今日、千葉城町から磐根橋のたもとまで歩いて来た時、ふと思いついて下の県道への曲がりくねった坂道を降り始めた。途中で県道の向こう側に錦坂と暗渠化された坪井川の旧流路が見えたのでしばらく眺めていた。明治時代の一時期、ここが港だったなんて気づく人はまず居るまい。
父の教員仲間だったI先生が師範学生時代の昭和10年にまとめた京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。
――商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社(新堀)の所は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。――
明治7年に錦山神社(後の加藤神社)が城内から新堀に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山神社に登るために付けられたのが錦坂なのであるが、ほぼ同時に京町・新堀に公許の遊郭が開設され、京町・新堀は「聖と俗」混淆の町と化したのである。しかし明治10年に起きた西南戦争の兵火によって錦山神社は社殿を焼失、京町遊郭も焼失して再建を断念した。舟客が陸続と舟付けした新堀の港もわずか3年余という短い繁栄に終ったのである。
※右の写真は坪井川園遊会での舟運の再現イベント