子どもの頃、我が家は小さな魚屋を営んでいた。
父と母、兄の三人で、毎日食事の時間も惜しんで立ち働いていた。
夕食の団らんなど、私の思い出にはさほどない。
しかし、お客さんが途絶えたころ、店じまいをし、
その日の売り上げを、車座になって数える時間がくる。
幼い頃はその輪に加えてもらえなかったが、
小学校中学年になると、小銭を数えるお手伝いをさせてもらえた。
父母と兄は、その日の売り上げ高を確かめ、
疲れを忘れたように元気な声になったり、
ため息まじりになったりしながら、
「○○さんがたくさん買ってくれたから。」
「あの魚はもっと高い値でも売れるよ。」
「明日は刺身用の品を多くしてもいいね。」
と、語り合い、
そして、翌日の算段を決め一日が終わるのだった。
商売人のモチベーションは、その規模の違いはあれ、
毎日の売り上げ高が決めるように思う。
胸算用していた金額に達したと喜び「明日も」と、意気込み、
そうでなかった日は、新しい策を練り
「明日こそは」と、気持ちを高めるのである。
しかし、
教師のモチべーションはそれとは大きく違う。
1年生算数で「10の補数」を学ぶ。
『1と9、2と8、……、5と5…』
みんなもよくわかったと、授業の最後は明るい表情をし、元気になる。
そして次の日。
昨日を振り返り
「10はどんな数でできているの?」と、訊いてみる。
すると何人かの子が「なんのことか。」と、不安な顔をするのだ。
「みんな、あんなに明るい顔をして理解していたようだったのに。」
と、教師は落胆する。
また、昨日に戻って教え直しである。
このようなことは、小学校ではいろいろな指導場面、どの学年でもよく見られることである。
「だから、どうせどう教えたって、また明日は今日と同じ。」
そう思うようなら、その先生は他の仕事を探した方がいいと思う。
小さい子どもほど、
繰り返し繰り返し、粘り強く指導してこそ、理解が進むのである。
しかも、その繰り返しは同じやり方ではなく、
手を変え品を変えといった指導の工夫が必須条件で、
それなしには子どもの意欲は継続しないのである。
その上、どんなに粘り強く時間をかけ、工夫を重ねて指導しても、
理解が進まない子どももいる。
「ここまでやってもダメなのか。」
と、熱心に指導した教師であればあるほど、その挫折感も大きく、
教師としてのモチベーションも失いかけるのである。
適切な言葉ではないと思うが、
私は、子どもの体内には『熟成』という作用があると信じている。
その時、先生から繰り返し教えてもらっても、分からなかったことやできなかったことが、
数ヶ月先、いや数年先、あるいは十数年先に、
「そうか、分かった。」「なんだ、そんなことか。」「こんな簡単に、できた。」などと、気づくことがままある。
音読が下手だった私が、
声より少し先の字を目で追うようになり、他の子と同じように読めるようになったのは、
そんな方法を教えてもらってから、2,3年あとだったと記憶している。
これを『熟成』だと私は言いたい。
このような気づきは、過去における教師の熱心な指導の賜物である。
しかし、教師はそんな結果を知る機会に恵まれてはいない。
だから、
小学校教師とは、
「子どもへの熱心な働きかけが、はるか先・いつか、必ず実を結ぶ。」
そう確信できる人に与えられる仕事だと、私は思っている。
今朝、花壇を訪れたお客さん
父と母、兄の三人で、毎日食事の時間も惜しんで立ち働いていた。
夕食の団らんなど、私の思い出にはさほどない。
しかし、お客さんが途絶えたころ、店じまいをし、
その日の売り上げを、車座になって数える時間がくる。
幼い頃はその輪に加えてもらえなかったが、
小学校中学年になると、小銭を数えるお手伝いをさせてもらえた。
父母と兄は、その日の売り上げ高を確かめ、
疲れを忘れたように元気な声になったり、
ため息まじりになったりしながら、
「○○さんがたくさん買ってくれたから。」
「あの魚はもっと高い値でも売れるよ。」
「明日は刺身用の品を多くしてもいいね。」
と、語り合い、
そして、翌日の算段を決め一日が終わるのだった。
商売人のモチベーションは、その規模の違いはあれ、
毎日の売り上げ高が決めるように思う。
胸算用していた金額に達したと喜び「明日も」と、意気込み、
そうでなかった日は、新しい策を練り
「明日こそは」と、気持ちを高めるのである。
しかし、
教師のモチべーションはそれとは大きく違う。
1年生算数で「10の補数」を学ぶ。
『1と9、2と8、……、5と5…』
みんなもよくわかったと、授業の最後は明るい表情をし、元気になる。
そして次の日。
昨日を振り返り
「10はどんな数でできているの?」と、訊いてみる。
すると何人かの子が「なんのことか。」と、不安な顔をするのだ。
「みんな、あんなに明るい顔をして理解していたようだったのに。」
と、教師は落胆する。
また、昨日に戻って教え直しである。
このようなことは、小学校ではいろいろな指導場面、どの学年でもよく見られることである。
「だから、どうせどう教えたって、また明日は今日と同じ。」
そう思うようなら、その先生は他の仕事を探した方がいいと思う。
小さい子どもほど、
繰り返し繰り返し、粘り強く指導してこそ、理解が進むのである。
しかも、その繰り返しは同じやり方ではなく、
手を変え品を変えといった指導の工夫が必須条件で、
それなしには子どもの意欲は継続しないのである。
その上、どんなに粘り強く時間をかけ、工夫を重ねて指導しても、
理解が進まない子どももいる。
「ここまでやってもダメなのか。」
と、熱心に指導した教師であればあるほど、その挫折感も大きく、
教師としてのモチベーションも失いかけるのである。
適切な言葉ではないと思うが、
私は、子どもの体内には『熟成』という作用があると信じている。
その時、先生から繰り返し教えてもらっても、分からなかったことやできなかったことが、
数ヶ月先、いや数年先、あるいは十数年先に、
「そうか、分かった。」「なんだ、そんなことか。」「こんな簡単に、できた。」などと、気づくことがままある。
音読が下手だった私が、
声より少し先の字を目で追うようになり、他の子と同じように読めるようになったのは、
そんな方法を教えてもらってから、2,3年あとだったと記憶している。
これを『熟成』だと私は言いたい。
このような気づきは、過去における教師の熱心な指導の賜物である。
しかし、教師はそんな結果を知る機会に恵まれてはいない。
だから、
小学校教師とは、
「子どもへの熱心な働きかけが、はるか先・いつか、必ず実を結ぶ。」
そう確信できる人に与えられる仕事だと、私は思っている。
今朝、花壇を訪れたお客さん