コーラスは楽しい, 関屋晋, 岩波文庫(新赤版)579, 1998年
・ベルリンにて、小澤征爾指揮=ベルリン・フィルで『カルミナ・ブラーナ』を歌うという、アマチュアとして行く所まで行ってしまった感のある合唱団。それを創った本人による著作。普段、自分が関わるのは合唱団ではなくオーケストラですが、同じ音楽を楽しむ団体として参考になる記述が多数あり、とても面白く読めました。
・「晋友会」といえばかなり有名なようですが、これまでその存在を知りませんでした。
・著者の合唱指導についての記述も多少あるものの、「なぜそこまで素晴らしい合唱が創れるのか」という疑問は晴れません。その真髄は見えず。結局は指導者の『人柄』ということになってしまうのでしょうか。
・本作のような感じで、『アマオケ』をテーマにした面白い本があったらな、と思うのですが、未だ出会わず。
●序文[小澤征爾]より「日本の高校野球を観ていると、選手という素材はもちろん重要なのだけど、チームのよしあしを決めるのは、結局、指導者だと感じます。コーラスもこれと同じ。(中略)アマチュアコーラスのレベルは、その国の音楽水準を示すものだといっていいでしょう。日本では、「ママさんコーラス」など、全国津々浦々に広がっていて、「量」はものすごい。これを受けて「質」を高めたのが、関屋さんじゃないか。」p.i
・「コーラスとは、さまざまな声がまじり合い、溶け合ってつくり出す響きです。一人ひとりの声がまじり合い、溶け合うというのが大切なのです。」p.iii
・「しかも世の中には、「この世に悪い合唱団は存在せず、下手な合唱の責任はすべて指揮者にある」というような、怖い言葉があります。」p.2
・「主役は合唱団であって、指揮者ではない――まず第一に考えなえればいけないことは、それです。 その合唱団なりに、楽しくやれる活動でなければなりません。指揮者が自分のやりたいことを押しつけてはいけないのです。」p.3
・「いってみれば、歌いながら自分なりのモヤッとしたイメージをつくっていってもらうのが先です。説明して、言葉のかたちにするのは後なのです。最初からいっぱい押しつけられると、歌っているほうは苦痛になるのではないか、とわたしは思います。」p.4
・「重要なのは、まわりの声を聴き、そこに自分の声を合わせていくということです。そうしますと、これは音楽的にいえば倍音体系ということなんですが、自分たちの声だけではない、ほかの響きが鳴り出します。いいハーモニーのなかに身をおくと、しびれるような不思議な感動を味わいます。これは倍音体系を体に感じているからなので、合唱の醍醐味とは、つまりこれなのです。」p.6
・「いちばん怖いのは、飽きてしまうことです。ワンパターンにならず、いつでも新鮮な気持で歌えるような、そういう雰囲気づくり、これが必要です。」p.10
・「別に「絶対音感」がなくてもかまいません。実はわたしもありません。わたしは「大体音感」と言ったりしますが、「大体」でいいのです。大きな音の流れを覚えて、あとはだんだん正確にしていけばいい。」p.12
・「アマチュアコーラスの場合、さまざまなレベルの人たちが集まっていると言いました。これは積極的にとらえるべき、大きな意味を持ったことだと思います。」p.13
・「初めての人たちだから長い期間をかけてやるというのは、一見もっともですが、これは実は誤解です。言葉もわからないし、音もわからない、そういう人たちだけでは、なかなか進まないのです。二年目からは、経験者といっしょに秋からやりました。そのほうがずっと能率が上がるし、歌っているほうも楽しい。お互いに利用し合ってこそ、合唱は進歩するのです。」p.14
・「合唱団から指揮をしてほしいと頼まれたときには、いつも、引き受けるまえに、お互いの感じを確かめることをします。わたしは、これを、「お見合い」と称しています。」p.15
・「実は、ひそかに、ある音楽大学を受けるつもりで、願書をもらいにいったこともあるのです。そうしたら、なんと、「戦時中だから、男はとらない」という返事でした。わたしたちの年代の音楽指導者で、音楽専門教育を受けたという人は数少ないのですが、それにはこういう事情もからんでいたと思います。」p.19
・「日本では「ああやらないとダメなんじゃないか」とか、「こうやるべきじゃないか」などと、「べき」ということにこだわったりしますが、彼らは「わたしはこう思う」といった雰囲気が非常に強い。「自分たちの音楽だ」という姿勢、そんな音楽的伝統を感じました。わたしにとって、国際合唱コンクール参加の最大の成果はそれかもしれません。」p.33
・「ブルガリアやハンガリーなど東欧の合唱団は、ピアノ(p)からフォルテ(f)までの振幅が大きくて、最後の最後になると、判で押したように、フォルティシモ(ff)でウワーッと盛り上がっていく。いわば鋼鉄の声で、その力強さに圧倒されますが、だんだん飽きてきます。分厚いステーキを何枚も食べさせられたような満腹感を覚えてしまう。それに対して、「リーミングトン合唱団」などは、声も非常にやわらかい。」p.37
・「そのひとつは、様式感の強調です。「この時代のものはこうでなければならない」とはっきり言う。「何でもいいから、ともかく歌え」といったことは絶対にない。土台がしっかりしているという感じがします。」p.44
・「外国では、合唱指揮者=コーラス・マスターは別格に扱われていて、カラヤンさんほどの世界的指揮者でも、コーラス・マスターに対して、「ここをこうやりたいが、いいか」と相談するという話をきいたことがありますが、小澤さんもそうでした。いまでも小澤さんは、演奏会でごいっしょするとき、「ここをこう振りたいんだけど、いいかなあ」といった話をされます。」p.62
・「さて、ステージは、歌う側と聴く側が、ともに楽しめるものでなければなりません。このとき重要なのは、まず選曲です。選曲は演奏者の主張の第一段階で、これがすめばステージづくりの半分以上はすんでしまう、というくらい重要なことだと思います。」p.69
・「祝賀会で「レクイエム」を歌ったりしたら常識が疑われる、などということはどなたにもおわかりでしょう。しかし、内容はまったくふさわしくないのに、おそらくは曲の題名で選んでしまうということはありそうです。マルティーニ『愛のよろこび』という歌がありますが、これは不実な恋人に対する恨みを歌ったものです。ところが、これを結婚式場で気持ちよさそうに歌われたのを聴いたことがありました。何か意図があるのかと疑ってしまいますが、もしかしたら歌詞を理解していなかったのでしょうか。」p.74
・「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の練習は、まさに公演ホールでやるのです。世界で五指に入るような超一流オーケストラが最高の条件で練習するのですから、これはかなわない。日本では、本番会場で練習したいという単純な要請が通らないのです。」p.80
・「それにしても、あらためて武満さんはすごいと思います。録音中、ダメだというようなことは言われなかったし、また、ガンバレとも言われない。私たちを信頼し、信頼することでわたしたちをリラックスさせてくれた。合唱というものは、緊張しているのとリラックスしているのとでは、まるで響きが違うものです。実は、合唱指揮者の大事な役目のひとつは、合唱団の緊張をほぐすことにあります。」p.96
・「作曲家の方が、「自分が思ってみたこともないようなことを、よくやってくれた」「同じ楽譜からこんな響きが出せるとは思ってもみなかった」とおっしゃってくださり、喜んでくださるときがあります。これは指揮者として、もっとも嬉しいことです。(中略)つまり、作曲者は作品を「生む」のですが、指揮者は「育てる」役目なのです。」p.105
・「実はこういう経験は初めてではありません。亡くなる少し前のことでしたが、カラヤンさんが、生まれ故郷のザルツブルクの音楽祭に出演して、リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』を指揮したことがあり、わたしは幸いにも、その演奏を聴くことができました。そのときはもっとすごかった。演奏が終わってもシーンとしているのです。いったい、どうしたのかと思った。見ると、隣りに座っている女性は泣いています。おそらくは、音楽の感動に加えて、カラヤンさんの故郷での出演が最後になるのではないかとか、いろいろな思いが多分、まじっていたのでしょう。他にも泣いている方がいる。そのなかで、誰かが手をたたきはじめた。そうしたら、潮がみちてくるように、拍手がわきおこり、広がっていく。最後は文字通り、万雷の拍手です。 それにしても、自分の合唱団が参加している演奏会で、こんなすばらしい拍手の仕方をしてもらえるとは考えてもいませんでした。」p.120
・「さて、ベルリン・フィルとの練習で、まず驚いたのは、彼らの出す音です。この音のなかで、これを超えてわれわれの声が聴こえるのだろうか、と疑いました。それほど響きが違う。 いまひとつは、最初は、ごくわずかではありましたけれど、音を間違えるシーンがあったことです。あとでベルリン・フィルのメンバーに聞くと、『カルミナ・ブラーナ』はひさしぶりだと言っていましたから、そういった事情があったのでしょう。(中略)実際、ベルリン・フィルの練習をみていると、「ああ、こういうものか」とわかったときからがすごい。個々人の自発性というか、音楽するという態度が違う。多少、「かたち」が乱れていても、そんなことは気にしない。どんどん音楽の本質をつかんで、巨大なものに仕上げていくのです。仕上がったときは、もう完璧です。」p.131
・「独唱者はエディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)、ジョン・エイラー(テノール)、トーマス・ハンプソン(バス)の三人ですが、とりわけソプラノのグルベローヴァさんには驚きました。まず、声がすごい。高い声をいきなり、苦もなく出すのです。こういう人が世の中にいるのか、と思うぐらいすごかった。しかも、どんなときもまったく手抜きをしない。ほかの方は、本番近くなると全力では歌わず、声を大事にして本番に備えようとするのですが、グルベローヴァさんは絶対手抜きしないで、本番と同じように歌う。」p.132
・「そうしたら小澤さんは、「どんな曲だっけ?」と言われながら、すぐにパッと振りはじめた。このときの感じはちょっと忘れられません。振るとはいうものの、小澤さんは両手の指先を微妙に動かすだけです。腕を動かして拍子をとろうともされない。それなのに、小澤さんのさの指先の動きに合わせて、あっという間に、みんなの歌う気持ちがひとつになる。みんながいい気持ちで歌えている。わたしはいままで、いろいろな方の指揮を見せてもらってきましたが、この夜の小澤さんの指揮ほど、ショッキングなものはなかった。まさに「魔術」を見ているようでした。(中略)指揮の極意というか、棒を振る意味のようなものを見せてもらえた。「指揮というのは、どうやって振るかなどという話はあとのことで、みんなの気持ちをどうやって集めるかなのだ」、この経験はわたしの宝物です。」p.141
・「小澤さんのときからそう感じていたことですが、大マエストロは決して演奏者を萎縮させません。しかも、相手がアマチュアだろうが、プロだろうが、差別しない。そして、褒め方がうまい。(中略)しかし、気にいらないところは絶対に演奏を止める。妥協しません。相手がウィーンフィルといえども、絶対に譲らない。」p.152
・「ベルリン・フィルとよく比較されますが、ベルリン・フィルはどちらかといえば、がっちりと築きあげていくという感じがあり、ウィーン・フィルのほうは、そのときどきの音楽的雰囲気を楽しむといった違いがあるように思います。(中略)わたしの好きな落語にたとえると、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの違いは、文楽と志ん生の違いといってもいいのではないでしょうか。」p.156
・「ともかく、マエストロはいろいろなことを考えるものです。」p.159
・「ちなみに、『ダフニスとクロエ』という曲は、ずいぶんやらせてもらいました。いろいろな指揮者またオーケストラとごいっしょしたのですけど、とりわけ印象深かったケースをとりあげれば、サイモン・ラトルさん(バーミンガム市交響楽団、1991年)、ズービン・メータさん(ウィーン・フィル、1996年)、そしてケント・ナガノさん(リヨン国立歌劇場管弦楽団)ということになりましょうか。」p.162
・「合唱団は10年続くかどうかがひとつのハードルだ、と言われています。二、三年ならば勢いでいけるけれども、10年となると、団員一人ひとりの努力がないと続かない。これは同じことが合唱指揮者にも言えます。」p.173
・「合唱指揮者として考えるべき大切なことがあります。なれあってはいけない、ということです。(中略)本当の楽しさとは、必ずどこか厳しさを含んでいます。厳しさがないと、実は長続きしない。」p.175
・「「いいところをみつける」、これが大事です。ミスをしたところとか、下手なところ、悪いところをいうのは、誰でもすぐ気がつくものです。でも、いいところとか、個性的なところを見つけるのは案外むずかしい。「いいところをみつける」とは、つまり聴く力と言っていいでしょう。これを身につけるように意識していれば、何かが見えてくるはずです。聴く力は必ず歌う力につながります。」p.178
・「音楽にかぎらず、日本の文化のあり方の問題点と思うのは、ごく限られた専門家というか、エリートをつくるのに熱心で、広がりについて無関心だということです。広がりがなくては、頂点の高さも本物ではない。ですからわたしは、何よりもまず、コーラス好きを増やしたいと思っています。(中略)こんなにいい歌があったのか――そう思ってもらえること、それがすべての原点だとわたしは思っています。」p.185
・「わたしの言いたいことは、「合唱ってこんなに楽しいんですよ」ということに尽きます。合唱の楽しみ方は人それぞれ、いろいろなかたちがあるのですから。」p.189
・ベルリンにて、小澤征爾指揮=ベルリン・フィルで『カルミナ・ブラーナ』を歌うという、アマチュアとして行く所まで行ってしまった感のある合唱団。それを創った本人による著作。普段、自分が関わるのは合唱団ではなくオーケストラですが、同じ音楽を楽しむ団体として参考になる記述が多数あり、とても面白く読めました。
・「晋友会」といえばかなり有名なようですが、これまでその存在を知りませんでした。
・著者の合唱指導についての記述も多少あるものの、「なぜそこまで素晴らしい合唱が創れるのか」という疑問は晴れません。その真髄は見えず。結局は指導者の『人柄』ということになってしまうのでしょうか。
・本作のような感じで、『アマオケ』をテーマにした面白い本があったらな、と思うのですが、未だ出会わず。
●序文[小澤征爾]より「日本の高校野球を観ていると、選手という素材はもちろん重要なのだけど、チームのよしあしを決めるのは、結局、指導者だと感じます。コーラスもこれと同じ。(中略)アマチュアコーラスのレベルは、その国の音楽水準を示すものだといっていいでしょう。日本では、「ママさんコーラス」など、全国津々浦々に広がっていて、「量」はものすごい。これを受けて「質」を高めたのが、関屋さんじゃないか。」p.i
・「コーラスとは、さまざまな声がまじり合い、溶け合ってつくり出す響きです。一人ひとりの声がまじり合い、溶け合うというのが大切なのです。」p.iii
・「しかも世の中には、「この世に悪い合唱団は存在せず、下手な合唱の責任はすべて指揮者にある」というような、怖い言葉があります。」p.2
・「主役は合唱団であって、指揮者ではない――まず第一に考えなえればいけないことは、それです。 その合唱団なりに、楽しくやれる活動でなければなりません。指揮者が自分のやりたいことを押しつけてはいけないのです。」p.3
・「いってみれば、歌いながら自分なりのモヤッとしたイメージをつくっていってもらうのが先です。説明して、言葉のかたちにするのは後なのです。最初からいっぱい押しつけられると、歌っているほうは苦痛になるのではないか、とわたしは思います。」p.4
・「重要なのは、まわりの声を聴き、そこに自分の声を合わせていくということです。そうしますと、これは音楽的にいえば倍音体系ということなんですが、自分たちの声だけではない、ほかの響きが鳴り出します。いいハーモニーのなかに身をおくと、しびれるような不思議な感動を味わいます。これは倍音体系を体に感じているからなので、合唱の醍醐味とは、つまりこれなのです。」p.6
・「いちばん怖いのは、飽きてしまうことです。ワンパターンにならず、いつでも新鮮な気持で歌えるような、そういう雰囲気づくり、これが必要です。」p.10
・「別に「絶対音感」がなくてもかまいません。実はわたしもありません。わたしは「大体音感」と言ったりしますが、「大体」でいいのです。大きな音の流れを覚えて、あとはだんだん正確にしていけばいい。」p.12
・「アマチュアコーラスの場合、さまざまなレベルの人たちが集まっていると言いました。これは積極的にとらえるべき、大きな意味を持ったことだと思います。」p.13
・「初めての人たちだから長い期間をかけてやるというのは、一見もっともですが、これは実は誤解です。言葉もわからないし、音もわからない、そういう人たちだけでは、なかなか進まないのです。二年目からは、経験者といっしょに秋からやりました。そのほうがずっと能率が上がるし、歌っているほうも楽しい。お互いに利用し合ってこそ、合唱は進歩するのです。」p.14
・「合唱団から指揮をしてほしいと頼まれたときには、いつも、引き受けるまえに、お互いの感じを確かめることをします。わたしは、これを、「お見合い」と称しています。」p.15
・「実は、ひそかに、ある音楽大学を受けるつもりで、願書をもらいにいったこともあるのです。そうしたら、なんと、「戦時中だから、男はとらない」という返事でした。わたしたちの年代の音楽指導者で、音楽専門教育を受けたという人は数少ないのですが、それにはこういう事情もからんでいたと思います。」p.19
・「日本では「ああやらないとダメなんじゃないか」とか、「こうやるべきじゃないか」などと、「べき」ということにこだわったりしますが、彼らは「わたしはこう思う」といった雰囲気が非常に強い。「自分たちの音楽だ」という姿勢、そんな音楽的伝統を感じました。わたしにとって、国際合唱コンクール参加の最大の成果はそれかもしれません。」p.33
・「ブルガリアやハンガリーなど東欧の合唱団は、ピアノ(p)からフォルテ(f)までの振幅が大きくて、最後の最後になると、判で押したように、フォルティシモ(ff)でウワーッと盛り上がっていく。いわば鋼鉄の声で、その力強さに圧倒されますが、だんだん飽きてきます。分厚いステーキを何枚も食べさせられたような満腹感を覚えてしまう。それに対して、「リーミングトン合唱団」などは、声も非常にやわらかい。」p.37
・「そのひとつは、様式感の強調です。「この時代のものはこうでなければならない」とはっきり言う。「何でもいいから、ともかく歌え」といったことは絶対にない。土台がしっかりしているという感じがします。」p.44
・「外国では、合唱指揮者=コーラス・マスターは別格に扱われていて、カラヤンさんほどの世界的指揮者でも、コーラス・マスターに対して、「ここをこうやりたいが、いいか」と相談するという話をきいたことがありますが、小澤さんもそうでした。いまでも小澤さんは、演奏会でごいっしょするとき、「ここをこう振りたいんだけど、いいかなあ」といった話をされます。」p.62
・「さて、ステージは、歌う側と聴く側が、ともに楽しめるものでなければなりません。このとき重要なのは、まず選曲です。選曲は演奏者の主張の第一段階で、これがすめばステージづくりの半分以上はすんでしまう、というくらい重要なことだと思います。」p.69
・「祝賀会で「レクイエム」を歌ったりしたら常識が疑われる、などということはどなたにもおわかりでしょう。しかし、内容はまったくふさわしくないのに、おそらくは曲の題名で選んでしまうということはありそうです。マルティーニ『愛のよろこび』という歌がありますが、これは不実な恋人に対する恨みを歌ったものです。ところが、これを結婚式場で気持ちよさそうに歌われたのを聴いたことがありました。何か意図があるのかと疑ってしまいますが、もしかしたら歌詞を理解していなかったのでしょうか。」p.74
・「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の練習は、まさに公演ホールでやるのです。世界で五指に入るような超一流オーケストラが最高の条件で練習するのですから、これはかなわない。日本では、本番会場で練習したいという単純な要請が通らないのです。」p.80
・「それにしても、あらためて武満さんはすごいと思います。録音中、ダメだというようなことは言われなかったし、また、ガンバレとも言われない。私たちを信頼し、信頼することでわたしたちをリラックスさせてくれた。合唱というものは、緊張しているのとリラックスしているのとでは、まるで響きが違うものです。実は、合唱指揮者の大事な役目のひとつは、合唱団の緊張をほぐすことにあります。」p.96
・「作曲家の方が、「自分が思ってみたこともないようなことを、よくやってくれた」「同じ楽譜からこんな響きが出せるとは思ってもみなかった」とおっしゃってくださり、喜んでくださるときがあります。これは指揮者として、もっとも嬉しいことです。(中略)つまり、作曲者は作品を「生む」のですが、指揮者は「育てる」役目なのです。」p.105
・「実はこういう経験は初めてではありません。亡くなる少し前のことでしたが、カラヤンさんが、生まれ故郷のザルツブルクの音楽祭に出演して、リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』を指揮したことがあり、わたしは幸いにも、その演奏を聴くことができました。そのときはもっとすごかった。演奏が終わってもシーンとしているのです。いったい、どうしたのかと思った。見ると、隣りに座っている女性は泣いています。おそらくは、音楽の感動に加えて、カラヤンさんの故郷での出演が最後になるのではないかとか、いろいろな思いが多分、まじっていたのでしょう。他にも泣いている方がいる。そのなかで、誰かが手をたたきはじめた。そうしたら、潮がみちてくるように、拍手がわきおこり、広がっていく。最後は文字通り、万雷の拍手です。 それにしても、自分の合唱団が参加している演奏会で、こんなすばらしい拍手の仕方をしてもらえるとは考えてもいませんでした。」p.120
・「さて、ベルリン・フィルとの練習で、まず驚いたのは、彼らの出す音です。この音のなかで、これを超えてわれわれの声が聴こえるのだろうか、と疑いました。それほど響きが違う。 いまひとつは、最初は、ごくわずかではありましたけれど、音を間違えるシーンがあったことです。あとでベルリン・フィルのメンバーに聞くと、『カルミナ・ブラーナ』はひさしぶりだと言っていましたから、そういった事情があったのでしょう。(中略)実際、ベルリン・フィルの練習をみていると、「ああ、こういうものか」とわかったときからがすごい。個々人の自発性というか、音楽するという態度が違う。多少、「かたち」が乱れていても、そんなことは気にしない。どんどん音楽の本質をつかんで、巨大なものに仕上げていくのです。仕上がったときは、もう完璧です。」p.131
・「独唱者はエディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)、ジョン・エイラー(テノール)、トーマス・ハンプソン(バス)の三人ですが、とりわけソプラノのグルベローヴァさんには驚きました。まず、声がすごい。高い声をいきなり、苦もなく出すのです。こういう人が世の中にいるのか、と思うぐらいすごかった。しかも、どんなときもまったく手抜きをしない。ほかの方は、本番近くなると全力では歌わず、声を大事にして本番に備えようとするのですが、グルベローヴァさんは絶対手抜きしないで、本番と同じように歌う。」p.132
・「そうしたら小澤さんは、「どんな曲だっけ?」と言われながら、すぐにパッと振りはじめた。このときの感じはちょっと忘れられません。振るとはいうものの、小澤さんは両手の指先を微妙に動かすだけです。腕を動かして拍子をとろうともされない。それなのに、小澤さんのさの指先の動きに合わせて、あっという間に、みんなの歌う気持ちがひとつになる。みんながいい気持ちで歌えている。わたしはいままで、いろいろな方の指揮を見せてもらってきましたが、この夜の小澤さんの指揮ほど、ショッキングなものはなかった。まさに「魔術」を見ているようでした。(中略)指揮の極意というか、棒を振る意味のようなものを見せてもらえた。「指揮というのは、どうやって振るかなどという話はあとのことで、みんなの気持ちをどうやって集めるかなのだ」、この経験はわたしの宝物です。」p.141
・「小澤さんのときからそう感じていたことですが、大マエストロは決して演奏者を萎縮させません。しかも、相手がアマチュアだろうが、プロだろうが、差別しない。そして、褒め方がうまい。(中略)しかし、気にいらないところは絶対に演奏を止める。妥協しません。相手がウィーンフィルといえども、絶対に譲らない。」p.152
・「ベルリン・フィルとよく比較されますが、ベルリン・フィルはどちらかといえば、がっちりと築きあげていくという感じがあり、ウィーン・フィルのほうは、そのときどきの音楽的雰囲気を楽しむといった違いがあるように思います。(中略)わたしの好きな落語にたとえると、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの違いは、文楽と志ん生の違いといってもいいのではないでしょうか。」p.156
・「ともかく、マエストロはいろいろなことを考えるものです。」p.159
・「ちなみに、『ダフニスとクロエ』という曲は、ずいぶんやらせてもらいました。いろいろな指揮者またオーケストラとごいっしょしたのですけど、とりわけ印象深かったケースをとりあげれば、サイモン・ラトルさん(バーミンガム市交響楽団、1991年)、ズービン・メータさん(ウィーン・フィル、1996年)、そしてケント・ナガノさん(リヨン国立歌劇場管弦楽団)ということになりましょうか。」p.162
・「合唱団は10年続くかどうかがひとつのハードルだ、と言われています。二、三年ならば勢いでいけるけれども、10年となると、団員一人ひとりの努力がないと続かない。これは同じことが合唱指揮者にも言えます。」p.173
・「合唱指揮者として考えるべき大切なことがあります。なれあってはいけない、ということです。(中略)本当の楽しさとは、必ずどこか厳しさを含んでいます。厳しさがないと、実は長続きしない。」p.175
・「「いいところをみつける」、これが大事です。ミスをしたところとか、下手なところ、悪いところをいうのは、誰でもすぐ気がつくものです。でも、いいところとか、個性的なところを見つけるのは案外むずかしい。「いいところをみつける」とは、つまり聴く力と言っていいでしょう。これを身につけるように意識していれば、何かが見えてくるはずです。聴く力は必ず歌う力につながります。」p.178
・「音楽にかぎらず、日本の文化のあり方の問題点と思うのは、ごく限られた専門家というか、エリートをつくるのに熱心で、広がりについて無関心だということです。広がりがなくては、頂点の高さも本物ではない。ですからわたしは、何よりもまず、コーラス好きを増やしたいと思っています。(中略)こんなにいい歌があったのか――そう思ってもらえること、それがすべての原点だとわたしは思っています。」p.185
・「わたしの言いたいことは、「合唱ってこんなに楽しいんですよ」ということに尽きます。合唱の楽しみ方は人それぞれ、いろいろなかたちがあるのですから。」p.189
ところで、抜粋の最初が”序文「小澤征爾より」”で始まっており、ずいぶん長い序文だなぁと思って読んでいたのですが、途中から本文なのですね。ページ数がギリシャ数字までが序文で、アラビア数字からが本文ですか。
なかなか面白い本なので、興味があれば是非手にとってみてください。