■ 「ギルティクラウン」は何故つまらないのか? ■
今期のアニメ「ギルティクラウン」は残念な作品です。
「戦いに巻き込まれて当惑しながらも、人間として成長する」物語は、
ガンダムを初めとしてアニメにおける「ビルディング・ストーリー」(成長物語)の基本です。
「ギルティークラウン」の主人公の戦いも、「事件に巻き込まれた」事で始まります。
東京で発生した謎のウィルス「アポカリスク」は人を結晶化させます。
日本は存亡の危機に陥りますが、アメリカ軍を中心とする超国家組織GHQの支援の元、
どうにか国家を維持しています。
一方、治安維持や感染拡大を防止する為に、人命を軽く扱うGHQに反抗する勢力もあります。
それが「葬儀社」と呼ばれるグループです。
「葬儀社」はGHQからある物を盗み出します。
それは、人の心の内面を物質化するゲノム兵器「ヴォイド」です。
人との交わりを苦手と感じている高校生の「桜満 集」(おうま しゅう)は、
「ヴォイド」を奪って逃走途中に負傷した少女、「楪 いのり」(ゆずりは いのり)を助けます。
「葬儀社」のリーダーである「恙神 涯」(つつがみ がい)は、
「ヴォイド」の力でGHQに対抗しようとしたのです。
ところが、「ヴォイド」の力は、一介の高校生である「集」に宿ってしまいます。
「戦う目的」を持たない「集」は当惑します。
しかし「いのり」を守りたい一心で「集」は葬儀社のメンバーとなり、戦いを選択します。
ここまでの流れは、「ボーイ・ミーツ・ガール」と
「巻き込まれ型主人公」の基本に忠実です。
ところが、どうも「集」が全く煮え切らない。
彼の世界は「僕と彼女」の関係の外へは広がりません。
「葬儀社」のメンバーとの間に厚い信頼も無く
いつまでたっても「物語の中心」になれないのです。
「集」は確かにGHQの暴力に怒りを覚えます。
しかしそれは、行動の動機に発展する事はありません。
「ヴォイド」の力は友人の本心を知る事にも役立ちますが、
それによって「集」と友人の距離はむしろ広がってしまいます。
人間が他人に見せない本心を知ることになるからです。
そんないつまでも物語の隅っこで佇む主人公が、
実は物語の中心である事が1クール目のラストに判明します。
・・・それで主人公が変わったかと言われれば??です。
2クール目は舞台を学園内に限定して描かれます。
アポカリスウィルスの拡散を防ぐ為、東京の中心部は封鎖されます。
「集」の学校も封鎖地域にあり、家に返れない学生たちは、
学校に集まって生活する事になります。
葬儀社のメンバーである少女二人も学校に潜り込みます。
ここに至って初めて話が躍動し始めます。
これまでひたすら序章を演奏していた楽曲が、
初めて主題を奏でだしたといった感じです。
この変化は「ヴォイド」の能力の変化によってもたらされます。
本来「ヴォイド」を取り出された人は、その間の記憶を失います。
ところが、「ヴォイド」を人々が自ら認識し、さらに自ら使える様になったのです。
これは、人が自分の心と向き合う事を意味します。
この変化によって、「集」と人々との間に新たな関係性が成立します。
「集」は人々の潜在的欲求の解放者として感謝される存在となるのです。
そして、「集」は生徒会長とし初めて自主的な行動を取るようになります。
やはり学生が主人公のアニメは、子供達の生活が描けなければ話はドライブしません。
葬儀社のメンバーも、年齢相応の「学園」において初めてイキイキとしてきます。
ところが、その「学園」生活は一瞬にして崩壊します。
幼馴染が命を落とした事で「集」は独裁者の道を選択するのです。
「学園」は「楽園」から「監獄」に変化してしまいます。
せっかくストーリーに生まれていた明るいトーンは、
一瞬にして暗転してしまいます。
そして、今週は決定的な裏切りと決別が訪れます・・・。
■ 人は何故アニメを見るのか ■
攻殻機動隊の押井守の事務所プロダクションI.Gのオリジナルとして
期待の高かった作品ですが、ネットでも批判的な意見がほとんどです。
キャラクターデザインはredjuice(れっどじゅうす)が担当し、
クオリティーは相当なレベルです。
なのに人気が無いのは何故なのか・・・。
それは、登場人物に感情移入出来ない事に原因がありそうです。
人は何故アニメを見るのかと言えば、その主な理由は「現実逃避」です。
アニメの主なターゲットは高校生以下の子供です。
彼らの多くは内向的です。
昔のアニメの主人公は「ガキ大将」でしたが、
現代のアニメの主人公は「内向的なイジメラレッ子」がほとんどです。
そんな冴えない主人公が思いがけず異能の力を手にしたり、
あるいは異能の力を持つ女の子が天から降ってきて、
これまでの生活が一変し、イジイジした自分から解放される・・。
これが現代アニメや漫画の王道ストーリーです。
この傾向はガンダムから始まり、エヴァンゲリオンでジャンルとして確立します。
ただ一般のアニメが子供達の安直な願望を映像化するのに対して、
エヴァンゲリオンは、それでもオマエラは弱虫だと言い放って終わるので、
凡百のアニメとは違う地平にそびえています。
「ギルティクラウン」を子供達が拒絶するのは、
主人公が能力の使用に「納得」していないからではないでしょうか。
「いのり」を守る為に「力」は欲しいけれど、
人の心を盗み見るような「ヴォイド」の力には負い目を感じている。
だから「力の使用による解放感」が得られないのです。
■ アニメとカタロシス ■
この傾向は、プロダクションI.Gの作品に共通したものかも知れません。
押井守の「スカイ・クロラ」もそうですが、「救い」が用意されていないのです。
文学作品には「救いの無い」名作が数々存在します。
「圧倒的な負の感情」は人に救済を与えると言います。
「カタロシス」という言葉の語源はギリシャ語で「下痢」です。
アリストテレスは「悲劇」の効用として、「カタロシス」を挙げています。
「抑圧された心が解放される」快感を「下痢」になぞらえたのです。
アニメというジャンルを見渡した時、
圧倒的バットエンドによってカタロシスを得るような作品はほとんどありません。
破壊的悲劇の後にも、必ず救済が用意されています。
そう思って検索したら、こんなページを見つけました。
「バッドエンド・アニメ一覧 」
http://www.anime-index.com/news/badend.php
AMON デビルマン黙示録
機動戦士Ζガンダム
伝説巨神イデオン
フランダースの犬
ぼくらの
火垂るの墓
School Days
「デビルマン」の原作は衝撃的でした。
永井豪はバットエンドによるカタロシスの代表作家かも知れません。
「Zガンダム」も主人公が発狂して終わるというショッキングな作品ですが、
あれは制作サイドの圧力に反発する冨野監督の嫌がらせとも言えます。
「イデオン」は宇宙規模の皆殺しが慣行されます。
但し、その直後に宇宙規模の救済が行われます。
(この作品は、日本アニメの金字塔でしょう。監督は冨野です)
「フランダースの犬」は元が文学ですが、カタロシス効果で目から涙が止まりません。
「ぼくらの」も救いの無い話ですが、最終話で視聴者は救いを得ます。
これは近年のバッドエンドの最高傑作かもしれません。
「火垂の墓」は、実は見た事がありません。
TV放映はいつも見逃してしまいます。
でも劇場予告ではずい分泣かせていただきました。
「Sochool Days」は放送中止になった伝説的なバットエンドアニメですね。
見ていないので・・・。
ここに「エヴァンゲリオン」を加えても良さそうです。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」も皆殺しアニメでした。
話が大分本筋から外れてしまいましたが、
「ギルティクラウン」が一発大逆転を狙うとすれば、
「凄惨なバットエンドがカタロシスに昇華する」作戦しか無いように思われます。
■ 「コードギアス」は「ギルティークラウン」の対極にある ■
ここまで読まれた方の多くは、(ここまで読んだ人は少ないって?)
冒頭の画像が「ギルテシクラウン」だと思われた方が多いと思います。
実は冒頭の画像は「コードギアス」という数年前の作品です。
「コードギアス」は予想を裏切って大ヒットしたアニメです。
皇暦2009年 日本は大帝国ブリタニア皇国の植民地と化しています。
日本は国名すら奪われ、首都の中心部はブリタニア国民の居住地となっています。
アッシュフォード学園に通うルルーシュはブリタニア国王の子供ですが、
その事実を隠して、目の見えない妹ナナリーと普通の学生生活を送っています。
ところがある日、レジスタンスが強奪した「ある物」と遭遇します。
その「ある物」とは緑の髪の美しい美少女。
彼女はルルーシュにある力を与えます。
それはルルーシュの目を見た状態で、彼に命じられると、強力な催眠に掛かる力です。
これが「ギアス」の力です。
ルルーシュはこの絶大な力を用いて復讐を誓います。
母を殺し、極東の島国に自分たち兄弟を放逐した、王族達に対する復讐を。
ただ「ギアス」には能力の制限があります。
それは一人の人物には、一回しか有効でない事です。
ルルーシュは頭脳明晰です。
状況と人物に応じて、最適の暗示を相手に与え、
レジスタンスの覆面のリーダー「ゼロ」としてブリタニアに反旗を翻します。
■ 政治的な匂いがプンプンするのに、学園ドラマとしても魅力的 ■
「コードギアス」は制作サイドの予想を裏切り大ヒットします。
一回しか有効でない「ギアス」をどう使うか、知的スリルに溢れた作品であり、
「復讐劇」という強い柱を持った作品であり、
登場人物の一人一人が敵を含め、非常に魅力的な作品であり、
アメリカ一極支配の世界構造を強烈に風刺した作品であるからです。
そして何よりも学園ドラマとして楽しい作品でした。
ルルーシュは学園では「ゼロ」であり「ブリタニアの王子」である事を隠しています。
学園はルルーシュと妹ナナリーの安息の地なのです。
ところが、クラスメイトの女子はなんとレジスタンスのメンバーです。
さらには、日本人でありながらブリタニア軍に所属する友人までが転校してきます。
ルルーシュと美少女レジスタンスと幼馴染の少年は、
それぞれ正体を隠して送る学園生活は見ていてスリル満点です。
■ エンタテーメントに徹して成功した ■
「ギルティークラウン」と「コードギアス」は良く似た構造を持ちながら、
視聴者に与える印象は180度異なります。
「コードギアス」はとにかくエンタンテーメントに徹しています。
監督の谷口悟朗は高橋良輔の弟子です。
高橋良輔は「太陽の牙だグラム」や「装甲騎兵ボトムズ」をで知られるように
政治色が非常に強い作風で知られています。
近作の「ガサラキ」では、アメリカに対抗するため、
「アメリカ国債の売り浴びせ」まで作中で行ってみせます。
TVはアメリカに従順ですが、アニメは例外の様です。
これは共産党支配の旧東側陣営で、SFが体制批判の隠れ蓑に使われた事に似ています。
「コードギアス」は「ガサラキ」へのオマージュの様な作品で、
エンタテーメントの仮面の下に「ガッチガッチの反米感情」を隠しています。
ところが、そんな政治的な内容までも徹底的にエンタテーメントに昇華させています。
だからネットにはこんな素晴らしいパロディーまで生まれています。
人間の「負」の側面を鬱々と描き続ける「ギルティクラウン」が支持を得られず、
「負」をエンタテーメント化した「コードギアス」が支持される所に、
若者の支持を得るための政治の手法のヒントが隠されているのかも知れません。