友人の結婚式の引出物で、三谷龍二さんの小さな器をいただきました。包みを開けて、一瞬でそれとわかりました。というのも、僕は三谷さんのファンで、小さな皿をひとつ買ったときのエピソードを以前このブログでも書きました。
図らずして、三谷さんの器がふたつ、僕の手元に揃いました。木の塊をくりかえしくりかえし、こりこり削ってできあがる器。手作りだから味がある、という風にしてこの良さを片付けてしまいたくはありません。三谷さんの器の特徴は、何といってもその表面を覆う無数のノミの跡。同じ手法を延々とくりかえし反復しながら、用途に合わせて大きさやカタチは変幻自在となります。でもそのカタチは作為にあふれたものではなく、実用に即した極めてシンプルなもの。
くりかえす。反復する。そういった作業の果てにできあがる物の美しさについて、かつて柳宗悦は多くの言説を残しました。そして晩年、彼は「くりかえす」果てに立ち現れるものを、仏教思想に重ね合わせていきました。
三谷さんの木の器を見ながら、いきなり仏教思想について思いを馳せる必要はないでしょうけれど、ノミの跡にひとつひとつの手の動きを感じながら、さながらそれを「念仏」のようにイメージすることもできるでしょう。単にシンプルさを求めたものでもない。単に荒削りでとどめたものでもない。食器という「日常」のための道具をつくるため、素朴なノミの跡に、ものづくりの過程や気持ちが偲ばれるそれらの器は、「清貧」と呼ぶにふさわしいと、僕は思います。「清貧」といえば、遠くアッシジの聖フランチェスコの逸話が思い起こされますが、その宗教的な含意の根本をたどれば、それは「日常」に向けられた優しい眼差し、という風に言うこともできるのだと思います。
さて、この器をいただいたお二人は、僕と同じ事務所で働いた同僚でした。きっと彼らも「日常」に眼差しを向けながら、地に足の着いた住宅設計をしていくことでしょう。この小さな三谷さんの器の引出物に、そんなイメージを重ね合わせることができました。そして、三谷さんのくりかえし振るわれたノミと同様、自らの手法を頑なに守りながら生涯くりかえしコートハウスを設計し続けた僕たちの師匠も、「清貧」と呼ぶにふさわしかったのかなと、今になって思います。
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