先日、ブログ「津々堂のたわごと日録」さんが、旧熊本藩士吉田如雪が書き残した「明治十年日記」を再び取り上げられ、熊本城天守閣が焼け落ちた明治10年2月19日の「朝飯後四時過京町濱田屋ノ湯ニ行ク」という「京町濱田屋」とはいったいどこにあったのだろうかと疑問を提されていた。京町の住人としては確かめておきたいという思いが湧き、僕らよりも年長の知人に聞いてみたり、当時の町絵図がどこかに残っていないか調べたりした。しかし、年長者と言ってもせいぜい僕らよりひと回りくらい上の人しか残っていないし、町絵図も見つからない以上、位置を確定するには未だ至っていない。
ただ、生まれた時からこの町に住む僕の勘が正しければ、下の写真の10階建てのビル辺りがどうもあやしい。ここは、京町2丁目の交差点。旧国道3号線とその昔、牛縊坂(うしくびりざか)と呼ばれた坂道とが交差する地点だ。わが家から歩いて5分ほどのところにある。現在はなだらかなS字カーブとなっている旧国道3号線はかつてクランク状になっていた。戦略上のねらいで加藤清正がわざとクランク状に造った道のうちの一つだった。そのため、交通事故の多発地点で、植木方面から来た車が直角のカーブを曲がりきれず、正面の家に突っ込む事故がよくあった。その家に住んでいたのが、かつて「ファジー理論」で世界に名を馳せた、同級生の山川烈君で、子どもの頃はよく遊びに行った。その家の筋向いが現在ビルが建っている、当時竹屋旅館があった場所だ。
吉田如雪の文章によれば「京町濱田屋」は三階建て。ただの湯屋とも思えない。旅館か料亭だったのか、はたまた妓楼だったのか。天守閣から上がった火の手が見える方角も合っている。引き続き調査を続けたい。


吉田如雪の日記に添えられた京町の絵図(赤〇がビルの地点)
ただ、生まれた時からこの町に住む僕の勘が正しければ、下の写真の10階建てのビル辺りがどうもあやしい。ここは、京町2丁目の交差点。旧国道3号線とその昔、牛縊坂(うしくびりざか)と呼ばれた坂道とが交差する地点だ。わが家から歩いて5分ほどのところにある。現在はなだらかなS字カーブとなっている旧国道3号線はかつてクランク状になっていた。戦略上のねらいで加藤清正がわざとクランク状に造った道のうちの一つだった。そのため、交通事故の多発地点で、植木方面から来た車が直角のカーブを曲がりきれず、正面の家に突っ込む事故がよくあった。その家に住んでいたのが、かつて「ファジー理論」で世界に名を馳せた、同級生の山川烈君で、子どもの頃はよく遊びに行った。その家の筋向いが現在ビルが建っている、当時竹屋旅館があった場所だ。
吉田如雪の文章によれば「京町濱田屋」は三階建て。ただの湯屋とも思えない。旅館か料亭だったのか、はたまた妓楼だったのか。天守閣から上がった火の手が見える方角も合っている。引き続き調査を続けたい。


吉田如雪の日記に添えられた京町の絵図(赤〇がビルの地点)