① 家内が参加している朗読ボランティアの会が、
次の例会で、著名なエッセイ『物売りの声』(?)を朗読し、
録音すると言う。
家内も、その一部を担当するとか・・。
エッセイの内容を尋ねると、
昔はよく物売りの声が聞こえたが、
今は、聞くことがなくなった。
どうやらそんなことが記述されているようだった。
幼い頃のうっすらとした記録が、断片的に蘇った。
納豆売りや豆腐売りの声が、
目覚めたばかりの早朝や遊び疲れた夕方に、
よく近づいてきた。
時々だが、早朝に母に頼まれた。
小銭を握り、外へ飛び出した。
荷台に木箱をのせた自転車にまたがり、
「ナットウ! ナットウ!」と叫ぶお兄ちゃんを、
道端でジッと見た。
自転車を止め、「納豆か?」と訊いてくれた。
私は、黙ってうなずき、お兄ちゃんを見上げ、
手のひらをひろげ小銭を見せる。
お兄ちゃんは、荷台から納豆を取り出し、
手ひらの小銭を取り、その手に納豆を載せてくれた。
再び、自転車をまたぎ、「ありがとう!」と言い、
「ナットウ! ナットウ!」と言いながら、
お兄ちゃんは遠ざかっていった。
しばらく後ろ姿を見ていた。
家に戻りと、母は「あら、偉かったね」と言い、
納豆を受け取った。
何も言わないで買ったことを、
いつも誰にも言わなかった。
後ろめたさが、心に残った。
何年が過ぎただろうか。
確か、小4か小5の頃だったと思う。
国語で早口言葉を学習した。
「瓜売り」の言葉だけは、それからずっと覚えている。
瓜売りが
瓜 売りに来て
瓜 売り残し
売り売り帰る
瓜売りの声
まだ誰も帰って来ない家の中で、
声を出して、「瓜売り」の言葉を繰り返し練習した。
急に、「ナットウ! ナットウ!」の声と、
自転車にまたがり、遠ざかっていくお兄ちゃんを思い出した。
一緒に、『売り売り帰る 瓜売りの声』が、悲しく心に響いていた。
「もしかしたら、お兄ちゃんも納豆を売り残したかも」。
そう思うと、息がつまった。
一人ぼっちの家で、ベソをかきそうになった。
② 私が3歳の頃から、父と母は魚の行商を始めた。
リヤカーに魚を積み、一日中、売り歩いた。
今も、魚料理専門店の厨房に立つ10歳違いの兄は、
中学を卒業するとすぐに、
両親と一緒にリヤカーを押し、商売を手伝った。
朝食を済ませ、6時半に父と兄は市場へ行った。
9時過ぎに帰ってくるまでに、
母は台所仕事や洗濯など家事を済ませた。
市場で仕入れた魚が届くと、リヤカーに積み込み、
3人は10時に出発した。
売り歩くコースは、曜日によって少し違ったが、
ほぼ変わらない。
途中で、昼食のため一度戻るが、
休む間もなく4時、5時まで行商は続いた。
戻ると、売れ残りの処理をした。
魚の多くは干物にした。
中には氷でもう1日冷蔵保存した。
夕食は、決まって7時を回ってからだった。
中学生になると、「休みの日ぐらいは手伝え!」。
兄に言われた。
渋々リヤカーを横から押して、手伝いの真似事をした。
その時、はじめて父と兄の物売りの声を聞いた。
毎日、決まった時刻にリヤカーを止め、
お客さんを呼び寄せる場所があった。
そこに近づくと、2人は声を張り上げた
「ちわー! ちわー! 来たよー!」
「ちわー! ちわー!
いいニシンあるよー! イカもいいよー!」
「ちわー! ちわー!」
しばらくすると、1人2人とお客さんが寄ってきた。
時には、7、8人がリヤカーを囲んだ。
その人達が買い物を済ませると、
次の売り場所へ、リヤカーは移動した。
再び、そこで2人は、
「ちわー!、ちわー! ・・・」と、
リアカーの魚屋が来たことを告げた。
その声に買い物客は、集まってくるのだ。
やがて、兄は運転免許をとった。
リヤカーは小型トラックに変わった。
行商のエリアも広がった。
なのに、車を止めては「ちわー! ちわー! ・・・」と、
声を張り上げた。
見かねた私は、その声を車載拡声器でするよう提案した。
しかし、兄は真顔で教えてくれた。
「この辺りは、三交代で仕事してる人、多いべ。
昼、寝てる人もいるべさ。迷惑かけられないべ」。
「やっぱり、この人はすごい!」。
脱帽した。
③ 首都圏の団地暮らしでは、
古紙とトイレットペーパーの交換を、
車載拡声器でアナウンスしながら、
頻繁に回る小型トラックがあった。
しかし、それもいつ頃からか聞かなくなった。
私が記憶する最後の物売りの声は、『サオダケ』である。
窓の外から「さおだけー さおだけー」のアナウンスが、
繰り返し聞こえた。
車載拡声器からの物売りの声だと分かったが、
その品物が『物干し竿』と気づくまでには、
かなり時間を要した。
聞いた当初、私の理解は「竿だけ」だった。
つまり「つり竿だけを売っている」と考えた。
実に不思議だった。
「つり竿だけ・・、と言うことは、
釣り針とかリールは売っていない。
当然、釣りエサも売ってない。
変わった物売りだ」。
「全く、うさんくさい!」。
そう思うと、その声が近づいてきても、
窓から確かめる気にもなれなかった。
それからしばらく年月が過ぎた。
買い物帰りの途中、
「さおだけー さおだけー」と、
コールする小型トラックがゆっくりと通り過ぎた。
うさんくさい目で、その荷台を見た。
我が家のベランダにある物干し竿と同じ物が
数十本、斜めに並んでいた。
「なんだ、竿竹だったか!」。
大きく納得した。
「あんな長いものは、店で買っても持ち帰りが大変だ。
そうか! ああして売り歩いているのを買うのが一番だ」。
思い込みのギャップもあって、そんな強い想いに至った。
ところが、「さおだけー」へのそんな想いが、禍した。
団地の近くに、30階建ての高層マンションができた。
そこはペットと同居ができた。
愛猫を堂々と飼うためにもと、購入を決めた。
引っ越しの日、
最後の荷物を積み込み、最終のトラックと一緒に、
新居に向かおうとした時だった。
「さおだけー さおだけー」のトラックが近づいてきた。
今、積み込んだばかりの物干し竿を思い出した。
20年以上も使い、さび付いていた。
何一つ迷わなかった。
竿竹の購入は、「さおだけー」のトラックからだ。
「買い換える絶好のチャンス!」。
引っ越しの作業員と、「さおだけー」のトラックを呼び止めた。
新しい竿竹を買い、古いものを引き取ってもらった。
その後、引っ越し作業は順調に進んだ。
ところが、全ての作業が終えた頃、
作業員たちが車座になって、小声で相談をしだした。
そして、作業主任がやや困り顔で、私のところへ。
「実は、先ほど買った竿竹ですが、
2つの角を曲がってから、こちらの玄関があるものですから、
長い竿をベランダまで運び入れることができません。
外からの搬入も、こちらの高さの階まででは、無理でして、
申し訳ございません」。
主任は、深々と頭をさげた。
「竿竹のトラックが来たから、
つい衝動買いをしてしまいました。
後で、スーパーで伸縮性の竿を買えばよかったのに、
ご迷惑をかけました。
買った竿竹は、不用品扱いで持ち帰ってもらえませんか。
お願いします」。
今度は、私が頭を下げた。
有珠山 == ずっと平穏でいて!
次の例会で、著名なエッセイ『物売りの声』(?)を朗読し、
録音すると言う。
家内も、その一部を担当するとか・・。
エッセイの内容を尋ねると、
昔はよく物売りの声が聞こえたが、
今は、聞くことがなくなった。
どうやらそんなことが記述されているようだった。
幼い頃のうっすらとした記録が、断片的に蘇った。
納豆売りや豆腐売りの声が、
目覚めたばかりの早朝や遊び疲れた夕方に、
よく近づいてきた。
時々だが、早朝に母に頼まれた。
小銭を握り、外へ飛び出した。
荷台に木箱をのせた自転車にまたがり、
「ナットウ! ナットウ!」と叫ぶお兄ちゃんを、
道端でジッと見た。
自転車を止め、「納豆か?」と訊いてくれた。
私は、黙ってうなずき、お兄ちゃんを見上げ、
手のひらをひろげ小銭を見せる。
お兄ちゃんは、荷台から納豆を取り出し、
手ひらの小銭を取り、その手に納豆を載せてくれた。
再び、自転車をまたぎ、「ありがとう!」と言い、
「ナットウ! ナットウ!」と言いながら、
お兄ちゃんは遠ざかっていった。
しばらく後ろ姿を見ていた。
家に戻りと、母は「あら、偉かったね」と言い、
納豆を受け取った。
何も言わないで買ったことを、
いつも誰にも言わなかった。
後ろめたさが、心に残った。
何年が過ぎただろうか。
確か、小4か小5の頃だったと思う。
国語で早口言葉を学習した。
「瓜売り」の言葉だけは、それからずっと覚えている。
瓜売りが
瓜 売りに来て
瓜 売り残し
売り売り帰る
瓜売りの声
まだ誰も帰って来ない家の中で、
声を出して、「瓜売り」の言葉を繰り返し練習した。
急に、「ナットウ! ナットウ!」の声と、
自転車にまたがり、遠ざかっていくお兄ちゃんを思い出した。
一緒に、『売り売り帰る 瓜売りの声』が、悲しく心に響いていた。
「もしかしたら、お兄ちゃんも納豆を売り残したかも」。
そう思うと、息がつまった。
一人ぼっちの家で、ベソをかきそうになった。
② 私が3歳の頃から、父と母は魚の行商を始めた。
リヤカーに魚を積み、一日中、売り歩いた。
今も、魚料理専門店の厨房に立つ10歳違いの兄は、
中学を卒業するとすぐに、
両親と一緒にリヤカーを押し、商売を手伝った。
朝食を済ませ、6時半に父と兄は市場へ行った。
9時過ぎに帰ってくるまでに、
母は台所仕事や洗濯など家事を済ませた。
市場で仕入れた魚が届くと、リヤカーに積み込み、
3人は10時に出発した。
売り歩くコースは、曜日によって少し違ったが、
ほぼ変わらない。
途中で、昼食のため一度戻るが、
休む間もなく4時、5時まで行商は続いた。
戻ると、売れ残りの処理をした。
魚の多くは干物にした。
中には氷でもう1日冷蔵保存した。
夕食は、決まって7時を回ってからだった。
中学生になると、「休みの日ぐらいは手伝え!」。
兄に言われた。
渋々リヤカーを横から押して、手伝いの真似事をした。
その時、はじめて父と兄の物売りの声を聞いた。
毎日、決まった時刻にリヤカーを止め、
お客さんを呼び寄せる場所があった。
そこに近づくと、2人は声を張り上げた
「ちわー! ちわー! 来たよー!」
「ちわー! ちわー!
いいニシンあるよー! イカもいいよー!」
「ちわー! ちわー!」
しばらくすると、1人2人とお客さんが寄ってきた。
時には、7、8人がリヤカーを囲んだ。
その人達が買い物を済ませると、
次の売り場所へ、リヤカーは移動した。
再び、そこで2人は、
「ちわー!、ちわー! ・・・」と、
リアカーの魚屋が来たことを告げた。
その声に買い物客は、集まってくるのだ。
やがて、兄は運転免許をとった。
リヤカーは小型トラックに変わった。
行商のエリアも広がった。
なのに、車を止めては「ちわー! ちわー! ・・・」と、
声を張り上げた。
見かねた私は、その声を車載拡声器でするよう提案した。
しかし、兄は真顔で教えてくれた。
「この辺りは、三交代で仕事してる人、多いべ。
昼、寝てる人もいるべさ。迷惑かけられないべ」。
「やっぱり、この人はすごい!」。
脱帽した。
③ 首都圏の団地暮らしでは、
古紙とトイレットペーパーの交換を、
車載拡声器でアナウンスしながら、
頻繁に回る小型トラックがあった。
しかし、それもいつ頃からか聞かなくなった。
私が記憶する最後の物売りの声は、『サオダケ』である。
窓の外から「さおだけー さおだけー」のアナウンスが、
繰り返し聞こえた。
車載拡声器からの物売りの声だと分かったが、
その品物が『物干し竿』と気づくまでには、
かなり時間を要した。
聞いた当初、私の理解は「竿だけ」だった。
つまり「つり竿だけを売っている」と考えた。
実に不思議だった。
「つり竿だけ・・、と言うことは、
釣り針とかリールは売っていない。
当然、釣りエサも売ってない。
変わった物売りだ」。
「全く、うさんくさい!」。
そう思うと、その声が近づいてきても、
窓から確かめる気にもなれなかった。
それからしばらく年月が過ぎた。
買い物帰りの途中、
「さおだけー さおだけー」と、
コールする小型トラックがゆっくりと通り過ぎた。
うさんくさい目で、その荷台を見た。
我が家のベランダにある物干し竿と同じ物が
数十本、斜めに並んでいた。
「なんだ、竿竹だったか!」。
大きく納得した。
「あんな長いものは、店で買っても持ち帰りが大変だ。
そうか! ああして売り歩いているのを買うのが一番だ」。
思い込みのギャップもあって、そんな強い想いに至った。
ところが、「さおだけー」へのそんな想いが、禍した。
団地の近くに、30階建ての高層マンションができた。
そこはペットと同居ができた。
愛猫を堂々と飼うためにもと、購入を決めた。
引っ越しの日、
最後の荷物を積み込み、最終のトラックと一緒に、
新居に向かおうとした時だった。
「さおだけー さおだけー」のトラックが近づいてきた。
今、積み込んだばかりの物干し竿を思い出した。
20年以上も使い、さび付いていた。
何一つ迷わなかった。
竿竹の購入は、「さおだけー」のトラックからだ。
「買い換える絶好のチャンス!」。
引っ越しの作業員と、「さおだけー」のトラックを呼び止めた。
新しい竿竹を買い、古いものを引き取ってもらった。
その後、引っ越し作業は順調に進んだ。
ところが、全ての作業が終えた頃、
作業員たちが車座になって、小声で相談をしだした。
そして、作業主任がやや困り顔で、私のところへ。
「実は、先ほど買った竿竹ですが、
2つの角を曲がってから、こちらの玄関があるものですから、
長い竿をベランダまで運び入れることができません。
外からの搬入も、こちらの高さの階まででは、無理でして、
申し訳ございません」。
主任は、深々と頭をさげた。
「竿竹のトラックが来たから、
つい衝動買いをしてしまいました。
後で、スーパーで伸縮性の竿を買えばよかったのに、
ご迷惑をかけました。
買った竿竹は、不用品扱いで持ち帰ってもらえませんか。
お願いします」。
今度は、私が頭を下げた。
有珠山 == ずっと平穏でいて!