日本でも、古い建物を改修して永く使うことが、一般的になってきました。それが住宅だと、改修という風に呼ぶとどうも堅苦しいのか、リフォームとか、リノベーションという言葉で表現されることが多いですね。でも、特にリフォームという言葉のもつニュアンスに、なにか馴染めないものも感じてしまいます。値段と扱いやすさから多用される新建材で置き換えられる家屋の表情が思い浮かんでくるのです。いろいろな意味で便利にはなるのだろうけれど、長い間に培われ堆積した、かけがえのない大切なものを、ある意味で一瞬で剥ぎ取ってしまうような・・・。リフォームという言葉に、そんな「間に合わせ」の改修のありようを感じてしまいます。
イタリアにはレスタウロという言葉があって、これも改修のことを指しています。保存、修復、歴史的な遺産への創造的な活用、など、文化的な側面を含んだ言葉として定着しているようです。何世紀も昔の建物とともに生活がある国の、独特の言葉なのでしょう。実際に、何世紀も前に造られた、誰によって造られたかもわからない無名の古い建物を前にして、それを改修して、新しい生活の場にしてみたい、という強い願望を抱くときがあります。現代的で斬新なデザインの建築を見るよりも、むしろ古いそれらの無名の建物に思いを馳せるほうが、僕にとって魅力的に思えるのも事実です。
僕が建築を志そうと思ったキッカケになったもの。カタルニア・ロマネスクの写真集に載っていた、山間部の小さな古い礼拝堂。そしてそれとともに今も生きる人たち。素朴で、無名で、単純で、おおらかな、それらの建物。簡素古朴の美しさに思いを傾けながら、現代に必要なしつらえを、ひとつひとつそっと造りこんでいくこと。そうして、次の世代にまた手渡していくこと。そんなイメージが、僕にとってひとつの理想でもあります。誤解を恐れずにあえて言うならば、新築ではなく改修のようにして一軒の家をつくる。レスタウロのようにして家をつくる。そんなことを心のどこかで思いながら設計の仕事をしています。
そんなせいなのか、僕の設計する家は、一見すると窓が小さく、カタチも普通で、木々の影が壁に映りこむようにできていることが多いようです。(かといって暗いわけではないのですが。笑) 控えめで素朴な佇まいのなかに、時間を味方につけたような美しさが宿ることを目指しているのかもしれません。
建物の改修がより積極的に行われるためには、理屈ぬきにレスタウロしたくなる雰囲気の建物が、もっともっと増えていく必要があると思います。近現代の建築家がつくった建物は、作家性が大前提にありすぎるのか、レスタウロをしたくなる雰囲気の建物はあまりないように思います。そのような意味では、建物は、もっと普通で素朴なものであってよいのかもしれません。そんな風にイメージしたとき、僕にとって理想の佇まいの代表格といえばこれ。ジョルジョ・モランディの絵から。彼もまた、レスタウロの国イタリアの画家でした。