今日は、二俣川から鶴ヶ峰駅まで歩きました。
今日聴いたのは1913年生まれのブリテンの作品。
ヴァイオリン協奏曲作品15は、1938年から39年にかけて作曲された。
初演は1940年3月28日ニューヨークのカーネギー・ホールで、
ブリテンの友人アントニオ・ブローザのヴァイオリン、
バルビローリ指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックで行われた。
イギリスでの初演は1941年4月6日である。
その後ブリテンはこれを1950年に改訂を加え、
1958年にも改訂を加えており、その最終稿による演奏が、
今回聴いたCDのイダ・ヘンデルのヴァイオリン、
ベルグルンドの指揮、ボーンマス交響楽団の演奏によるものである。
第一楽章モデラート・コン・モルトは、
ティンパニの5つの音から成る音型の連打から始まる。
管弦楽による短い序奏のあと、ヴァイオリン独奏が入る。
ヴァイオリンが最初に奏するゆったりした旋律と、
もう一つのテンポの速い旋律は対照的である。
ヴァイオリンは展開部で5つの音から成る音型を奏し、
やがてその音型は再びティンパニが刻むようになり、
ヴァイオリンが美しい旋律を奏でる中、消えるように終わる。
第二楽章ヴィヴァーチェは、スケルツォ楽章で、
軽快に荒々しく始まり、滑稽な感じの音楽である。
ヴァイオリンが奏でる音楽はショスタコーヴィチに似ているが、
管弦楽の奏でる音楽はベルリオーズ風でもある。
中間部はヴァイオリン中心に、甘美な旋律を奏でられ、
再び冒頭の荒々しさが顔をのぞかせるが、
途中ヴァイオリンのカデンツァが入り、
ここはヴァイオリン奏者の腕の見せどころだろうが、
ここでも第一楽章冒頭の5つの音から成る音型が登場する。
そしてそのまま途切れなく次の楽章に入る。
第三楽章アンダンテ・レント-ウン・ポコ・メノ・メッソは、
パッサカリア形式であり、メランコリックな感じで始まる。
ヴァイオリン・ソロも感傷的な旋律を奏でていく。
ゆったりとしたテンポの中で作り出される音楽は、
シベリウス風な感じも受ける部分もある。
途中からテンポは軽快になり、舞踏的な音楽になり、
ヴァイオリンのテクニックが発揮される場面も設けられ、
管弦楽が奏でる音楽はやがて情熱的となっていく。
それがいったん静まり、ヴァイオリン・ソロを中心に、
ゆったり歌いあげる音楽となり、管弦楽はそれをやさしく支え、
最後までその感じが続き、盛り上げるコーダとはならず、
静かにヴァイオリン・ソロを中心に消えるように終わる。
協奏曲のお決まりのように最後華やかに終わることはない。
やはりそこがイギリス的なのかもしれない。
今日聴いたのは1913年生まれのブリテンの作品。
ヴァイオリン協奏曲作品15は、1938年から39年にかけて作曲された。
初演は1940年3月28日ニューヨークのカーネギー・ホールで、
ブリテンの友人アントニオ・ブローザのヴァイオリン、
バルビローリ指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックで行われた。
イギリスでの初演は1941年4月6日である。
その後ブリテンはこれを1950年に改訂を加え、
1958年にも改訂を加えており、その最終稿による演奏が、
今回聴いたCDのイダ・ヘンデルのヴァイオリン、
ベルグルンドの指揮、ボーンマス交響楽団の演奏によるものである。
第一楽章モデラート・コン・モルトは、
ティンパニの5つの音から成る音型の連打から始まる。
管弦楽による短い序奏のあと、ヴァイオリン独奏が入る。
ヴァイオリンが最初に奏するゆったりした旋律と、
もう一つのテンポの速い旋律は対照的である。
ヴァイオリンは展開部で5つの音から成る音型を奏し、
やがてその音型は再びティンパニが刻むようになり、
ヴァイオリンが美しい旋律を奏でる中、消えるように終わる。
第二楽章ヴィヴァーチェは、スケルツォ楽章で、
軽快に荒々しく始まり、滑稽な感じの音楽である。
ヴァイオリンが奏でる音楽はショスタコーヴィチに似ているが、
管弦楽の奏でる音楽はベルリオーズ風でもある。
中間部はヴァイオリン中心に、甘美な旋律を奏でられ、
再び冒頭の荒々しさが顔をのぞかせるが、
途中ヴァイオリンのカデンツァが入り、
ここはヴァイオリン奏者の腕の見せどころだろうが、
ここでも第一楽章冒頭の5つの音から成る音型が登場する。
そしてそのまま途切れなく次の楽章に入る。
第三楽章アンダンテ・レント-ウン・ポコ・メノ・メッソは、
パッサカリア形式であり、メランコリックな感じで始まる。
ヴァイオリン・ソロも感傷的な旋律を奏でていく。
ゆったりとしたテンポの中で作り出される音楽は、
シベリウス風な感じも受ける部分もある。
途中からテンポは軽快になり、舞踏的な音楽になり、
ヴァイオリンのテクニックが発揮される場面も設けられ、
管弦楽が奏でる音楽はやがて情熱的となっていく。
それがいったん静まり、ヴァイオリン・ソロを中心に、
ゆったり歌いあげる音楽となり、管弦楽はそれをやさしく支え、
最後までその感じが続き、盛り上げるコーダとはならず、
静かにヴァイオリン・ソロを中心に消えるように終わる。
協奏曲のお決まりのように最後華やかに終わることはない。
やはりそこがイギリス的なのかもしれない。