ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

67 歳 の 秋 涼

2015-10-02 22:26:42 | ジョギング
 9月27日、私が立ったトラックは、
『花咲陸上競技場』と言う名だった。

 山岳丘陵に囲まれた内陸盆地の地形、その中心部を石狩川が流れ、
そこに牛別川、美瑛川、忠別川等の河川が合流していた。
今は、『かわのまち』をキャッチフレーズにしているようだ。

 地名の語源は、アイヌ語で「チェプ・ペッ」と呼ばれていたことにある。
「チェプ」は日、「ペッ」は川の意味で、日を「旭」と置き換えて、
『旭川』と言う説が有力とのことだ。

 この町には、家内の姉と弟の一家が、長年暮らしている。
人口36万人、北海道第2の都市である。
 盆地気候の特徴らしいのだが、年間を通して風が弱い。
しかし、一日の温度差が大きく、
真冬は雪も多く、冷え込みは半端ではない。

 この地で、『第7回旭川ハーフマラソン』が開催された。
昨年までは、石狩川の河川敷を走っていたが、
今年から、「市街地をかけ抜ける」コースに変更になった。

 私は、6月に『八雲ミルクロードレース大会』で、
初めてハーフマラソンにチャレンジした。
 コースの沿道に人はなく、参加者も少なかった。
途中からは、一人で一本道を淡々と走り続けた。

 その反動からか、「市街地をかけ抜ける」という言葉に惹かれた。
人生2度目のハーフマラソンは、旭川にしようと決めた。

 前日、伊達から高速道路を運転した道中、
北へ進むにつれ、山々は緑色を所々秋色に変えていた。
 大会のスタート会場も、忍び寄る秋の気配がした。
八雲の大会に比べ、10倍の参加者だった。
私は、ランナーの群れの最後尾に陣取った。

 目標は、2時間18分の自己記録の更新である。
そして、何よりも21,0975キロの完走にあった。
 不安と共に、最近メッキリ経験がなくなった緊張が、
何度も何度も私に深呼吸させた。

 まだ、手袋をするランハーはいなかったが、
なかなか完治しない右手をかばい、
薄手の黒手袋をして、スタート合図を待った。
 そう、体を左右に動かし、肩を上下させたりしながら。

 そんな時だった。
 大会会長の慣れた開催者挨拶が終わり、
明るく澄んだ女性司会者のアナウンスが聞こえた。

 彼女は、
「ここで、今日の大会、ハーフマラソンの部に参加した
最高齢の方を紹介します。」
と、声を張り上げた。
 88歳の男性だった。その姿は、私の所からは見えなかった。
しかし、年令と氏名が、会場中に響いた。

 司会者は、続けて、
「どうぞ、皆さんで、大きな大きな拍手の、
プレゼントを贈りましょう。」
一層元気な声で、会場中の全ての人に呼びかけた。

 私は、今までに経験のない、粋な計らいに弾けた。
ランナーの人混みの中で、不安と緊張を胸に一人佇んでいたが、
その女性の呼びかけは、
私だけではなく、会場の全ての心を一つにした。

 黒手袋を急いで取り、両手を頭上にかざし、
「頑張れ。ガンバレ。」
と、声を張り上げ、長くて力のこもった拍手を続けた。

 両隣のランナーたちも前も後ろも、みんな晴れ晴れとした表情で、
思い思いの声援と拍手をしていた。

 88歳の最高齢ランナー、そして、その方を讃えるランナーたち。
私は、そんな方々と一緒に、これから延々21キロの道を駆け抜ける。
そう思い、嬉しさがこみ上げた。
 大会主催者の企画にも、感激した。

 スタート合図の花火が、大空に轟いた。
走り始めた私に、もう不安も緊張もなかった。
 黒手袋の手には、拍手の温もりが残っていた。
沿道の人にちょとだけ手をふり、走り続けた。

 しかし、右も左も前も後も、老若男女のランナー。
行っても行っても人、人に囲まれ、走り続けた。
 私は、私のペースではなく、周りのペースで走っていた。

 スタートから2キロが過ぎたところで左折し、
自衛隊旭川駐屯地の道に入った。
 ここを4キロほど走って、また一般道に出ることになっていた。

 駐屯地内の道の両側には、
迷彩服に青い帽子の自衛隊員が、2メートル程の間隔に立ち、
拍手をしながら声援してくれた。
 その姿は、実に整然としており、
街中とは違う空気が流れたいた。

 戦前の旭川は、「北の軍都」と呼ばれていたことを思い出した。
旧陸軍の「最強師団」と称され、北鎮部隊とも言われた
精鋭「第7師団」がおかれた地である。

 当時、駅前からの通りは「師団通り」と呼ばれていた。
戦後「平和通り」と改称された。
 日本で最初の歩行者天国となったことで有名である。

 そんな歴史を持つ地で、自衛隊員の拍手と声援を受け、走った。
どうしても、自分のペースをつかめないままだった。

 やがて石狩川の河川敷添いを進み、10キロを折り返した。
旭川のシンボルとも言える『旭橋』が近づいた。
 この橋は、北海道三大名橋の一つである。
全長200メートル強、巾18メートルの、
優美なアーチ曲線をした鉄橋である。

 橋の袂で、家内のお姉さんが、
日本ハムファイターズのユニフォームに小旗を振って、
応援してくれた。
 嬉しさと共に我に返って、旭橋を渡り始めた。

 車で通り抜けたことはあるのだろうが、
この鉄橋を間近にするのは初めてだった。
 話には聞いていたが、見るからに頑強な橋だった。

 昭和7年、ドイツから輸入した高張力鋼を使い、
当時の最新技術で作られた。
 最重量戦車が通れて、敵の攻撃にも耐えられる橋だった。

 私は、この橋をやっとの思いで走りながら、
第7師団から戦地にむかう兵隊さんの隊列が、
この橋を行進する白黒写真を、思い出していた。

 今、私はランナーのスタイルで、沢山の人々と一緒に
この橋を走っている。
 スタートでは、最高齢の方に、みんな笑顔で拍手を贈った。
今、平和を体現していると感じた。
 「平和。平和。」
思わず口をついた。
 走りながら、目元に熱いものを感じた。 

 ゴールまで残り2キロの沿道、
人混みの中に、家内の姿を見つけた。
 「うまく走れなかった。」と、小声で弱音を吐いた。
しばらく、歩道を伴走してくれた。
 ゴールまでの力が湧いた。

 一度も歩くことなく、歩きたいと思うことなく、ゴールした。
タイムは、わずかだったが自己記録を更新していた。
 家内と義姉から、「頑張ったね。」の労いをもらった。
私は競技場の芝生に、大の字になった。

 国会では、安保法制が成立した。
しかし、旭橋だけではないが、戦地にむかう隊列など、
私に拍手と声援をくれた自衛隊員が戦地に行くなど、
決して、そんな橋を渡らせてはならないと思った。

 平和のための法整備だと強調する。
危うい平和でしかないと思う。
 全ての子供たちと孫たちに、揺るぎのない平和を残したい。

 「旭橋を渡る人々は、永遠に、ランナーたちでいい。」
 大の字で見た大空に、そう言いながら、荒い息を整えた。

 67歳の秋涼、穏やかな青色の下だった。




 札幌・大通公園の秋 
コメント
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