テレビの国会中継で、修羅場が演じられていました。
質問者「~してませんね?」
政治家で一番偉いとされる人「~してません!」(堂々と)
質問者「~してませんね?」
官僚の偉い人「~してない、と思う…」(おどおどして)
答えた人は、どちらも明らかに嘘をついているように見えました(司法的には証拠が出ない限り「疑わしきは罰せず」ですが、ここは私の主観的印象です)。
前者は思考していない人に見えましたが、後者は嘘をつけない人に見えました。結果的にどちらも嘘をついたわけですが、前者はしばしば社会的競争に勝ち抜いて良心の呵責に苦しむことなどなく邁進し、後者は精神的葛藤に苦しんだりします。
ここで思い出したのがソクラテスの「自らの自己と対立しているくらいなら、世界の全体と対立しているほうがましだ」という言葉です。人間の中に白い天使と黒い悪魔がいて、ささやいてくるイメージを思い浮かべて下さい。理性と感情というか、良心と欲望というか、そのせめぎあい。まあそれが「思考する」ということで、先ほどの「~してない、と思う…」と答えた人は、思考を停止して「してません!」と言い切れなかったのですね。どうせ嘘をつくなら、堂々と相手の目を見つめて断言すればよかったのに、それができなかったと。
自分を裏切って、一時的な感情に流されて欲望の赴くままに短絡的な行動をとってしまうことがあります。そして後悔するわけだ。困ったことに「自分のなかの自分」は他人ではないので、ずっとつきまとってくるから始末が悪い。だからソクラテスは、「悪いことをやってバレないで済むより、やってもないことで罰せられるほうがましだ」と言ったのです。白い天使は自分の化身ですから消えることはなく、殺そうとしても死なない。そんなのを抱えて生きるのが何よりつらいだろうよ、というわけですね。私はたまに、自分が過去にひねりつぶした白い天使を見て、ワー!っと叫びたくなります。
ハンナ・アレントという人は、「孤独」と「孤立」とは違う、と言いました。思考するには孤独が必要です。あまりに忙しい日々を送っていると、自分の中の自分と対話する余裕が持てなくなります。孤独のなかで自分自身と良い関係でいられるのは幸せだ。たとえ牢獄に囚われていても、もうひとりの自分と良好な関係にあり、すなわち自分自身に苦悩を抱えることがなく、世の中に自分の無実を信じている人がいれば、それは「孤立」ではない。ひるがえって、強大な権力と多大な富を手にしても、精神的な孤立状態にある人は、どんな心境なのだろう?
テレビのなかでも実生活でも、思考しない、自分の中の自分と対話をしない人がいると、嫌悪感を覚えるし、対処には途方に暮れるしかない。アレントさんは、そういう人は「避けるしかないでしょ」と言うので、私は少し気が楽になりました。「~してない、と思う…」と見苦しい嘘をつかざるを得なかった人、もしかするとずっとそんな自分に苦しむかもしれませんね。でも苦しんでいる限りは「孤立」しませんよ。なぐさめにはならないけど。