暖簾をくぐると、いつもカウンターに陣取り、包丁を握っている。
その姿は、なぜか30年前に他界した親父を思い出させた。
「どうだ、儲かってるか。」
の私の問いに、返ってくる答えは決まって、
「なんもだ。」
と、歯切れが悪いのだが、
そこにはどういう訳が悲壮感はなく、どこか穏やかな空気さえ流れていた。
「俺の趣味は商売。」
と、言い切ってしまうほど、彼の人生は紛れもなくそれだけだった。
中学校を卒業してから今日まで60年間にわたり
一貫しており、ブレることはなかった。
まさに、天職と言えるのだが、その歩みは細々として頼りなく、
しかし良心的な商売人と言えるものだった。
振り返ってみると、今でこそ客席30数名の小料理屋であるが、
かつては従業員20名を越える活気ある鮮魚店の店主であった。
みんなから、『社長』と呼ばれた時代もあった。
だが、時代の波は彼を押し上げたりはしなかった。
年齢と共に体力は衰え、そして店も少しずつ売り上げを大型店舗に奪われていった。
15年前、転機が訪れ、彼は魚屋をたたみ、
今までの仕出しや惣菜造りの経験を生かし、
魚料理中心の小料理屋を始めた。
決して大きくはない町の小さな魚料理店である。
勝負は、新しい顧客の開拓ではなく、確かなリピーターの獲得である。
それには、そこそこの値段と共に料理の質が問われた。
いつも美味しいものを提供する。
それこそがこの店の生きる道なのであった。
時折出向く私の舌に、その味は合格だった。
客の何人かが帰りがてらに会計をしながら、
「相変わらず美味しいものを出すね。」
などと、言っているのを聞いたことがある。
私は、そんな声が彼の励みになっているのだろうと思いながらも、
一向に好転しない店の経営に、斜陽の町での商売の難しさを感じていた。
彼は、人生の全てをかけ一途に、
魚屋と小料理屋の違いはあれ、
美味しいものを提供することに毎日を費やしてきた。
もっともっと彼は救われてもいいはずだと私は思う。
朝は人より早く起き、魚市場へ軽トラで駆けつけ、
60年におよぶ目利きで美味しい魚を厳選する。
そして、どんな客の注文も快く受け、
時には後始末が深夜になることもある。
なのに彼に揚揚として光は差さなかった。
実は、私は彼の稼ぎによって学費を捻出してもらい大学にいった。
そして、夢であった教職についた。
その上、12年間にもわたり校長として1校を預かり、
理想とまではいかないものの、
しかし『人生の旬』とまで思えるような仕事もさせてもらった。
それに比べ、彼の
人生はあまりにも違いすぎた。
しかし、ある日のことだ。
私は、とあるガラス工房の店で
ちょっとしたお土産にとガラスボールを買い求めた。
ガラス製品なだけに梱包に手間が掛かっていた。
その持てあました時間に、
店内にあったこの町近辺の名店を紹介する小洒落たタウン雑誌を手にした。
「ああ、この店、知っている。」
「そうか、やっぱり紹介されるか、この店は。」
などと思いながら、時には全く知らないイタリアンレストランに驚き、
「今度いってみたいなあ。」
なんて、無責任にページをめくっていた。
すると、見慣れた暖簾のある店先の写真が現れた。
店の名前はもちろんのこと、彼の名前もフルネームで紹介され、
朝の仕入れに始まり、見事な包丁さばき、
そして料理への心意気まで紹介され、味の確かさとともに店を絶賛する記事だった。
「店主は茶目っ気たっぷりの表情で『いつでもお待ちしてます。』と言っていた。」
と、彼の人柄まで伝えていた。
私は、本屋とは違うガラス工房の店内で立ち読みしながら、
目頭が熱くなるのを覚えた。
そして、しばらくそのページから目を離すことができなかった。
私達は、人生の中でどれだけ人から褒められる機会に恵まれるだろうか。
励ましの意味を込めての賞賛なら私にも何度か経験はある。
また、仕事柄、褒めることで成長する力になると期待しての賛辞を
何人もの人に送ってきた。
しかし、この記事にそんな目論見は全くなかった。
本当に美味しい料理を出す店だからこその記事なのである。
今までこの店と関わりのない雑誌記者による感じたままの
偽りのない評価なのである。
そこには、彼が美味しいものを提供しようと
精一杯歩み続けたことへの、本当の言葉が並んでいた。
こんな偽りのない報われ方に、私は彼の弟として心を熱くした。
そして、こんな素敵な記事を書かせた彼を誇りに思うと共に、
彼のようなひたむきな歩みには、
必ずや清純な輝きが訪れると信じることができた。
噴火湾ギリギリの無人駅・北舟岡駅(よく鉄道ファンが立ち寄る)
その姿は、なぜか30年前に他界した親父を思い出させた。
「どうだ、儲かってるか。」
の私の問いに、返ってくる答えは決まって、
「なんもだ。」
と、歯切れが悪いのだが、
そこにはどういう訳が悲壮感はなく、どこか穏やかな空気さえ流れていた。
「俺の趣味は商売。」
と、言い切ってしまうほど、彼の人生は紛れもなくそれだけだった。
中学校を卒業してから今日まで60年間にわたり
一貫しており、ブレることはなかった。
まさに、天職と言えるのだが、その歩みは細々として頼りなく、
しかし良心的な商売人と言えるものだった。
振り返ってみると、今でこそ客席30数名の小料理屋であるが、
かつては従業員20名を越える活気ある鮮魚店の店主であった。
みんなから、『社長』と呼ばれた時代もあった。
だが、時代の波は彼を押し上げたりはしなかった。
年齢と共に体力は衰え、そして店も少しずつ売り上げを大型店舗に奪われていった。
15年前、転機が訪れ、彼は魚屋をたたみ、
今までの仕出しや惣菜造りの経験を生かし、
魚料理中心の小料理屋を始めた。
決して大きくはない町の小さな魚料理店である。
勝負は、新しい顧客の開拓ではなく、確かなリピーターの獲得である。
それには、そこそこの値段と共に料理の質が問われた。
いつも美味しいものを提供する。
それこそがこの店の生きる道なのであった。
時折出向く私の舌に、その味は合格だった。
客の何人かが帰りがてらに会計をしながら、
「相変わらず美味しいものを出すね。」
などと、言っているのを聞いたことがある。
私は、そんな声が彼の励みになっているのだろうと思いながらも、
一向に好転しない店の経営に、斜陽の町での商売の難しさを感じていた。
彼は、人生の全てをかけ一途に、
魚屋と小料理屋の違いはあれ、
美味しいものを提供することに毎日を費やしてきた。
もっともっと彼は救われてもいいはずだと私は思う。
朝は人より早く起き、魚市場へ軽トラで駆けつけ、
60年におよぶ目利きで美味しい魚を厳選する。
そして、どんな客の注文も快く受け、
時には後始末が深夜になることもある。
なのに彼に揚揚として光は差さなかった。
実は、私は彼の稼ぎによって学費を捻出してもらい大学にいった。
そして、夢であった教職についた。
その上、12年間にもわたり校長として1校を預かり、
理想とまではいかないものの、
しかし『人生の旬』とまで思えるような仕事もさせてもらった。
それに比べ、彼の
人生はあまりにも違いすぎた。
しかし、ある日のことだ。
私は、とあるガラス工房の店で
ちょっとしたお土産にとガラスボールを買い求めた。
ガラス製品なだけに梱包に手間が掛かっていた。
その持てあました時間に、
店内にあったこの町近辺の名店を紹介する小洒落たタウン雑誌を手にした。
「ああ、この店、知っている。」
「そうか、やっぱり紹介されるか、この店は。」
などと思いながら、時には全く知らないイタリアンレストランに驚き、
「今度いってみたいなあ。」
なんて、無責任にページをめくっていた。
すると、見慣れた暖簾のある店先の写真が現れた。
店の名前はもちろんのこと、彼の名前もフルネームで紹介され、
朝の仕入れに始まり、見事な包丁さばき、
そして料理への心意気まで紹介され、味の確かさとともに店を絶賛する記事だった。
「店主は茶目っ気たっぷりの表情で『いつでもお待ちしてます。』と言っていた。」
と、彼の人柄まで伝えていた。
私は、本屋とは違うガラス工房の店内で立ち読みしながら、
目頭が熱くなるのを覚えた。
そして、しばらくそのページから目を離すことができなかった。
私達は、人生の中でどれだけ人から褒められる機会に恵まれるだろうか。
励ましの意味を込めての賞賛なら私にも何度か経験はある。
また、仕事柄、褒めることで成長する力になると期待しての賛辞を
何人もの人に送ってきた。
しかし、この記事にそんな目論見は全くなかった。
本当に美味しい料理を出す店だからこその記事なのである。
今までこの店と関わりのない雑誌記者による感じたままの
偽りのない評価なのである。
そこには、彼が美味しいものを提供しようと
精一杯歩み続けたことへの、本当の言葉が並んでいた。
こんな偽りのない報われ方に、私は彼の弟として心を熱くした。
そして、こんな素敵な記事を書かせた彼を誇りに思うと共に、
彼のようなひたむきな歩みには、
必ずや清純な輝きが訪れると信じることができた。
噴火湾ギリギリの無人駅・北舟岡駅(よく鉄道ファンが立ち寄る)