からの帰り道、私は「来年は、絶対に10キロを走る。」と家内に言った。
人にはそれそれ限界がある。
しかし、その限界を勝手に自分で決めてはいないだろうか。
還暦を過ぎた私にどれだけの可能性が残されているのか、
それにトライするのは、まさに身の程知らずなことかも。
しかし、私はこのままではいられない気持ちになっていた。
紐で結ばれたランナーたちへ、勝手にチャレンジャーになった。
街路樹・ナナカマドが色づきはじめた