徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

八幡のはなし。

2024-11-08 20:03:17 | 歴史
 先日の「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」第2夜は五十四番目の伏見宿からわずか4㌔の五十五番目の淀宿だった。なぜここに?というタモリの疑問も、ここから少し街道を進んだところが徳川にとって極めて重要な要衝であったことがわかってくる。二つの山に挟まれた地形は、徳川に反旗を翻し江戸へ攻めのぼる西国大名の関門のようになっており、その山の上に鎮座するのが平安時代から崇敬され京を鎮護する石清水八幡宮。


 わが家は先祖代々藤崎八旛宮を氏神としている。藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたことに始まる。明治16年生まれのわが祖母は藤崎八旛宮のことを「お八幡さん」と呼んでいたが、昔の人々の尊崇の念はとても強かったと聞く。
 そこで思い出すのが、慶長15年(1610)に加藤清正に招かれ、熊本で初めて「阿国歌舞伎」を披露した女性芸能者「八幡の国」のこと。後世の人々から「出雲阿国」と呼ばれたその人である。阿国が熊本で「八幡の国」を名乗ったのは、熊本の総鎮守として藤崎八旛宮を尊崇する領民の心を理解していたからかもしれない。


藤崎八旛宮

漱石くまもとの句 ~秋~

2024-11-07 20:10:02 | 文芸
 1週間ほど前、市立図書館へ行った時、郷土関連図書のコーナーで「くまもとの漱石 : 俳句の世界」という本が目に入った。これはまだ読んでなかったなと思い借りて来た。夏目漱石来熊120年記念の年に出版されたもので、漱石が熊本時代に詠んだ俳句をまとめたものらしい。
 今日は秋の句の中から三句選んでみた。

▼合羽町の家
 「病妻の閨(ねや)に灯ともし暮るゝ秋」

 明治29年秋、光琳寺の家から引っ越してすぐ鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものだろう。何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


合羽町の家

 「行秋や此頃参る京の瞽女(ごぜ)」

 当時は熊本にも京から瞽女(女性の盲人芸能者)がやって来たのだろうか。僕が幼かった戦後間もない頃まで、いろんな物売りが遠方からもやって来たが、瞽女の姿を見たことはない。明治中期の頃は熊本市は九州一の大都市だったのではるばるやって来る価値があったのかもしれない。

▼大江村の家
 「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」

 明治30年暮れ、正岡子規に送った俳句の中の一句。この時、漱石が住んでいた熊本三番目の新屋敷(大江村)の家は、明午橋の少し下流、現在の白川小学校の裏手辺り。どこに植えられていた菊かわからないが、隣接する「傘(からかさ)丁」と掛けているのかもしれない。


大江村に住んでいた頃の漱石夫妻。書生、使用人とともに

 漱石は熊本時代に900句余りの句を残したといわれる。秀句も多く、俳句の才能が花開いたのが熊本時代だった。

伏見 橦木町・笹屋

2024-11-06 20:52:53 | 古典芸能
 ブラタモリで「京街道」を見た後、あらためてルートを地図で確認してみた。すると京都伏見橦木町を通っていることに気が付いた。さらに「京街道」を紹介するサイトを見てみると街道沿いに橦木町遊郭入口の記念碑が立っているという。
 そこで大河ドラマ「元禄繚乱」を思い出した。あれは十八代中村勘三郎さん(当時は勘九郎)扮する大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興する場面だった。そしてその場面では数人の芸妓が音曲を演奏していた。このドラマの邦楽指導を担当したのは本條秀太郎さんだったので一門の方が何人か出演されていて本條秀美さんもその一人だった。何を演奏されていたのか知りたくて秀美さんにおたずねしたことがある。秀美さんによれば、演奏したのは既成の曲ではなく、本條秀太郎先生が番組のために創られた曲だったという。そして、その時の音源は「元禄繚乱第32回 更けて廓」というタイトルでテープ媒体で保存されているという。機会があれば一度聴かせていただきたいものだ。


「元禄繚乱第32回 伏見橦木町・笹屋の場面」左から3人目が本條秀美さん

 大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興した元禄時代の華やかな風俗を表現する「元禄花見踊」。


ブラタモリ ~東海道五十七次編~ 雑感

2024-11-05 17:24:58 | 歴史
 8ヶ月ぶりに復活した「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」を3日連続で見た。今回のテーマである東海道の別ルートに込めた徳川の思惑もよく理解できた。五十三番目の大津で分岐させ、五十四次:伏見、五十五次:淀、五十六次:枚方、五十七次:守口の四宿を経て大坂高麗橋のゴール地点まで約54kmの旅。旅の様子はNHKプラスで1週間は配信されるのでまた後日ということにして、全体を通じた感想を記してみた。
 まず今回は3日連続の放送だったが、初日のみ45分で、2日目と3日目は28分だったので、できれば2日間にまとめて放送してもらいたかった。オープニングは井上陽水の「女神」をつい待ってしまう。あのラテンブラスとパーカッションのノリの良さが懐かしい。ナレーターのあいみょんは初めてだから無理もないが、まだ存在感を示すところまでは行かなかった。タモリさんのパートナー佐藤茉那アナも初出演で熊本局の新人時代よりも大人しめだったが、枚方鍵屋で案内した学芸員の「ごんぼ汁」の話に「もっと良い記述は」とツッコんだところは良かった。伏見からもっぱら下り船を利用する旅人目当ての「くらわんか舟」の話は面白かったが、客を舟着させるための遊郭や宿の飯盛女の話が出なかったのはNHK的な配慮か。
 タモリさんはやはり歳とったなぁという印象。同世代としてもうしばらく頑張っていただきたい。 


枚方鍵屋にて


淀川舟運と枚方宿

くまもとの秋もまもなく・・・

2024-11-04 11:45:28 | 季節
 暦の上では今は晩秋。あと3日もすれば「立冬」。もう冬である。
 「秋は夕暮・・・」などと枕草子気分になることもなく、慌ただしく秋は去ってゆくのだろうか。
 そんななか、昔と変わらぬ人々の営みに懐かしさと愛おしさを覚える今日この頃である。


「七五三詣り」加藤神社


「肥後のつりてまり」下通商店街

復活ブラタモリ第1夜 ~大津絵節~

2024-11-02 21:40:10 | テレビ
 今夜は復活ブラタモリの第1回。徳川幕府が開いた東海道大津宿から五十三次と別れて大坂へ向かう五十七次の伏見宿まで。旅の内容は2・3回と合せて後日まとめたいと思うが、今日はタモリさんもチャレンジした「鬼の絵」、大津宿名物・大津絵にまつわるはなし。

 大津絵とは、江戸初期に、東海道五十三次の大津宿(大津の追分、大谷)で軒を並べ、街道を行き交う旅人等に縁起物として神仏画を描き売ったのがその始まりといわれる。
 そもそも大津絵は、「大津絵の筆の始は何仏」という芭蕉の句が残っているように、旅人のお守りとして作られた仏画が始まりだという。旅の土産として人気が出ると「藤娘」のような風俗画も描くようになり益々人気を博して行った。江戸中期になると、これら人気の大津絵を題材とした「大津絵節」を大津の遊女たちが歌い始め、これが街道を往来する旅人たちによって各地に伝えられていった。


絵師の指導でタモリさんが鬼の絵にチャレンジ

大津絵の代表的な「鬼の寒念仏」と「藤娘」


あいみょんが「ブラタモリ」のナレーションを!

2024-11-01 18:01:53 | テレビ
 明日から三夜連続で放送される「ブラタモリ」のナレーションを若手シンガーソングライターのあいみょんが担当するらしい。草彅剛のナレーションが長かったので唐突な感じがしないでもないが、いろんな事情があるのだろう。
 「ブラタモリ」のイメージから、はたしてあいみょんはどうなの?という反応もあるらしいが、タモリとあいみょんは以前から相性がいい。5年前の「タモリ倶楽部」(テレ朝)では、作詞する際に官能小説からインスパイアされることが多いというあいみょんが出演して官能小説について語っていたし、4年前の「タモリ倶楽部」でも春画通だというあいみょんが出演して「第1回春画脇役大賞」なる企画で通ぶりを発揮していた。また、3年前の正月「ブラタモリ」と「鶴瓶の家族に乾杯」のコラボ番組にも出演し、おじさんからの愛されキャラぶりを見せていた。タモリはジャズなど音楽の造詣も深いし、永い芸能生活を通じた独特の世界観にあいみょんも得るものが多いかもしれない。



YouTubeのマイ ミックスリスト

2024-10-31 23:24:40 | Web
 YouTubeには「マイ ミックスリスト」という機能がある。自分で選んだ覚えはないので、おそらく僕が再生した動画や関連する動画をリストアップしているようだ。AIを使ったサービスのひとつなのかもしれない。25タイトルが選ばれているが、なかにはあまり視聴したいとは思わないものも含まれていた。今日リストアップされていた中から3タイトルを選んで視聴した。

 まず最初にディキシーランド・ジャズの名曲「クラリネット・マーマレード」をP-time Selectionの演奏で。


 次に大好きなドラマ「JIN -仁-」のテーマ曲をフルオーケストラの演奏で。


 最後にマイチャンネルから「熊本さわぎ唄」を「今藤珠美と今藤珠美社中/下田れい子/中村花誠と花と誠の会」の演奏、ザ・わらべの舞踊で。

女性神楽師

2024-10-30 22:42:14 | 民俗芸能
 今日夕方のKKTくまもと県民テレビの「news every.くまもと」で全国的にも珍しい女性神楽師を紹介していた。その名は稲田奈緒子さん。もともとポップス系のダンサーとして活躍し、現在、地元の子どもたちにダンスを教えているという。
 今日は金峰山神社の秋の大祭で初めて男性神楽師との二人舞に挑む様子が映された。野出神楽保存会のメンバーということだが、ここの神楽は剣や弓、御幣などを使って舞う採物(とりもの)神楽と呼ばれる種類のもので、熊本市の無形民俗文化財に指定されている由緒ある神楽だそうだ。
 普段、女性の神楽としてはいろんな神社の巫女舞を見ているが、野出神楽のような民間の里神楽は熊本県だけでも160ほどあるらしい。
 そもそも神楽の始まりは記紀に書かれた「天岩戸開き」で、天照大神が岩戸にお隠れになってしまった際の、天鈿女命(アメノウズメ)の神懸りした舞が起源とされている。そんなことを考えていると必ず思い出すのが、柳田國男の著書「妹(いも)の力」。太古の昔から女性には霊的な能力が備わり、「けだかく」「さかしい」存在であったという。女性は本来的に神楽を舞う能力を備えていて、稲田さんのようなケースもごく自然なのではないか。番組を見ながらそんなことを考えていた。


稲田奈緒子さん

ハーンの熊本時代(1)

2024-10-29 22:03:02 | 歴史
 今日のNHKお昼の番組「列島ニュース」のなかで、来秋放送開始の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインに宮崎市出身の俳優、高石あかりさんが選ばれたことが発表され、本人の会見も放送されました。
 ラフカディオ・ハーン夫妻の熊本時代も描かれるそうなので楽しみですが、ハーンの熊本時代はいったいどんな時代だったのでしょうか。


 ハーンが五高の英語教師になるため、島根県立の松江中学を辞し、妻のセツらを伴い、春日駅(熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月19日。校長の嘉納治五郎が出迎え、手取本町の不知火館(のちの研屋支店)に案内しました。
 この明治24年7月、門司から熊本まで鉄道が開通し、また熊本電燈会社が操業しています。熊本城そばの厩橋際に火力発電所が設けられ、城内の兵舎の灯りがこうこうと夜空を照らしていたようです。花畑一帯は練兵場が広がり、いまの市役所の場所は監獄でした。五高の構内に外人教師館がありましたが、不知火館近くに赤星家が母屋を明け渡して貸してくれるという話に居を構えます。筋向いに九州日日新聞社(熊日の前身)があり、さっそく購読しています。正月八日の六師団の閲兵式後の宴会にハーンも招待され、それが九州日日に報じられました。
 「檜扇の三ツ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し扇子をチャンと差したる有様と目の色の青きに赤髭茫々たる顔と特に目立ちて見へたりければ、さても衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて当日第一の愛嬌なりしと」松江からセツの養父母、養祖父などの家族やお手伝い、車夫(これは間もなく解雇)を伴い、料理人の松を呼び寄せます。養祖父の稲垣万右衛門は若いころ、松江藩主の若殿のお守り役だったといい、「愉快な年寄り」でした。熊本城下を「こおり、こおり」とふれ歩く行商人を呼びとめ、「その水は伯耆大山から来るのか」と尋ねるなど、笑いの種をまき散らしました。招魂祭や藤崎宮のお祭りのときにもごったがえす雑踏のなかを出歩き、財布をすられるという騒ぎを起こしています。
 一年後、坪井西堀端町に移り、長男の一雄はここで生まれた。稲垣老人はハーンの書斎に飛び込み、「フェロン公、天晴れだッ!生まれたで」とうれし涙を流し、腕まくりし、こぶしを振り立てて、男児出産を知らせたといます。
 「この町は近代化されています。それから町が大きすぎ、お寺もない、お坊さんもいない、珍しい風習もない」と松江中学の教頭西田千太郎に手紙に書き送っているハーンですが、熊本に移り住んでわずか2、3カ月で9キロも体重が増えています。西洋料理の食材が容易に手に入つたためです。
 そして地蔵祭の日、美しい光景に出会います。地蔵堂はくさぐさの花や提灯で飾られ、大工連が子供たちが踊る屋台をこしらえ、 日が暮れると露店が並びます。日が暮れ、ふと見ると、家の門前に大きなトンボがとまっていました。ハーンが子供組に与えた寄進に対するお礼でした。トンボの胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能(炭火を運ぶ道具)、頭は土瓶でこしらえてありました。しかも、全体があやしく影をさすように置かれ、蝋燭の光で照らされていました。その造り物をこしらえたのが8歳前後の男の子で、「なんと日本の子供たちは美術的感覚の持ち主だろうか」とハーンは驚いています。
 ハーン一家が熊本を去ったのは日清戦争が始まった年の明治27年10月 6日でした。
(ハーン来熊120年記念講演より)

 日清戦争開戦前夜の熊本の騒然とした空気を著作「願望成就」のなかで次のように語っています。



本妙寺浄池廟