建礼門院大原西陵に寄り道している間に、仲間たち一行の姿が見えなくなってしまいました。行き先がわかっているのであわてませんでしたが、このタクシーが停まっている所の右側の方に、寂光院の入口がありました。
(下)寂光院の門前にある漬物店「翠月(すいげつ)」:シソの香りの高い生しば漬けなどを売っている。
建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないじ)は、院の前の草生川を渡った所の墓で静かに眠っている。この阿波内侍が里人の貢ぎ物の夏野菜(ナスやキュウリなど)を、シソ(チソ)の葉と一緒に漬け込んだ漬物が「しば漬」の始まりとされ、みやげ物として茶店などで売られている。
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謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。謡曲史跡保存会
寂光院の受付
参道の長い石段を登ると山門があり、潜るとすぐ前に本堂(書院)がある。本堂は平成12年(2000)、放火で焼失したが平成17年(2005)に再建された。
寂光院:天台宗の尼寺で、山号は清香山(せいこうざん)、寺号は玉泉寺(ぎょくせんじ)という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)[敏達十三(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で、慧善比丘尼という]で、その後、代々高貴な家門の姫君らが法灯を守り続けてきた。第二代の阿波内侍(藤原信西の息女)は、崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家後に入寺し、証道比丘尼となった。建礼門院に宮中より仕え、草生では大原女のモデルとされている。第三代の建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の国母)は、 文治元年(1185)9月入寺し真如覚比丘尼となった。そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごされた。閑居御所とされた。それ以来、御閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。
翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸(おおはらごこう)として知られている。 旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で慶長8年(1603)に豊臣秀頼が、片桐且元を工事奉行として修理させたという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊、六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。
現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に古式通りに忠実に復元したものである。また、江戸時代には、豊臣秀頼や徳川家康、淀君らが再興に手を尽くした。
本堂前西側の庭園は、平家物語当時のままで、心字池、千年の姫小松、苔むした石、汀(みぎわ)の桜などがある。この姫小松は、平家物語潅頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」の松として伝わるもので、文治2年(1186)の春、翠黛山(本堂正面に対座する山)から、花を摘み帰った建礼門院が、後白河法皇と対面するところに登場する。この樹齢千年の名木も、本堂の火災によって痛みが激しくなり、遂に平成16年夏に枯死した。この庭園は幽翠で哀れに美しく、当時の余韻を残している。
本堂前北側の庭園は、回遊式四方正面の庭で、林泉・木立・清浄の池として表現され、特に石清水を引いた三段の滝を玉だれの泉と称し、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝のそれぞれ異なる音色が、一つに合奏するかのように作庭されている。
また、本堂手前右側にある大きな南蛮鉄の雪見燈籠は、太閤豊臣秀吉の寄進で桃山城にあったものを移した。
本堂の右手裏山には、建礼門院大原西陵が所在し、五輪塔の仏教式御陵として珍しいとされている。さらに翠黛山には、阿波内侍をはじめとする5人の侍女の墓地群が所在する。
[受付で頂いたパンフレットの「寂光院略縁起」より]
寂光院の山門
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(上)と(下) 寂光院の本堂(書院):平成12年(2000)5月に放火により全焼した本堂は復元され、平成17年(2005)6月に一般公開された。往時の姿を取り戻した内陣は、漆塗りの黒い柱に赤、青、金色の極彩色で唐草模様が描かれている。中央には、高さが2mを越える鮮やかな色の地蔵菩薩像が安置されているほか、建礼門院の像と建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないじ)の像が祀られていた。
本堂左手の庭園に一本の桜の木がある。「汀の桜(みぎわのさくら)」といい、そばの池を「汀池(みぎわいけ)」という。これは、後白河法皇(夫・高倉天皇の父)が建礼門院を見舞ったとき、法皇が詠われた「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけり」に因んで名付けられたとされる。
本堂右手前に、伏見城から移されたという南蛮鉄で造られた大きな雪見燈籠が置かれていた。
本堂右の北庭園は「四方正面の庭」で、岩清水の流れる滝と泉がある。