(↑わたしが描いた絵手紙を送った教会の友人から、返事が来ました。そこに同封されてたのは、手作りのレースの十字架!栞として使えますね。素敵!)
マタイによる福音書28章1節〜10節
28:01 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリア
ともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:02 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を
わきへ転がし、その上に座ったのである。
28:03 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:04 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:05 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイ
エスを捜しているのだろうが、
28:06 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさ
ったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:07 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の
中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:08 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たち
に知らせるために走って行った。
28:09 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、
婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに
ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
4月17日(日)は、イースターでした。
わたしたちクリスチャンにとっては、
クリスマスと並ぶ大きなお祝いの時です。
日本では、東京ディズニーランドのイースターパレードの印象も強く、
「何だか楽しいイベント!」と思っている人も多いのでは。
知識のおありの方々は、
「主イエス・キリストの復活」をお祝いする日だと
認識されてると思いますが、
それでも「死からの復活」なんで、
あまりに「陳腐」と感じる方も多いのではと思います。
けれど、この「キリストの復活」という出来事がなかったなら、
今、世界中にキリスト教会はないと思うくらい、
キリスト教にとっては、
実はとっても大事な出来事なんです。
復活日より三日前、
イエス・キリストは十字架にかけられ、亡くなりました。
その経緯はご存知の方も多いと思います。
罪は全くないのに、
裁判にもかけられることなく、十字架にかけられました。
生前イエスは、ご自分のことを「宗教指導者たちによって殺される、
そして三日目に甦る」と預言していました。
しかし、
そばに始終いた弟子たちはそれを全く気にも止めず、
「そんなことはあり得ない」と思い、
イエスをいさめさえしたのです。
だから、実際にイエスが捕らえられた時、
ペテロはイエスを知らないと三度も言い、
十字架にかけられた後、
弟子たちはローマの追求を恐れ、失意の中で家に閉じこもっていました。
もし、イエスが甦られなかったら、
ただただイエスは
「人のために十字架にかかる」と自分で言っていたペテン師か、
生前多くの人を助けた聖人か偉人か、
一人で思い込んで死んだ気狂いか、
ユダヤの王としてローマにローマに打ち勝ってくれなかった力がなかった人と言うことになるでしょう。
けれど、
3日目の朝、墓は空でした。
さすが宗教指導者たちは、イエスの体を弟子たちが盗んで、
「復活した」というデマを流されないように、総督ピラトに願い出て、
墓の前に番兵を置きました。
しかし、
番兵の目の前で、主の使い(天使)は墓の石をいとも簡単に取り除きました。
番兵らは、目の前で天使の言うことを聞き、
その現実を目の当たりにしたのでした。
そこにきていたマリアなど女の弟子たちは、
天使たちの言うように、
「主はここにはおられない。よみがえられたのだ」と言うことを、
他の弟子たちに伝えに行きました。
その女性たちに、主は復活の姿を現してもおられます。
家の中にこもっていた弟子たちも、
女性たちの話を聞いたり、実際に復活のイエスと出会うことにより、
かつてイエスが預言されていた言葉を思い出し、
神様の救いの計画の中にいる自分を確認したのでした。
そこでイエスの一連の行動の意味を知ったのでした。
ここからこれまでの弟子たちに、
違う一面が出てくることになるのです。
すなわち、
主イエスの復活の出来事がなければ、
弟子たちは失意に沈み、
ただただ悲嘆し、それ以上の何もは起こらなかった。
復活の主イエス・キリストと出会ったことは、
弟子たちにとって、
神の救いの計画の中に自分達がいて、
主の救いが着々と進んでいると言うことを
身をもって知る出来事になったのです。
イエス・キリストの復活は、
人の考えの中ではあり得ないことで、神の領域のことです。
聖書に書かれていることを信じるか信じないかは、
その人に委ねられています。
聖書によると、イエス・キリストは死んで黄泉に下り、
死に打ち勝って復活されました。
死はもともとわたしたちの罪の結果であり、
泥沼のようにわたしたちを飲み込む存在でした。
ところが、イエスが死に勝利されたことで、
「死」は、新たな世界「天国」への入口となりました。
だからキリスト教会でのお葬式は、
そばに居なくなったことでの寂しさはあっても、
悲しくはないのですね。
死に勝利されたイエスによって、
死の先に、
「神のみ元で憩うことのできる道」をわたしたちは見ているわけです。
だからこそ、
今は還暦を迎えたまんじゅう顔ですが、
年齢を重ねるごとに、
クリスマスよりもイースターの重みがどんどん増してきているのを強く感じています。
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