見方ひとつでまったくちがうものに見えてくる話。
・イニーゴ(フィリピンの昔ばなし/カラオの洞窟/荒木博之:編・訳/小峰書店/1989年)
イニーゴという若者が、一人の老人とあい、一緒に旅することに。
この若者、老人の家が40キロ先にあると聞いて「何とかその道を短くできませんか」といいます。
若者は、
くつをはかずに、ひもでくくって肩にかけています。
カンカン照りのところでは傘を閉じて、涼しい木陰で、こうもり傘を開いて頭の上にさしかけます。
川を渡るときは、くつをはき、岸につくとくつをぬぎます。
死んだ人を担架にのせてくる一行に会うと「あの人はいきているんですか」
田植えをしている人をみると「米を食べちまって、それでも米を植えているんだね」という始末。
老人は、若者がおかしなことを言っているなと思いましたが、老人の娘は、まったく別の意味にとらえます。
「道を短くできませんか」・・「長い道のりでも面白い話をしてくれたら短く感じられる」
「日照りの道で傘をすぼめて歩き、木陰に入ると傘を開く」・・「木陰では枯れた木の枝が落ちてきて、頭にけがするかも」
「川を渡るのにわざわざくつをはく」・・「川にはとがった石などがあるから、けがをしないように」
「死んだ男が生きているか聞かれた」・・「魂が生きているか聞いたのよ」
もうすこし、やりとりがありますが、娘のいうことがもっともという感じです。
・黄太郎、青太郎(アジアの昔話4/松岡享子・訳/福音館書店/1978年)
むかし、夫婦にイムという姉とオーンという妹がいました。
父親はイムに黄太郎という青年を婿に、母親はオーンに青太郎という青年を婿にえらびますが、夫婦は互いの婿が気に入りません。
ある日、父親は青太郎、黄太郎の二人を連れて、遠い田んぼにでかけるため、舟で出かけます。
途中、父親は二人をためそうといくつも質問をします。
「なぜペリカンは、水に浮くことができるのかね?」
黄太郎「からだじゅうにびっしりはねがはえているからですよ」
青太郎「もともと、うくようににできているからですよ」
「なぜコウノトリは、大きな声でなくのかね」
黄太郎「首が長いからですよ」
青太郎「もともと、大きな声でなくもんだからですよ」
「なぜペリカンは、水に浮くことができるのかね?」
黄太郎「からだじゅうにびっしりはねがはえているからですよ」
青太郎「もともと、うくようににできているからですよ」
「なぜ外がわの葉は赤くて、内がわみどりなのかね?」
黄太郎「外がわは、日にあたるので赤く、内がわは、かげになっているので、みどりなのですよ」
青太郎「もともと、そうなんですよ」
たんぼをみて「なにひとつそだっていないたんぼと、稲があおあおとみのっているのはどうしてちがうのか?」
黄太郎「あれている田は、海からのしお水が流れ、もうひとつの田は、真水だからですよ」
青太郎「もともと、そうなんですよ」
青太郎の答えを聞いた父親は、青太郎はまぬけな婿だと妻にガミガミいいます。
しかし、母親が、お気に入りの婿に尋ねると、青太郎は言います。
「はねの生えていないココナツの実だって浮きます」
「ガマガエルも、長い首こそないけど、大きな声でなきます」
「スイカは、日のあたる外がわみどりで、日にあたるはずもない内がわが赤い」
「はげ頭の男の頭の中をしお水が流れていますか」
もっともらしくても、かならずしもそうだとは限りません。反証をあげることも可能です。
婿自慢もほどほどに。
フィリピンの「イニーゴ」を読んで、タイの「黄太郎 青太郎」を思い出しました。
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