9月11日のブログ『確かな信頼関係を その1』で、
今日の学校現場が感じている、多忙感について触れた。
その多忙感の要因の一つが、
「保護者・地域からの要望・苦情等への対応」である。
持ち込まれた苦情等への、対応に費やすエネルギーが、
多忙感になっている。
また、教師は、校内でおきた苦情に接し、
いつ、いかなる苦情が、
我が身に舞い込んでくるかと
不安な思いにとらわれる。
これが、精神的に厳しい現実となっている。
現職時代、私は若い先生たちに、
保護者からの苦情への心得として、
こんなことを言ってきた。
「親は、我が子の成長する姿については、
誰よりもよく知っている。
しかし、教師は、その子を含めた学級の全ての子どもの今を、
誰よりもよく知っている。
つまり、親はその子の縦軸、
教師はその子の横面を熟知している。
だから、教師として保護者とは違う視点から、
その子を語ることができる。」と。
私は、先のブロクで、リスクマネージメントの観点から、
苦情をなくしたり、苦情を少なくしたりするキーワードを、
『確かな信頼関係づくり』にあるとした。
さらに加えて言うなら、
このキーワードは、苦情を解決し、
保護者と教師の相互理解へと進めていく上でも重要なものと言える。
先回述べたことだが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の策(=条件)は、
以下のような子どもの姿にある。
・毎日、学校での様子を嬉しそうに家族に話す子ども。
・リレーの選手にはなれなくても、全力で選手の走りを応援する子ども。
・授業で進んで挙手し、間違いを恐れない子ども。
・鼓笛パレードで、胸を張って演奏する子ども。
このような生き生きと成長する子どもの姿が、
保護者や地域から学校や教師が、信頼を得ることに直結している。
保護者や地域が、学校に求めるものの第一は、
日々生き生きと変容していく子どもの姿である。
そんな求めに応じることが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の条件だと思う。
続いて、第二の条件だが、
それは、学校や教師の子どもへの
思いや願い等に対して、共感を得ることである。
教師は、その子が所属する集団(主には学級)やその子自身に、
様々な思いや願いを持っている。
その思いや願いを基にして、一人一人の子どもと関わり、
集団や個人への授業や指導を実践する。
そんな教師の思いや願い、
さらにはその指導・実践の裏付けとなるのが、
教育的使命感や児童愛・子供愛、教育観、
教育的情熱、人間性等々である。
学校における教育活動は、
そんな教師の心情に裏打ちされた、
教育者としての姿勢によって生み出されている。
教師は、日々くり返される授業を通して、
一人一人の子供に、その子の気づきや成長に期待を寄せる。
子どもの多くは、その期待に応じるように努める。
その懸命さこそが、子どもそのものと言える。
しかし、中にはその期待に応じきれずいる子どもがいる。
そのような子にどう向き合うか。
その時の指導の違いが、鮮明になる場面がある。
大雑把な言い方をすると、
期待に応じられず、意欲を失っている子を、
叱責するか、激励するかである。
全ての教師は、その子に応じて、
その場その時で、最適な指導策を実践するのである。
繰り返しになるが、そこにはその子への思いや願いが働く。
しかし、保護者は、
「あの場面で励ますなんて、甘い。」
「あんなこと位で叱るとは、子どもが可哀想。」
等と、批判的に教師の指導を、評価することがある。
このようなことの積み重ねが、
ある顕著な場面を切っ掛けに、苦情になる。
つまり、苦情の背景には、
教師の子どもへの思いや願いをくみ取ることのない、
希薄な信頼関係がある。
教師が、最適と判断した指導・実践への揺るぎない信頼こそが、
大切なのである。
しかし、その信頼を得るため、
個々の指導に対し、その場その場での、
教師の説明と保護者の理解、ましてや、同意など求めるなどは、
全くのナンセンスである。
それに代わるのが、教師の思いや願いに基づいた
日々の教育姿勢への理解と、とりわけ共感である。
よく、年度当初の保護者会で、
校長は学校経営方針を、学年主任は学年経営方針を、
担任は学級経営方針を説明する。
その役割は大きいが、
1年を通して目指す教育とその指導方法への、
十分な理解と共感を得ているがどうか。大いに疑問が残る。
私自身の現職時代への深い反省でもある。
学校そして教師は、年度当初の取り組みに限らず、
さらに工夫を凝らし、絶え間なく、保護者や地域から、
日々取り組んでいる教育活動への
理解と共感を得る努力をしなければならない。
加えて、
通常、保護者が、学校や教師への共感の源になるのは、
担任をはじめとする教師集団の教育活動、
つまり指導・実践の正しい把握にある。
その情報を保護者にもたらすのは、唯一、家庭に帰る子どもである。
子供が語る、その日の教師の言動が、教師の思いや願い、
日々の指導への共感の手がかりなのである。
だからこそ、教師と子供は深い信頼で結ばれることが全てと言える。
このことが、教師の思いや願いへの共感を呼ぶ力となり、
『確かな信頼関係』を生み出すのである。
第3の条件は、学校の情報公開である。
私は校長として、担任には学級だより、
そして学年だよりの充実を求めてきた。
私自身は、学校だよりを重視した。
それは、学校は常にオープン、
開かれているところであるべきと言った思いからであった。
ところで、若干余談になるが、
学校から、子供の手を通して届けられる印刷物は、多種多様、大量である。
区市町村のもの、教育委員会のもの、
時には保健所、町会の催し物まで。
また、学校からは、先にあげたものの他に、
定期的には、保健だより、給食だより、
学校図書館だより等々がある。
さらに、保護者会や各種行事の案内、
防犯や防災への通知等々もある。
時に、「校区内で起きた事件の情報が、
学校から何もなく、不安だった。」
と、言った声が届いたりする。
その都度、私は、学校の責任には、際限がないのかと思う半面、
きめ細かな情報の提供が、
学校への信頼につながっているとも痛感した。
さて、ある調査によると、
保護者が最も活用する学校からの印刷物は、
給食の献立表とのことだ。
確かに、家庭での朝夕の献立を決める上で、
それは大事な情報である。
家庭のよく目につくところに掲示するといった行動も理解できる。
私は、献立表まででなくても、
保護者にとって子育ての有効な資料として、
学校からの様々な情報が、
生きて働くものであってほしいと願っている。
一人一人の行動にまで言及できなくても、
学校での子どもの姿が、見て取れるような情報の提供。
そして、その子どもに応じた教育活動の様子と、
その時の教師の思いの伝達。
時には、その教育的価値や今後の見通しの解説。
このような情報を、分かりやすく保護者や地域に届けるようにしたい。
学校をガラス張りにすることと言い換えてもいい。
つまりは、日々繰り広げられている教育活動への
深い理解を容易にすることが、学校への安心感になる。
ゆくゆくは、それが信頼へと発展すると信じる。
『確かな信頼関係づくり』の根幹である。
秋晴れ 伊達のビュースポット 海の先は渡島半島
今日の学校現場が感じている、多忙感について触れた。
その多忙感の要因の一つが、
「保護者・地域からの要望・苦情等への対応」である。
持ち込まれた苦情等への、対応に費やすエネルギーが、
多忙感になっている。
また、教師は、校内でおきた苦情に接し、
いつ、いかなる苦情が、
我が身に舞い込んでくるかと
不安な思いにとらわれる。
これが、精神的に厳しい現実となっている。
現職時代、私は若い先生たちに、
保護者からの苦情への心得として、
こんなことを言ってきた。
「親は、我が子の成長する姿については、
誰よりもよく知っている。
しかし、教師は、その子を含めた学級の全ての子どもの今を、
誰よりもよく知っている。
つまり、親はその子の縦軸、
教師はその子の横面を熟知している。
だから、教師として保護者とは違う視点から、
その子を語ることができる。」と。
私は、先のブロクで、リスクマネージメントの観点から、
苦情をなくしたり、苦情を少なくしたりするキーワードを、
『確かな信頼関係づくり』にあるとした。
さらに加えて言うなら、
このキーワードは、苦情を解決し、
保護者と教師の相互理解へと進めていく上でも重要なものと言える。
先回述べたことだが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の策(=条件)は、
以下のような子どもの姿にある。
・毎日、学校での様子を嬉しそうに家族に話す子ども。
・リレーの選手にはなれなくても、全力で選手の走りを応援する子ども。
・授業で進んで挙手し、間違いを恐れない子ども。
・鼓笛パレードで、胸を張って演奏する子ども。
このような生き生きと成長する子どもの姿が、
保護者や地域から学校や教師が、信頼を得ることに直結している。
保護者や地域が、学校に求めるものの第一は、
日々生き生きと変容していく子どもの姿である。
そんな求めに応じることが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の条件だと思う。
続いて、第二の条件だが、
それは、学校や教師の子どもへの
思いや願い等に対して、共感を得ることである。
教師は、その子が所属する集団(主には学級)やその子自身に、
様々な思いや願いを持っている。
その思いや願いを基にして、一人一人の子どもと関わり、
集団や個人への授業や指導を実践する。
そんな教師の思いや願い、
さらにはその指導・実践の裏付けとなるのが、
教育的使命感や児童愛・子供愛、教育観、
教育的情熱、人間性等々である。
学校における教育活動は、
そんな教師の心情に裏打ちされた、
教育者としての姿勢によって生み出されている。
教師は、日々くり返される授業を通して、
一人一人の子供に、その子の気づきや成長に期待を寄せる。
子どもの多くは、その期待に応じるように努める。
その懸命さこそが、子どもそのものと言える。
しかし、中にはその期待に応じきれずいる子どもがいる。
そのような子にどう向き合うか。
その時の指導の違いが、鮮明になる場面がある。
大雑把な言い方をすると、
期待に応じられず、意欲を失っている子を、
叱責するか、激励するかである。
全ての教師は、その子に応じて、
その場その時で、最適な指導策を実践するのである。
繰り返しになるが、そこにはその子への思いや願いが働く。
しかし、保護者は、
「あの場面で励ますなんて、甘い。」
「あんなこと位で叱るとは、子どもが可哀想。」
等と、批判的に教師の指導を、評価することがある。
このようなことの積み重ねが、
ある顕著な場面を切っ掛けに、苦情になる。
つまり、苦情の背景には、
教師の子どもへの思いや願いをくみ取ることのない、
希薄な信頼関係がある。
教師が、最適と判断した指導・実践への揺るぎない信頼こそが、
大切なのである。
しかし、その信頼を得るため、
個々の指導に対し、その場その場での、
教師の説明と保護者の理解、ましてや、同意など求めるなどは、
全くのナンセンスである。
それに代わるのが、教師の思いや願いに基づいた
日々の教育姿勢への理解と、とりわけ共感である。
よく、年度当初の保護者会で、
校長は学校経営方針を、学年主任は学年経営方針を、
担任は学級経営方針を説明する。
その役割は大きいが、
1年を通して目指す教育とその指導方法への、
十分な理解と共感を得ているがどうか。大いに疑問が残る。
私自身の現職時代への深い反省でもある。
学校そして教師は、年度当初の取り組みに限らず、
さらに工夫を凝らし、絶え間なく、保護者や地域から、
日々取り組んでいる教育活動への
理解と共感を得る努力をしなければならない。
加えて、
通常、保護者が、学校や教師への共感の源になるのは、
担任をはじめとする教師集団の教育活動、
つまり指導・実践の正しい把握にある。
その情報を保護者にもたらすのは、唯一、家庭に帰る子どもである。
子供が語る、その日の教師の言動が、教師の思いや願い、
日々の指導への共感の手がかりなのである。
だからこそ、教師と子供は深い信頼で結ばれることが全てと言える。
このことが、教師の思いや願いへの共感を呼ぶ力となり、
『確かな信頼関係』を生み出すのである。
第3の条件は、学校の情報公開である。
私は校長として、担任には学級だより、
そして学年だよりの充実を求めてきた。
私自身は、学校だよりを重視した。
それは、学校は常にオープン、
開かれているところであるべきと言った思いからであった。
ところで、若干余談になるが、
学校から、子供の手を通して届けられる印刷物は、多種多様、大量である。
区市町村のもの、教育委員会のもの、
時には保健所、町会の催し物まで。
また、学校からは、先にあげたものの他に、
定期的には、保健だより、給食だより、
学校図書館だより等々がある。
さらに、保護者会や各種行事の案内、
防犯や防災への通知等々もある。
時に、「校区内で起きた事件の情報が、
学校から何もなく、不安だった。」
と、言った声が届いたりする。
その都度、私は、学校の責任には、際限がないのかと思う半面、
きめ細かな情報の提供が、
学校への信頼につながっているとも痛感した。
さて、ある調査によると、
保護者が最も活用する学校からの印刷物は、
給食の献立表とのことだ。
確かに、家庭での朝夕の献立を決める上で、
それは大事な情報である。
家庭のよく目につくところに掲示するといった行動も理解できる。
私は、献立表まででなくても、
保護者にとって子育ての有効な資料として、
学校からの様々な情報が、
生きて働くものであってほしいと願っている。
一人一人の行動にまで言及できなくても、
学校での子どもの姿が、見て取れるような情報の提供。
そして、その子どもに応じた教育活動の様子と、
その時の教師の思いの伝達。
時には、その教育的価値や今後の見通しの解説。
このような情報を、分かりやすく保護者や地域に届けるようにしたい。
学校をガラス張りにすることと言い換えてもいい。
つまりは、日々繰り広げられている教育活動への
深い理解を容易にすることが、学校への安心感になる。
ゆくゆくは、それが信頼へと発展すると信じる。
『確かな信頼関係づくり』の根幹である。
秋晴れ 伊達のビュースポット 海の先は渡島半島