ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

イタンキの浜に

2015-10-16 22:20:03 | あの頃
 伊達から東に、30分車を走らせた所に、
私の生まれ故郷がある。
小さい頃、『鉄の町・室蘭』の看板をよく見た。

 噴火湾の先端に位置する天然の良港と言われ、
その港には、大きな貨物船が何艘も停泊していた。
 湾岸には製鉄所、製鋼所、そして製油所まであり、
今も、一大工業地域である。

 私が育った所は、その製鉄所の社宅街で、
毎日毎日、三交替の人々が昼夜を問わずに、
工場と社宅街を行き来していた。
 私は、小さいながらも、
その慌ただしさが好きになれなかった。

 記憶は曖昧だが、小学校入学前後だったと思う。
近所の家族に誘われて、一緒に海に行った。
 私が記憶する、最初の海である。

 その海は、大きな工場が独占する湾内の海ではなく、
太平洋に面した外海だった。
 季節は覚えていない。
晴れ渡った空と海が、青い色で一緒になっていた。
 空と海の区別ができなかった。

 強い風が、吹いていた。
しっかりと踏ん張って、海を見た。
 荒れ狂ったような音と共に、
白く千切れるような高い波が、途切れることなく、
次々と打ち寄せてきた。
 ちょっと足が震えた。怖いと思った。

 「海、見たことないの。じゃ、一緒に行こう。」
と、近所のおばさんに誘われ、
ノコノコと一人、ついて来たことを後悔した。
 その海岸が、
イタンキの浜(通常『イタンキ浜』と言うらしい)だった。

 私は、その時の海の音と、
遠慮を知らない猛々しい波の勢いを恐れ、
海嫌いになった。

 私が、高校時代を過ごした学校は、
そのイタンキの浜の近くにあった。
今は、校庭と砂浜の間には、国道が走っているが、
私の時代には区切るものがなく、学校を抜け出し、
海岸で弁当を広げる強者もいた。

 イタンキの浜は、その砂浜から10分も歩けば着いた。
 今は、その荒波を使ったサーファーを見ることができる。
また、『日本の渚百選』にもなり、
道内唯一の『鳴き砂の浜』としても有名になった。

 高校3年の時、誰の提案だったのか、
友人の誕生祝いを、イタンキの浜で行うことになった。
 5人の仲間で、土曜日の午後、学校近くの肉屋から、
ジンギスカン用の肉ともやしを買い、それ用の鍋を借り、
イタンキの浜の先にある、岩場に向かった。

 相変わらず、荒々しい波音と乱暴な波が打ち寄せていた。
やはり、海は少し怖かった。
 砂浜を歩きながら、小学校4年生の
大好きだった担任から聞いた、
イタンキ浜と言う名前の由来を思い出した。
  
 『イタンキ浜には、悲しい伝説があるのよ。
イタンキは、アイヌ語で「お椀」のことを言うの。
 昔、食べる物がなくなった日高のアイヌの人たちが、
室蘭に行けばと、食べ物を求めて、海辺を歩いてやって来たの。
 そして、イタンキの浜まで来たのね、
波間に見え隠れする岩を見て、クジラと思ったの。
 それで、クジラが岸に流れ着くのを、
寒さに耐えながら待ったのね。
 その内に、寒さをしのいでいた薪もなくなり、
最後には、持ってきた自分のお椀まで燃やしてしまったの。
 クジラだと思った岩は、決して岸に寄って来ることはなく、
アイヌの人たちは、みんな死んでしまったのよ。』

 30分程度、波打ち際を進みながら、
5人は、私のそんな話に耳を傾けてくれた。
 しばらくは、誰もなにも言わなかった。

 イタンキ浜の行き止まり近くの岩場付近は、
南西に伸びた高さ数十メートルの崖が、
砂浜のすぐそばまで迫っていた。
 白い岩脈とでも言うのだろうか、
波と風、そして雨などによって浸食され、
変化の富んだ、美しい横縞模様を作っていた。
 ここにしかない、雄大で迫力のある大自然だった。

 無言のまま、5人して立ち止まり、
肩で大きく息をし、その崖を見上げた。
 そして、振り返り、クジラの漂着を待った雄々しい海原を見た。

 岩場に着くと、大きな石を拾い集め、炉を作った。
流木に火をつけ、ジンギスカン鍋を載せた。
 そこら中に、あの特有の臭いをまき散らし、
私たちは、威勢よく、ペコペコのお腹を満たした。

 誰かが、「アイヌの人の分も食べてやる。」
と、力を込めた。
「そうだ。」、「そうしよう。」
と、言い合いながら、
時々、岩に砕ける波しぶきを受けながら、肉ともやしを口に運んだ。

 食べ終わると、一人が、岩によじ登り、
打ち寄せる波に向かって、
「腹いっぱい、喰ってやったぞー。」
と、叫んだ。
 すると、また一人よじ登り、立ち上がって、
「うまかったぞー。」
と、声を張り上げた。

 「もっといいこと言えよ。」
声が飛んだ。
 また一人、岩の上に立った。
「もっともっと勉強するぞー。絶対に、だまされないぞー。」

 私は、3人のいる岩を見上げながら、
「すごーい。」と、手を叩いた。

 その日以来、雪の季節まで、
毎月、イタンキの浜でジンギスカンを囲んだ。
 いつも、岩に登り、海の大空に向かって叫んだ。
 みんなは、夢や目標、社会の不条理を声にした。
未熟な私は、
「海は広いぞー。大きいぞー。」
などと、全く意味のない大声を張り上げ、満足していた。

 でも、もうイタンキの浜は恐くなかった。
それよりも、多感な少年の大好きな場所になっていった。

 もう20年も前になるだろうか。
私に、一通の封書が届いた。
喪中の知らせだった。

 冒頭に「本年8月に、夫が永眠致しました。」と記されていた。
印刷されたB4の書面には、
「喪中のハガキ1枚で済まさないように……
夫への最後のお願い」とあった。
 奥様の彼を愛しむ想いと最期の時までが、
短い文面にあふれていた。
 ガン発見から、1年余りの闘病生活だったらしい。
全く知らなかった。

 「死んだら、俺の骨を大好きだったイタンキ浜にまいてくれ。」
彼は、そんな思いを奥様に託した。
 まだ、自然葬など数少ない時代だった。
全国でも8ケース目、北海道では初めてだった。
 49日が過ぎた10月、家族と何人かの友人に見守られ、
室蘭の海に、散骨が行われた。

 イタンキの浜で、一緒にジンギスカンを囲んだ仲間の一人だった。
 私が、時々詩を書いているのを知っていた奥様が、
喪中の書面の裏に、自作の詩を自筆してくれた。

 その詩から、彼らしさが、心の深くまで浸み込んできた。
私もそうありたいと思った。

 イタンキ浜のあの岩に立ち、
背後に美しい断崖が迫る、雄々しい海原に向かい、
彼は、そんな人間を誓っていたのだろう。


     線香花火

  あなたの引き出しの奥に
  線香花火をみつけた
  線香花火は
  うすい小さな紙の帯で
  束ねられているものと思っていた
  みつけたのは二本だけ

  わたしの気がつかないところで
  あなたが火をつけていたもの

  サラダボールに水を汲んで
  遺影の前に座った
  ローソクの光りに
  あなたの顔が揺れて
  わたしに微笑む
  シュルシュルと
  丸い炎の固まりも
  小さく揺れている

  愚痴のひとつくらい
  言ってから落ちるものだ





伊達のはずれ 山間の小さな川にも 鮭は遡上していた

   
コメント
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