百合若大臣/たかしよいち・文 太田大八・絵/ポプラ社/2004年
”百合若大臣”は、幸若舞(鼓みににあわせた謡ったり舞ったりするもの)、説教節の一つとして語られていたが、その後歌舞伎や浄瑠璃にもうけつがれ広く親しまれるようになったといいます。
十七歳ではやくも右大臣になり、大納言のあきよりの姫ぎみを北の方としてめとり、百合若大臣とよばれていた若者。
蒙古襲来のとき、天照大神のお告げで、大将になった百合若大臣が、軍勢をひきいていくと、蒙古の軍勢は、さっさとひきあげていきます。
国司に任命された百合若は、後顧の憂いをなくそうと、船をしたがえて攻めに出ます。霧の妖術をつかう蒙古軍を、神に祈り、打ち破った百合若でしたが、疲れをとるため玄海島でごろりと横になります。ところがこのとき、同行していた別府兄弟によって、島に取り残されてしまいます。
勝ち戦でわきたった博多の屋敷にいた北の方に、別府兄弟は、百合若が死んだことを報告しますが、そのことばに北の方は、不審をいだきます。別府兄弟は、美人の誉れ高い、北の方に恋文をしたためます。この手紙を読んだ北の方は、自害を考えますが、乳母が千部のお経をかきうつすまでは、何も考えたくないと、北の方の名前で返事を書きます。
北の方は、「とのがだいじにしていたものを、神社や寺に奉納して、とののごぶじをいのろう」と、楽器や馬にいたるまで、かっていた犬や鷹も、とも綱ををきってはなしてやります。
十二羽いた鷹のなかいた緑丸という鷹は、おにぎりをくわえると、どこへともなく、姿を消します。それから四日後、緑丸は百合若のいり玄海島にたどりつきます。
このあと、まだまだつづく波乱万丈の物語です。
学んだ歴史には、百合若という名前は、でてきませんから、まったくの物語です。戦いがあり、仇討があったりと、まったくあきさせません。太田さんの絵巻物風の絵だけでも、見る価値があります。