私が気になった点は,CJDの発症前診断,もしくはごく早期に診断ができた場合,「告知」をどうするべきかという問題である.つまり本人に病名を伝えるか,伝えないかということだ.通常,CJDの診断はある程度症状が進行してから行われるため,認知症は進行し,本人にCJDであることを告知するタイミングを逸していることが多い.しかし本例ではどうであろう.主旨がことなるため論文中に告知についての記載はないが,おそらく主治医はこの点で非常に苦悩をしたものと思われる.私も過去に,認知機能が保たれている発症早期に頭部MRIにて診断ができたCJD患者さんに遭遇したことがある.「極めて短時間に,思考も記憶も人格も意識もすべて奪われ寝たきりになる病気であり,かつ治療法もない」という過酷な内容を告知すべきか,すべきでないのか?
自分を患者さんの立場に置き換えてみると,若かったころには告知してもらいたくないと考えたと思う.耐えられず大きく取り乱す可能性も高い.しかし現在の自分であれば,告知してもらい,残された僅かな時間を,家族や友人に何かを残すために使いたいと思う.つまり自分自身であっても年齢や状況によって考えが変わりうる.まして他者である患者さんを自分のものさしで測れる自信はない.どうすればよいか?当時,相談させていただいた臨床倫理コーディネーターの第一人者の先生とのやりとりを経て,自分なりに考えたことを参考までに記載したい.
まず大切なことは,患者さんには病名を「知る権利」も「知らないでいる権利」もあることを認識することだと思う.「知らないでいる権利」を保障するためには,本人が「知りたい」かどうか,そうであればどの程度知りたいのかを少しずつ確認する作業が不可欠である(非常に難しいことだが・・・).その際,本人から「知りたくない」という意思表示があれば告知は行うべきではない.
また「病前性格」を理解する努力も重要である.これは通常,家族から情報を得る.一般の病気では,患者さんのプライバシーや財産管理などの権利を護るために,患者さん本人に説明をし,家族から先に説明をしないことが普通と思う.しかし,今回のようなケースでは,家族が先のほうが良いように思われる.ストレスに弱く,真実を知ることに耐えられない病前性格であれば告知しないという選択肢もありうる.また家族への配慮も極めて重要で,あとになって「告知しておけば良かった」,反対に「告知しなければ良かった」と大きな後悔の念が残らないように,タイムリミットは短いながらも十分に考えていただく必要がある.グリーフケアの立場からもこの点はとても大切である.
そして患者,家族が告知を望んだ場合にはどうすべきか.厚労省研究班の編集した「プリオン病と遅発性ウイルス感染症」という本があるが,そのなかの「患者・家族に対する心理的支援」という章では,「心理支援の真の目標は,不安や心痛の解消ではなく,不安や心痛をいだいている自分を否定せず受け止められるように心理的適応を促す」ことであることを強調している.そのためには十分な情報提供が大切であること,多くの職種が関わる必要があることは言うまでもない.
さて最後に「告知」という言葉について述べたい.この言葉はなにか冷たい響きを感じる.相手への配慮を考えることなしに一方的に伝えようとするニュアンスが汲み取れるからであろう.病名を「知らせる」行為は両方向の対話でなければならない.非常につらい作業ではあるが,哲学者の清水哲郎氏は「医療現場に臨む哲学」のなかで以下のように述べている.「この世を去る悲しみ,場合によっては志半ばにして働きを断つ無念さは当然としても,それと共に死を受け止める姿勢をも持ちうる人間の可能性を信じてみてはどうだろう」.私もその可能性を信じてみたい気持ちが強い.
プリオン病と遅発性ウイルス感染症 (プリオン病に関するモノグラフとしては現在最良)
医療現場に臨む哲学 (医療における哲学を学ぶのに適したとても分かりやすい本)
自分を患者さんの立場に置き換えてみると,若かったころには告知してもらいたくないと考えたと思う.耐えられず大きく取り乱す可能性も高い.しかし現在の自分であれば,告知してもらい,残された僅かな時間を,家族や友人に何かを残すために使いたいと思う.つまり自分自身であっても年齢や状況によって考えが変わりうる.まして他者である患者さんを自分のものさしで測れる自信はない.どうすればよいか?当時,相談させていただいた臨床倫理コーディネーターの第一人者の先生とのやりとりを経て,自分なりに考えたことを参考までに記載したい.
まず大切なことは,患者さんには病名を「知る権利」も「知らないでいる権利」もあることを認識することだと思う.「知らないでいる権利」を保障するためには,本人が「知りたい」かどうか,そうであればどの程度知りたいのかを少しずつ確認する作業が不可欠である(非常に難しいことだが・・・).その際,本人から「知りたくない」という意思表示があれば告知は行うべきではない.
また「病前性格」を理解する努力も重要である.これは通常,家族から情報を得る.一般の病気では,患者さんのプライバシーや財産管理などの権利を護るために,患者さん本人に説明をし,家族から先に説明をしないことが普通と思う.しかし,今回のようなケースでは,家族が先のほうが良いように思われる.ストレスに弱く,真実を知ることに耐えられない病前性格であれば告知しないという選択肢もありうる.また家族への配慮も極めて重要で,あとになって「告知しておけば良かった」,反対に「告知しなければ良かった」と大きな後悔の念が残らないように,タイムリミットは短いながらも十分に考えていただく必要がある.グリーフケアの立場からもこの点はとても大切である.
そして患者,家族が告知を望んだ場合にはどうすべきか.厚労省研究班の編集した「プリオン病と遅発性ウイルス感染症」という本があるが,そのなかの「患者・家族に対する心理的支援」という章では,「心理支援の真の目標は,不安や心痛の解消ではなく,不安や心痛をいだいている自分を否定せず受け止められるように心理的適応を促す」ことであることを強調している.そのためには十分な情報提供が大切であること,多くの職種が関わる必要があることは言うまでもない.
さて最後に「告知」という言葉について述べたい.この言葉はなにか冷たい響きを感じる.相手への配慮を考えることなしに一方的に伝えようとするニュアンスが汲み取れるからであろう.病名を「知らせる」行為は両方向の対話でなければならない.非常につらい作業ではあるが,哲学者の清水哲郎氏は「医療現場に臨む哲学」のなかで以下のように述べている.「この世を去る悲しみ,場合によっては志半ばにして働きを断つ無念さは当然としても,それと共に死を受け止める姿勢をも持ちうる人間の可能性を信じてみてはどうだろう」.私もその可能性を信じてみたい気持ちが強い.
プリオン病と遅発性ウイルス感染症 (プリオン病に関するモノグラフとしては現在最良)
医療現場に臨む哲学 (医療における哲学を学ぶのに適したとても分かりやすい本)
ある家庭では子供、孫全員が遠方から集まって食事会をして、その3週後に食事摂取困難で入院、PSDが顕性化しました。1年あまり入院しました。
厳しい告知を早くしたことが家族に受け入れられよかったと思いました。
最近,「死とはそのひとの人生が短期間にintegrateされて出てくるもの」と本で読みましたが,その人の死イコール人生をいかに支援できるか,悩みながら考えていきたいと思います.