右側の長~い建物が、私が住んでいた寮です。奥の大きな木の前あたりの最上階に部屋がありました。ひとつの部屋に、窓ひとつ。まるでミツバチの巣みたいです。
向いは地元のフットボール・チーム、ニューカッスル・ユナイテッドのホームグラウンドです。普段はとても静かですが、試合がある日は大変な賑わい。ちなみにゴールするとものすごい大歓声が湧きあがるので、こちらが何点取ったかわかるのです。
ここに来たのは秋。といっても9月上旬ですが。その頃にはもう落ち葉が猛吹雪のように降り、そして驚くほど積もっていました。そしてすぐに長い冬。ここからうさぎの親子がやってくるのが見えたんですよ(^益^)b
長くて暗い冬が終わり、木々にようやく芽が吹き出したのは4月下旬でした。この北国では、一年の半分以上が冬なんです~(^益^;
やっと春らしい気候になるのが6月です。待ち遠しかった爽やかな季節の到来なんです~^^
本が好きで、個人主義者(仕事嫌いでもいいのだが)であるならば、誰もが一度は憧れる生活、それは監獄生活(是非独房♪)、もしくは長期入院生活(肉体的苦痛は考慮に入れてませんw)ではないだろうか。そんな世の中と隔絶した生活が実現したお話です。
それはとある英国の大学の学生寮でした。小さいベッドと壁にくっついた板だけの机の他は、歩く場所もないような狭さでした。後に訪れた友人は「独房か蜂の巣だ」と言っていました。望むところだったのです。
入学式の二週間前に英国生活は始まりました。毎日本を読みノートをとること以外、することはないのです。あとは監獄よりひどいであろう食事に、一日で計一時間ぐらい費やすことぐらいでしょうか。朝はビスケット、昼にはよくサンドイッチ(英国人の定番)やフライドチキンなどを買いましたが、胸焼けをして食べきれず、残りが夕食になることもしばしばでした。しかし精神的には開放感に浸っていました。
部屋に目覚まし時計はなく、アラーム音から解放されました。携帯電話も持たないので、電子音と離れて暮らしているわけです。したがって毎朝の目覚めは自然な、まるで小さな泡がポッとはじけるような始まりでした。睡眠で中断されても、その前後はずっと同じ時間が過ぎてゆくのです。時計を見ない。何事にも追い立てられることはない。気遣いがない!
睡眠時間はだんだんずれてゆきました。明け方までの読書、それが昼までになり、またさらに…。午後3時に寝て夜の10時に起きたり、夕方に寝て深夜に起きる。ベッドで寝転がって本を読むので、眠くなれば時間を気にせず昼寝をするため、時間もへったくれもないときたもんです。
本と最低限の雑貨を除いては何もない部屋で、日本の生活ではほとんどすることのなかった、午前中の斜めの陽射しのなかでの読書が続いたときのこと。静寂のなかにすっかり浸っている。あまりにも静かであると、聞こえるのは自分のオナラぐらいなのである*^益^*。発泡するミネラルウォーターと(水道水は飲めない)、英国料理の基本である揚げた芋のせいではないでしょうか。読書に没頭していると、再びプッと音が鳴る。そのたびに一時間ぐらい経ったかと思う。なんと平和なことよ。ちなみに時間のみならず、日付まで気にしなくなっていたので、気がついたときには入学式は終わっていました。ぎゃっはっは!
断崖絶壁からしばらく大西洋の荒波を眺め、またとぼとぼと宿に向って歩き出した。今度はゆるやかな追い風だ。馬糞が道に見えても臭ってこない。しかしそいつを通り越すと、その臭いが風に乗って追いかけてくる。行きの向かい風のときは、苦しみは馬糞を通り越すまでであったが、今度は次第に消えてゆくまで長く続く。どちらかというと、追い風のほうが嫌な気分だ。
長い一本道の途中でパブがあった。帰りは寄って一杯やってもいいだろう。実に寂れたところに、2~3人の客がいた。日本人が入ってゆくと、全く場違いの雰囲気だ。見たこともない異邦人の突然の到来が、何百年も(?)常に変わらないそこの空気を乱してしまったようだ。何世代も前の人間だと言われても信じたくなるような風貌の老人がいる。その人は仲間を見つけて話し出したが、それがアイルランドにごくわずかながら残っているゲール語であった。まるっきりわからない不思議な音声だった。
隣のテーブルに座っていた老人は、ハーフパイントのグラスでエールをひとり飲んでいた。2杯目もハーフパイントで注文している。ハーフを2杯より、1パイントを飲んだほうが安くあがるだろうに、と不思議に思う。その老人の知り合いが入ってきたので、並んで座ろうとその老人はよたよたとカウンターに歩いていった。
新参者がその老人におごろうとすると、老人は「ハーフで頼む」と念を押して繰り返す。すると突然「ステッキがない!」と騒ぎ出した。さっき本人が座っていたテーブルを見てくれと我々に声をかける。こちらのテーブルにはない…。
「ないないない!」とジイサンが騒いでいたら、いま座っている席にあるじゃあないか…。考えてみれば、杖なくしてカウンターに移動できないだろうに^^; 日本語がわからないのをいいことに、横にいた友人が「あのジイサン、半分以上shinでますね」とつぶやく。そのとき老人を見て、なぜハーフばかりを飲むのか理解した。1パイントグラスは大きすぎて、彼には持ち上げられないのだ。
こういった年齢の老人たちの人生は、シングの見た時代にわずかに重なっているはずだ。やはりカラハに乗って海に出た若い時代があったのだろうか。その老人と、地球の反対側から高度1万メートルを飛ぶジェット機に乗ってやってきた日本人とがこのパブで会った。近代科学が生み出した高速の乗り物は、時間を越える旅も可能にするのである。
いよいよ絶壁に到着した。高さ100mは優に超える断崖だ。垂直どころではなく、上の部分が前にせり出している。(突然ガラガラと一部分が崩落することはないのか?)何人か人がいて、若者がうつぶせになって崖から顔を出し、下をのぞいている。落ちるやつはいないのだろうか。俺も勇気を出して、ほんの少し顔を出してみる。はるか下方では、波が岩に打ち寄せ、白い泡となって砕けている。落ちるのにはいったい何秒間かかるだろうかな、なんて想像して、吸い込まれてゆくような気持ちになってしまうw(゜゜)w
小船が一艘浮かんでいるのが見えた。漁でもしているのだろうか。大西洋の荒波に翻弄され、濁流のなかの木の葉のように激しく揺れている。あれほど縦になったり横になったりして、よくも浮いていられるものだなと感心する。そしてシングの描いた100年前のアランの生活を思い出した。
ながい間、島民は「カラハ」と呼ばれる小船を使っていた。それは木の骨組みに麻布や牛皮を張って作られたものだ。岩場だらけのアラン島では木材がないので、流木を使用したりしたとか。そんなもので、あの大西洋の荒波に出て行ったのかと思うとゾッとする。まだサビついたオンボロプロペラ機のほうがましというものだ。シングは度々そのカラハに乗った。その情景描写を紹介しましょう。
昨日乗ったのは、キルナロンへ行ったときに破損したカラハだった。新しくタールを塗って繕ったところが日光で熱した船卸台に付着した。われわれは「カピーン」といってスープ皿のような木の浅い器で水を掻き出し、いろいろ苦心の末、やっと心配がなくなり乗り出した。しかししばらくすると、足元に水が噴き出しているのを発見した。繕いの場所が間違っていたのだ。今度は麻布がない。マイケルは私のポケットハサミを借りて、驚くほど手際よく自分のシャツの裾からフランネルを四角に切り取り、オールから切り取った木片にしっかり結びつけて、その穴へ押し入れた。
こんな騒ぎの間に、われわれは岩の縁まで潮に流されていた。すると彼はオールを水に入れて、波に乗るように向きを変えた。さもなければわれわれは波に投げつけられて沈んでしまったことだろう。
麻布で作られた船底に穴が空いて、そこから水が噴き出してくるのを木のヒシャクでせっせと掻き出す。公園の池ならまだしも、激しい潮流と荒波が踊り狂う外洋ですぞ。
瀬戸には非常な潮流が流れていたので、島陰から出ると、激しく揺れたり跳び上がったりした。ある瞬間、われわれは谷底に下って行くと、緑色の波が頭上に渦巻いてアーチを描く。するとたちまち空中に跳ね上げられて、はしごの上に乗っかったように漕ぎ手の頭を見下ろしたり、あるいは重なり合う白い波頭の向こうにイニシマーン島の黒い断崖を眺めたりした。
遊園地のどんな絶叫マシーンでも、これほどおっそろしい乗り物はありえないだろう。唯一の交通手段として船に乗るしかない小さな島で、それに乗るたびに命がけだ。だから難破することによる死亡率は極端に高かった。
とにかくひっきりなしにカラハが難破して次々に人が死んでゆく。シングが島民に聞いたところによると、あるときは木製の食器を作る親子が一緒に難破したため、長い間この島で食器を供給する職人がいなくなった時期があるらしい。棺おけに使用するために貴重な木材の用意が間に合わなくなったり、岩場で土が極端に少ないために埋葬する場所がなく、墓場に埋めようとすると次々に他の遺体や白骨が出てきてしまうような悲惨さであった。
そんな環境を目の前にし、シングは後に『海へ出る人々』という劇を書いた。舞台はもちろんアラン島。
海から帰ってこない息子を待って、老母が疲れきって眠っている。神父がやってきて、はるか北の海で見つかった遭難者の服と靴下を姉妹が受け取る。それが間違いなく兄のものであると確認するが、すっかり弱っている母にそれを告げることができない。そして最後に残った末の息子もいま、ついに海に出ようとしているのだ。この老母には6人の息子がいた。老母の父、夫、そして息子たちも次々と海で遭難した。遺体が見つからなかった者、打ち上げられ入り江で発見された者、板に載せられて運ばれてきた者、今回は着ていた服だけが運ばれてきた。すべてこの老母の悲しく辛い思い出として心に刻まれている。そしてついに最後の息子も、いくら止めても海へ出て行き、そして死んでしまう。先日行方不明になっていた兄のために用意していた棺の板はあったが、疲れきった老母には、釘の用意ができていなかった・・・。
つらく悲しいお話です。断崖絶壁から見た海には、遭難した数知れない島民たちの魂がただよっているのです。
アラン島は大きな岩礁。人間が暮らすには大変厳しい大自然の環境を楽しむといえば楽しめようが、特に見るべきものもない、と言えばそういうことになる。でも例外はある。宿から一時間も歩けば、大西洋を望む島の西海岸に、優に100mは超える垂直の断崖絶壁があるのだ。だからアラン島に来た人は、まず例外なくその断崖を見に行く。わたしも宿で朝食を摂ったあと、とぼとぼとその絶壁へ向った。
アラン島はほとんど平坦なので、360度が見渡せる。そしてその景色はどこを向いてもほとんど変わりがない。岩肌と雑草ばかりである。こういうところをひたすら歩くと、徒歩という手段が大変遅く感じられる。景色が変わらないので、移動している実感が湧きにくいのだ。アリンコにでもなったような気分。分刻みで時間に追われる、世界一、いや人類史上もっともタイトで忙しい TOKYO という大都会に生まれ育ったわたしにとって、景色の変わらない一本道を、とぼとぼと歩く一時間は途方もなく長く感じられるのであった。
だから考える。風に吹かれ歩きながら、いろいろなことを考える。自分はいま何をしているのか、と。ヨーロッパから見れば日本は「極東」の離島だが、逆に極東から見れば、ここアラン島は「極西」の離島だ。ジャンボ・ジェット機、地下鉄、船、バス、列車、プロペラ機を使って、ここまで何日もかけてやってきた。シングのように有閑階級でもない身分で、なぜこれだけの金と時間をかけて、こんな岩と雑草ばかりの島を歩いているのか?
シングが来たから、もしくは極西最果ての地だから?それだけでは全く不十分だ。シングはとりわけ好きな作家というわけでもないし、日本から見れば「最果ての地」は他にいくらでもある。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が触れ合うジブラルタル海峡や、世界一周の旅の新しいページを開くことになった、大西洋と太平洋の交わるところ、南米のマゼラン海峡といったところのほうが、よほど壮大なロマンをかきたてられるのではなかろうか?
結局アラン島へ来た理由は、自分が来たかったから、としか言いようがない。そして「たまたまのタイミング」とも言えようか。旅の目的地の選択は恋愛と同じで、それは自分の「領分」なのかもしれない。そりゃあ他にも美しい人、ずっと魅力的な女性がいるかもしれない。しかし自分が知り合える範囲、身の丈に合った人は限られている。別に「妥協」というわけではない。目の前の人だって、とても素敵だ。岩と雑草ばかりの島だって、じっくり二人きりで過ごしてみると、言いようのない魅力が見い出せるものなのだ。あるときその人がそこにいたから。そしてたまたま目が合って惹かれあったから・・・。
*゜益゜*
しかしこのニオイは・・・ 馬糞だw(゜゜)w 断崖絶壁へ向う道は一本だ。あらゆる移動はここを使う。馬車も通る。馬はトイレを使わない。ちょっと「お花を摘みに」と道を離れる気遣いをするわけもない。いや足を止めることもしないでボタボタとたれ流す。したがって道には数多くの馬糞が落ちているのだ。
時間を経たやつはペッタンコに乾いている。問題はまだ水分をたっぷり含んだ新鮮なやつだ。これがかなりの悪臭を放っており、不幸なことに風向きは一本道に限りなく平行で、向かい風であった。障害物は何もないので、数十メートル先に落ちているやつが放つ毒ガスが、俺の鼻を直撃で襲ってくる。近づくにつれてその濃度は増すので、たまらず小走りで馬糞を通過する。通過した瞬間に新鮮な空気を吸い込むことができるのだ。
しかし馬糞はひとつふたつではなかった。しばらく歩けばまた落ちている。そのたびに小走りをするのも馬鹿々々しくなってくる。しまいには根負けだ。
このようにして、人は少しばかりのロマンチシズムと、繰り返しの厳しい現実に慣れてゆくのかもしれないw