県道・熊本田原坂線から磐根橋(手前)と新堀橋を見上げたショット。もともと地続きだった左側のお城のある茶臼山と右側の京町台地は、江戸時代初期に空堀が掘られ、今の新堀橋の部分だけが御門に入る道(豊前・豊後街道)として繋がっていた。明治44年にトンネルが掘られて電車が通り、さらに大正12年には掘り切って平坦な道路が通った。その際、新堀橋と磐根橋が架けられ、今日のような形となった。上熊本-藤崎宮前間を走る電車は昭和45年に廃止になったが、僕は小・中学生の頃は上熊本から電車を乗り継いで水前寺球場までよく高校野球を見に行ったので、この電車はよく利用したものだ。道路の両側に錦橋の欄干が見えるが、昭和初期にはまだ旧坪井川が川として流れていたことが欄干の大きさを見てもわかる。今日では旧坪井川の大部分が暗渠化されている。また、錦橋の脇から上の加藤神社に登る急坂、錦坂があり、僕は幼稚園の頃、この坂も帰り道のルートの一つだった。いつからか知らないが、この大きな通りのことを「わが輩通り」などと呼んでいるが、夏目漱石が熊本にいた頃はこんな道はなく、漱石とは縁もゆかりもない。町興しかなにか知らないが、あまりいい加減なネーミングはやめてもらいたいものだ。

昭和初期(?)の頃

今日の様子

昭和初期(?)の頃

今日の様子
「わが輩通り」ははじめて知りました。漱石が熊本に来た時は池田駅から京町経由で五高へ向かったと聞いていましたので、この道を通ったわけではないとおもわれますが・・・。それにしても「熊本の風景今昔」は貴重な写真や歴史をよく調べられていますね。いつも興味を持って拝読しています。
坪井の住民が小泉八雲熊本二番目の居宅跡から子飼商店街へ通じる道を「八雲通り」と名付ける運動をしています。こちらは実際に八雲が五高へ行く時使った道なのになぜか、いまだに認知されていないようです。