さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

円安のおかげさまで

2023年08月16日 | らくがき

夏の旅行シーズンなので、海外に出かけた友人からの報告が来る。チェコのプラハ、トルコのイスタンブール、英国のロンドンなど、きれいな画像付きで羨ましいぞ。どこも旅行客で混雑しているそうで、もちろん西洋人が多く、東洋からは中国人や韓国人がうじゃうじゃ。日本人だけはほとんど見かけないそうです。何せ円が独歩安で、航空運賃も高けりゃホテルも高い。ざっとこの数年で海外への旅行費用は倍くらいになったみたいだ。行けないよ!

アベシンゾウが「輪転機をフル回転させて金をじゃぶじゃぶに」とか日銀のクロダが「異次元の金融緩和」とか10年以上もやってた結果がこれだ。そりゃあ円通貨を大量に出せば円の価値は下がるわな。日本の商品は外国人から見れば「すべて2割3割引は当たり前!」なんだから、車なんぞの輸出大企業は儲かるだろう(トヨタなんぞはすごい黒字だと聞いたが、その人たちがすごいボーナスもらって、派手に買い物して高い酒飲んでタクシー乗って、みんなにトリクルダウンしたの?)。余ったカネで割安感のある株は上がり、株を持ってる富裕層の資産はすごく増えたようだが、国の借金は天文学的な数字になった。これみんなで、そして後世の人たちが払うの?

日本が安くなったので、外国人が大挙して押し寄せ、札幌のビジネスホテルは一泊素泊まりで2~3万するというし、京都も浅草も富士山も大混雑で不愉快だ。円安になると日本は石油・石炭を輸入するので、電気代も高くなるし交通費も跳ね上がる。食料も自給率が低いので輸入するのに大打撃。つまり物価が上がり生活が苦しくなる。株を持ってる富裕層でもない旅好き酒好きの俺としてはいいことひとつもなくて腹立つんだけど!



前の記事で紹介したアーノルド・ヘンリー・サヴェッジ・ランドーは、蝦夷地一周をはじめ、世界中を旅する冒険家でした。19世紀から20世紀にかけて、大英帝国の繁栄を背景にした通貨ポンドは当時最強でしたから、それを持っていればどこに行っても「物価が安い」と感じただろうなあ、と羨ましく思いました。「親ガチャ」じゃなくて「国ガチャ」というわけで、その頃に英国人に生まれたら自動的に金持ち!

ほぼ同時期、1900年に夏目漱石は国費による英国留学をしていますが、あまりにも物価が高くてロンドン大学の聴講を途中で止めて、飢えをしのぐために安いビスケットをかじったりしています。また第一次世界大戦による戦争景気で余裕のあった大阪の摂津酒造は、1918年に優秀な若手社員の竹鶴政孝をスコットランドに留学させてウィスキー造りを学ばせますが、竹鶴はグラスゴー大学の教授に要求された蒸留所への紹介料が高くて払えないし、貧乏して住んでいたところは安い下宿でした(そこの娘さんリタと結婚するわけですが)。

でも国ガチャに恵まれたランドーだって、けっこう苦労もしたんです。日本漫遊のあと、朝鮮、中国、オーストラリアの大旅行を終えて生まれ故郷のフィレンツェに帰り、それからロンドンに滞在中、彼に肖像画を描いてもらいたいという人々、大冒険の話を聞きたいという人たちに囲まれて、彼は時代の寵児となって忙しい日々を送っていました。そんなとき、オーストラリアに端を発する恐慌がロンドンの多くの銀行を破綻させ、突然彼の財産はポケットに入っていた2ポンドだけという状態に陥った。まさに青天の霹靂で文無し!彼に肖像画を描いてもらった人たちもみんな破産したので料金を払ってくれなかった。突然、彼は1日1食の生活に陥ってしまったのでした。

そんなとき、彼は日本の蝦夷地を旅したときのアイヌ人との交流を本にしようと執筆を開始しました。英語が母語とはいえ、何カ国語も学んできて本はほとんど読んだことがないので文章を書くのには大変な苦労をする。部屋にこもって何日も昼夜それに没頭し、最後は7日間ほぼ眠らずに完成させたときには、バタリと横になって50時間眠り続けた。所持金は底をつき、暖を取れないので凍える部屋で眠っていると、午前4時、突然「すぐに外に出ろ!」という声に叩き起こされた。なんと建物が火事になったのだ。

外に出ると住民はみんな寝間着で立ち尽くしている。マイナス12度のなかランドーは裸足で、日本で手に入れた魚の絵が描かれた浴衣1枚だった。やっとの思いで完成した本の原稿は部屋にあったので、取りに行こうとしたが消防士が許してくれない。建物は炎に包まれようとしている。持ち物全部、それまでに書いた沢山の絵、書いた本の原稿、ノート、すべてが失われようとしていた。あまりの寒さに消防のホースが凍りついて水が出ないではないか。

ここまで読んで、あるとき私のパソコンが壊れて半年分のノートや原稿が失われ、母親と最後の旅行となったときの画像も消えたとき、まさに絶望的な気分になったのを思い出しました。でもそれはランドーよりましだったんだなあ。

朝7時に火事は鎮火し、幸いなことにランドーの部屋は煙で黒く燻されただけで所持品は残っていた。おかげさまで私もそのときに助かった原稿の『毛深いアイヌの土地にひとり行く』を読めたわけです。その後は絵の注文も増え、なんとヴィクトリア女王に宮殿に招待されて冒険の話をしたり絵を見せたり。王室の人々との交流が始まったのでした。

国ガチャに恵まれたランドーも、山あり谷ありの人生でした。私もいま国の状況に不満を持っているけれど、かつて円高の恵まれた時代を享受できたときもあったのだということに感謝するべきだろうと若干反省。1ドル80円、1ポンド130円なんて円高だった時代があったのも、俺の努力の結果ではなくて高度成長期にものすごく働いた人たちの総合的結果。いまの悲しい現状も、それを思い出しているにすぎないというわけか?

海外旅行はしばらく我慢。国内旅行も高い8月は見合わせ。しばらくは部屋で充電することにしましょうか。


読書に映画につらつらと

2023年08月07日 | らくがき

アーノルド・ヘンリー・サヴェッジ・ランドー(1865-1924)の『あらゆるところに:とある探検家の思い出』(1924)を読んでいます。御本人が亡くなった年の出版ですから、探検家として生きた自分の人生を振り返った記録、すなわち自伝です。彼の本職は絵描きだったのですが、旅から旅への人生でした。その本の目次を見ると、百年ほど前に、生まれ育ったイタリアのフィレンツェから父の祖国である英国、それからオランダ、スペイン、モロッコ、マルタ、エジプト、米国、カナダ、日本、朝鮮、中国、ロシア、インド、オーストラリア、チベット、ペルシャ、フィリピン、エチオピア、スーダン、コンゴ、チャド、パナマ、ブラジル、ペルー、ボリビア、チリ、まだまだいろんな国々、地名が出てきます。そしてその訪れた地で様々な人にも会っている。日本に来たときには第2代首相の黒田清隆に会って、その夫人の肖像画も描いているし、米国に行ったときにはホワイトハウスでルーズベルト大統領に面会しているし、フランスではソルボンヌで大統領も出席したところで講演、祖国の英国ではヴィクトリア女王に招待されて旅の話を披露しています。彼の人生を大河ドラマにしたら、そのシリーズは何年もかかって壮大なロケになるでしょう。あまりにもすごすぎて「ほんとかよ」と信じてもらえないような話になるかも。

ランドーが日本に来たときには、横浜港に到着して東京に行き、日光や箱根を訪れ、それからお決まりの京都、奈良に行って、大阪でんがな名古屋だがね~。そのあとは東北に向かって蝦夷地をぐるりと一周したのです。北海道の旅日記は『毛深いアイヌの土地にひとり行く1893年)に詳しく書かれており、以前にこのブログでも「ランドーの冒険記」で紹介しました。https://blog.goo.ne.jp/sakichi21/e/5a43dfb8c9435d6810ef3cfcfb659239 

さてこれからご紹介するのはその日本を出たあと、大陸に渡ってからの話です。ランドーは1890年(明治23年)、長崎から五島、対馬を経て釜山へ渡りました。そこからは陸路ですが、ソウルに到着したときは門が閉まる直前。その時代は夕刻に鐘が鳴ると、一晩中門が閉まり、町に入ることはできません。中世のヨーロッパみたいですね。その門は死人しか通過できないので「死者の門」と呼ばれていたそうです。

日本の明治時代の朝鮮は、ランドーによればほとんど他国に知られていない未知の国でした。儒教の影響が強い男尊女卑の文化は今でも名残りがありますけれど、その時代に実際に目にした外国人のレポートは生々しいものがあります。(ちなみにランドーは当時日本の首相だった黒田清隆が、最初の妻をオセロみたいに「嫉妬で」首を切ったと聞いて驚いていましたが)

ここから引用します。

朝鮮では女性は隔離されていて、滅多に見ることはない。もし見かけても常に白か緑のフードで顔を隠している。男みたいなゆったりしたズボンをはき、短い上着で乳房を出している(ええ?!)。私が女性を通りで見かけると、ドアの中に入って隠れてしまう。毎度たまたま女性たちが自分の家の前を通っているときに私が見かけるのも変だなと思ったら、あとでその謎を説明された。どの女性も、男を見かけたらどの家でも入っていいことになっているのだ。特にその男が外国人だったときには。もうひとつ女性には特別に許されていることがあった。彼女らは男に会う心配がなければ、友人や親せきに会うために夜に外を歩くことが許されていたのだ。男たちは、一年に5回だけはのぞいて、暗くなってからは家にいなければならなかったのだ。でもそれは女性の特権と言えるかどうか。ソウルの通りは、人通りがなければ餌を求めて徘徊する虎や豹に出くわす危険が常にあったのだから。そういうわずかな利点を除けば、朝鮮の女性たちは憐れなものだ。彼女たちは自分たちの土地では無に等しい存在で、名前さえもない。女性は誰それの娘とか、妻とか妹、というだけの存在だった。

誰それの娘、誰それの妻というだけで名前がなかったの?人に見せちゃいけなかったの?イスラム教の原理主義では女性はヒジャブで髪どころか目以外は隠せ、と言ったり、タリバン政権下では女性は男性の連れなしには外も出歩けないとか聞いたが、それより徹底してないか?「冬のソナタ」の国でも、100年前はそうだったの?

小栗康平監督の映画『泥の河』を観たらとてもよかったので、続けて『伽倻子のために』を観ました。(南果歩さんのデビュー作で可憐な女学生!)戦後の在日朝鮮人青年と少女の愛と別れを描いた作品です。そこで在日朝鮮人の住む地域で少女たちが遊んでいる場面があり、シーソーがあるのですが、子供が両端に座って上下するのではなく、立って代りばんこにジャンプするのです。そこで横にいた老女が「昔はこの遊具で飛び上がり、そのときだけは壁の向こうの外が見られるので楽しみだった」と語ります。つまり本当に外に出られなかったんだ!


昼間に混んでいる電車に乗って渋谷のスクランブル交差点を歩いたが、もちろん半分は顔を出した女性。女は男の所有物で、顔を出せない、勝手に外を歩けないなんて考えられないよねえ。「男女平等」とか「人権」「自由」とかいった言葉が浮かびます。今の時代で、自由が保障された国に生まれてよかった。。。

いやそれでも制限はあるよ。先月アイルランドで行われた女子格闘技の試合後に、勝った選手が胸をポロリと出して無期限出場停止の処分を受けました。



男子サッカーでは、ゴールした選手がシャツを脱いで上半身裸になってもイエローカードだけだよね?こういうとき、フェミニストはお得意の「差別だ!」とか怒らないの?リング上で胸出したって、卑猥でも何でもなくて、大相撲を見たときと変わらねーぞ。これだって言われてみれば、「女は隠せ」という文化である。「目にした人に不快感を与える」という論法なら、むしろときには相撲のほうが見苦しかったりするではないか。NHKどうよ?!

つまりは文化の違い、そのときのテキトーな世論や政治家、裁判官の恣意的な考えによる五十歩百歩な判断で事が決まっているわけだ。どこかで線を引かなきゃカオスになるというのもわかるが、「自由は人に迷惑をかけない限り」という制限は、常に人権侵害ぎりぎりだっていうことを忘れちゃいかんということなんだろうなあ。