ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】春の嵐

2009年11月10日 22時00分24秒 | 読書記録2009
春の嵐(ゲルトルート), ヘッセ (訳)高橋健二, 新潮文庫 ヘ-1-1, 1950年
(Gertrud, Hermann Hesse, 1910)

・怪我により片足の利かない音楽家のクーンと、その友人であるオペラ歌手のムオトと、美しい令嬢ゲルトルートとの三角関係を描いた作品。ヘッセの作品はこれまで『車輪の下』や『デミアン』も読んだがどれもいまいちピンと来ず。相性が悪い?
・登場人物の一人 "ムオト" の名を、ずっと "ムトオ" と誤読していた事に気づいたのは読了した後のこと。
・「――そもそも音楽が世の中にあるということ、人間はときおり心の中まで拍子に動かされ、諧調に満たされうるものだということ、そのことが私にとってはたえず深い慰めといっさいの生活の是認とを意味していた。ああ、音楽! ある旋律がおまえの心に浮かぶ。声を出さずに心の中だけでそれを歌う。おまえの心身はその旋律にひたされ、おまえのすべての力と動きとはそれに奪われる。――おまえがおまえの中に生きているあいだは、おまえの中のいっさいの偶然なもの、悪いもの、粗野なもの、悲しいものを消してしまい、世界を共鳴させ、重いものを軽くし、堅いものをも飛躍させる。一つの民謡の旋律がそうした種々さまざまのことをなしうるのである。そして和声にいたっては! たとえば鐘の音のように、純粋な調子の音の快い共鳴だけでも、すべての心を優美と快感をもって満たし、音が加わって来るごとに高まり、ときには胸を燃え立たせ、どんなほかの快楽もなしえないほど、歓喜に胸を震わすことができる。」p.7
・「「なるほど」と、彼はゆっくり言った。「しかし、どうして作曲するのが喜びなんです? 苦しみを紙に書きつけたって、苦しみからのがれられるわけじゃないでしょう」  「ぼくもそんなつもりじゃないんです」と、私はいった。「弱さや不自由さならともかく、苦しみを捨てようなぞとは思っていません。むしろぼくは、苦しみと喜びは同じ源から出て来るものであって、同じ力の働きであり、同じ音楽の拍子であるということを感じたいのです。そしてどちらも美しく必要だということを」」p.53
・「「あなたはムオトさんをまだご存じないんです」と、彼女は続けた。「あのひとが歌うのをお聞きになったことがないんですの? あのひとはあのとおりなんですの、乱暴で残酷で。でも、自分自身に対していちばんひどいんですの。あのひとは、力ばかりあって目あてのない、気の毒な激しい人です。あのひとは一瞬ごとに全世界を飲みほそうとするんですの。しかも自分で持つもの、することはいつもほんの一滴にすぎないんです。お酒を飲んでも、酔えず、女のひとがあっても、しあわせになれず、あんなにすばらしく歌っても、芸術家だなんて思っていませんの。だれか愛する人があっても、その人を苦しめるばかりです。そして満足しているひとをだれかれとなく侮るようなふうをします。でも、それはあのひと自身に対する憎しみなんですの。自分で満足できないものだから。あのひとはそんな人間なのです。あなたに対しては、できるかぎりの親切を尽くしたんですわ」」p.59
・「名声のうちでも、まだ大きな成功を望まず、うらやまれもせず、また孤立もしない名声は、最も甘いものである。」p.94
・「私は自分の音楽のことをほとんど忘れてしまっていた。私は広間の奥の方にいる令嬢ゲルトルートをさがした。彼女は書架にもたれて薄暗がりのなかにこしかけていた。彼女の濃いブロンドの髪の毛はほとんど黒く見えた。彼女の目は見えなかった。それから私は静かにタクトを数えて軽く頭を下げた。私たちは大きく弓をしごいてアンダンテをひき始めた。  ひいているうちに私は快く熱してきた。拍子とともにからだを揺すり、音の流れの諧調のなかに自由にただよった。そのすべてが、私にはまったく新しく、この瞬間に考え出されでもしたように思われた。音楽に対する思いとゲルトルート・イムトルに対する思いとが、純粋に狂いなく融合して流れた。私はバイオリンの弓を引きながら目で指揮をした。音楽はよどみなく美しく流れ、もはや見えずまた見ようとも願わなかったゲルトルートめざして、黄金の道へと私を連れて行った。ちょうど朝の旅人が、求められず迷わずに、早朝の淡い空色と澄んだ草地の輝きに身を任すように、私は自分の音楽と呼吸と思想と心臓の鼓動とを彼女にささげた。快感と重畳としてあふれてくる調べと同時に、突然恋の正体がわかったという、不思議な幸福感が私をにない、高めた。それはけっして新しい感情ではなく、非常に古い予感がはっきりと現われたものであり、昔の母国の復帰にほかならなかった。」p.98
・「その晩以後、私は、融合と無上にこまやかな調和とに対する自分の願望がどこかで満たされうるということ、その人のまなざしと声とに私の体内の一つ一つの脈拍と呼吸とが清く深く答えを与えているだれかが地上に生きているということ、を知った。」p.100
・「彼女は喜んで、話をきき、譜面を繰って見て、さっそく練習すると約束した。熱烈な、極度に充実した時期が来た、私は恋と音楽とに酔い、ほかのことにはまったく無能になって歩きまわった。ゲルトルートは私の秘密を知っている唯一の人だった。」p.112
・「今日ではもうそれを聞きたいとは思わないし、まったく別な曲を書いているが、あのオペラの中には私の全青春がこもっている。その中の数々の拍子に出くわすと、なまぬるい春の嵐が青春と情熱の寂しい谷間から吹いて来る思いがした。その熱と人の心に及ぼす力とが、すべて弱点と欠乏とあこがれとから生まれ出たことを思うと、あの当時の自分の生活全体が、そしてまたいまの生活が、自分にとって好ましいのか、いとわしいのか、わからなくなる。」p.125
・「しかしそれはもう私のものでも私の作品でもなく、それ自体の生命を持って、外部の力として私に働きかけた。作者と作品の分離を私ははじめて感じた。それまでは私はそれをほんとに信じてはいなかった。私の作品は独立して働き生命を示し始めた。ついさっきまで私の掌中にあったのに、いまはもう私のものではなく、成長して父から離れる子どものように、独力で生き、力を発揮していた。そしてひとりまえになって他人の目で私を見ていた。が、やはりそのひたいには、私の名まえとしるしとが書かれていた。同じように分裂した、ときとしてはぎくっとさせるような感じを、私はのちに上演の際に受けた。」p.127
・「わしは、人の一生には青春と老年とのあいだに、はっきりした境が設けられると思う。青春は利己主義をもって終わり、老年は他人のための生活をもって始まる。」p.134
・「若い人たちのあいだの愛と長い結婚生活の愛とは同じものではない。若いときはみんな自分のことを考え、自分のことを心配している。しかし一度所帯を持つと、ほかの心配ができる。」p.136
・「「きみは子どもだな! 彼女はきみといっしょになった方がおそらく幸福だったろうに! だれにだって女をわがものにする権利はあるんだ。はじめに一言でも、目くばせでもしてくれたら、ぼくは近よらなかったろうに。あとからじゃもちろんまにあわなかった」」p.175
・「恋とはなにか、ということが、ときおりはわかったような気がした。きれいで気軽なリディに無我夢中になっていた少年時代すでに、私は恋を知ったように思っていた。それからまたゲルトルートをはじめて見、彼女こそ自分の問いに対する答えであり、自分のぼんやりした願いに対する慰めであると感じたときにも、それからまた、苦しみが始まり、友情と明澄さが情熱と暗黒になり、ついに彼女を失ったときにも、恋というものを知ったように思った。彼女を失っても、恋は残り、常に私につきまとっていた。同時に、ゲルトルートを心の中にいだいて以来、私は欲望をもって女を追い、女の口のキスを求めることは、もうけっしてできないのを知った。」p.187
・「私の作品でありながら、もはや私を必要とせず、それ自体の生命をもつ音楽が始まり、私の前になじみぶかく、しかもよそよそしく響いて来た。過ぎ去った日の喜びと苦心、希望と眠れぬ夜々、あのころの熱情とあこがれ、それらが引き放され変装させられて私に相対した。秘めた思い出のときの興奮が、劇場の中の数千人の見知らぬ人々の心に取り入るように自由に響いた。ムオトが登場し、控えめな力で歌い始め、だんだん調子を張り、力いっぱい出して、例の暗い激情で歌った。女の歌手が、高い震える明るい調子で答えた。それから、ゲルトルートの声で聞いたのがまだはっきり私の耳に残っている個所が来た。それは彼女への敬意の表示であり、私の愛のひそかな告白であった。私はまなざしを彼女の静かな清い目に向けた。その目は私の心を理解し、親しげに会釈した。一瞬のあいだ、私は、自分の青春の内容が熟したくだもののデリケートなかおりのように、心に触れるのを感じた。」p.199
・「ムオトの言ったことは正しい。人は年をとると、青年時代より、満足している。だが、それだからといって、私は青年時代をとがめようとは思わない。なぜなら、青春はすべての夢の中で輝かしい歌のようにひびいて来、青春が現実であったときよりも、いまは一段と清純な調子で響くのだから。」p.233

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