さて今夜は会津若松居酒屋巡りの最後の晩だ。当然開店の17時に入店のつもり
だったのだが、昨夜は妖精さんと正体不明になるまで飲み、東山を歩いて温泉に
入りにもいったので、夕方にホテルで少し寝てしまった。起きたら18:30。
「いかん、出遅れた!」と思ったが、まだ日は残っているし、入ってみると、
まだ誰も客はいなかった^^;
店の名前は「ぼろ蔵」だが、なかは立派な古い蔵だぞ。
ここは健康的な野菜料理が充実しているようだ。右は山芋を揚げたもの。
会津の地酒が揃っており、何から飲もうかと迷っていたら、ご覧の通りグラスを3つ、
好きなものを選んでいいんだって!
何を選ぶかって? そりゃあ~右から3つですよ。順番に力の限り飲むんですよ^^
次々にいきました。その度に一升瓶を並べてくれます。女将さんはきさくな人で、
会津の話をいろいろ聞かせてくれました。
それぞれのグラスに名前を貼ってくれるのだけど、覚えちゃいないよ。それは無理。
飲んでいるときに、「これは辛口」、「これは香りがいいな」とか一応思っては
いたのですが。
ご覧下さい。一番左がにごりでしょ?ついにやりました。ほめて下さい。一番左まで
とうとうコンプリート!!! なんか賞とかないか?「名誉市民」とか「国民栄誉賞」
とかさ。
マラソンを走りきった人、エベレストの山頂に立った人、月面に着陸して降り立った人、
みんなこんな気持ちになったのかなあ~~?
いや、末期の肺がんで余命1ヶ月と宣告されて、一服しながら人生を振り返る人とか
の気持ちに近いか?微妙な充実感に溢れるとゆーかー。
というわけで、へべれけにヨタヨタしながら〆のバーへ向かう。
最後の晩の最後の酒は、ここで飲まねば。こうなると執念とゆーか、ただの
惰性とゆーかw
ドライ・マティーニです。酔っているときには、強い酒を飲みたくなるものです。
ちょっと(かなり?)フラフラだったので、少し恥ずかしかったような。
しかし、そうなってまで来たい、飲みたい、という思いで来店したのだから、
バーテンダーも嬉しかったのではあるまいか。そう思いたい。
酒に飲まれてよしとする人間は、まっとうに反省などしてはいけないのである。
東山温泉から、まち巡りバスに乗って帰ってきました。会津若松の街を、右回りと
左回りがあるのですが、たまたま来たのがぐるりと駅を回るコースだったので、
ヒマだしのんびりと逆まわり。
ホテルの前にバス停があるのですが、ちと手前の七日町駅前で降りました。
駅が印象的で、このあたりの街並みも味わいがあるので散歩することに。
駅舎のなかに入ってみると、な~んかオサレなカフェときたもんだ。
これ、駅に入ったところですよ。入ったら改札じゃないんですよ。
ちょっとカフェに惹かれたけれど、こちらひとりだしな…。
カフェの向こうはプラットホーム。
このあたりは、このようなしぶい蔵が多いようです。郵便ポストもいいね。
蔵もいいけれど、このような古民家調も魅力あります。どちらも手に入らない
だろうけどなあ~。
これも堂々として素晴らしい。スポーツ用品店なのです。
電柱とか電線とか、なんとかならんのかねェー。
コンビニも気を遣っています。よし、許す!
田楽の店か~。あんみつの店やら、喫茶店などもありました。
ちょっと魅かれたけれど、まもなく酒の時間が近づいておりまして…(^益^)w
立ち寄り入浴のできる目当ての宿を探している。
「ファッションパブ 城?」全盛期に来たかった…^^;
しかし「モーニングCoffee」とも書いてあるってw
さて、ここが目指していた温泉宿。デカイ。
私はひとりでこういう立派な宿に泊まることは滅多にないが、立ち寄り湯ならば
豪勢なところを選ぶのだ。だって風呂が広いもん(^益^)b
ところでこの旅館で昼飯を食おうと思ったら、立派なお食事完全予約制ときたもんだ。
なので風呂に入る前に、温泉街の食堂に行くことにした。
ぶらぶら歩くと、ありますひなびて朽ちかかった定番の温泉街。
おお、岩風呂のある高橋館は終わっているようだな。この歪みでやってたら
たいしたもんだけど。
自然崩壊一歩手前!一度泊まって先代やら創始者の幽霊とお話してみたい。
「よしのや」といっても牛丼ではないでせう。やってるやってる^^
ジーサンがひとりで調理しているので、ゆっくり待つにはビールでも飲まねば。
左端のパンチパーマのおばさまは、大声で話しながらナイスに煙草を吹かして
おりました^^ (^。^)y-.。o○
炒飯はなかなかの大盛りで、完食するのにちょっと苦労する。
というわけで、その後ゆっくりと大浴場で温泉に浸かったのでした。
昨夜酔っ払って朝になると痛くなっていた突き指を癒したかったのだが、
あまりよくならん。よく考えると、突き指は冷やすほうがいいのか?
帰り道、こんな立派な古い旅館を見ました。風情がありますねェ。
立ち寄り湯に使った旅館は近代的で立派だったけれど、泊まるならこっちだなー。
でもひとりじゃなぁ…^^;
追記:あれから3年が経った2018年の今日、上記の「高橋館」が解体されるとの
ニュースがありました。予想通り、「自然崩壊」が進み、向かいの旅館の客から
「景観が悪い」と苦情が相次ぎ、高橋館のオーナーは取り壊す余裕がないため、
その向かいの旅館がなんと3000万円を出して解体の運びとなったそうです。
↓ この有様でしたからね^^; 築140年だったそうです!
生きてる間に泊まりたかった。。。
武家屋敷の見物も終わり、歩いて東山温泉へ。天気もいいぞ^^
そんなに遠くないはずなんだが、ひとり山道を行く。現代は歩くやつはいないのだ。
車が通り過ぎることもない。運転している奴が見たら、ひとり歩いてなんだと
思うだろう。
先にトンネルが見えてきた。ぬぬぬ。
長かったらどうしよう。
オバケが出たら会ってみたいけど、狭く暗いトンネルのなかで車が来たら危ないぞ。
ドカン、と引かれたら、運転手は俺をオバケと思って、ビビッて逃げちゃうかも?
徒歩のスピードで近づいてゆくと、いろいろ考える暇があるのだ。
近づいてみたら、なんてことなさそうで安心する^^
その手前で、左に遊歩道を発見。
どうせ暇なので少し寄り道してみることに。
途中でこんな急な階段が。
めげずに登るのだ。
クモの糸が顔にかかるし、虫がいて心が折れそうになる。
登り切ったらこれだよ!
綱渡りほどじゃないけれど、なんか両側に落っこちそうで、やむなく引き返す。
トンネルはこんなふうだった。幸い車は来なかった。
トンネルを抜けると、もちろん雪国ではなく、温泉郷に入ってゆきました。
ううむ、ここは温泉郷のはずれ。例によってつぶれて廃墟になった温泉宿がちらほら。
このカラオケ屋もやってないのであろう。
このふたりの女性がいいでしょ^^; おたく、右が好み?それとも左?
よおく見たい人は、画像をクリック! (=゜益゜):;*.’:;
武家屋敷の続きです。
これは茶室だそうです。
どおりでしぶい。
石でできたバスタブ。太っていたら入れません~。
会津が生んだスーパー才女。「鹿鳴館の華」と呼ばれた大山捨松さんです。
会津藩の家老の末娘。小さい頃はしあわせに暮らしていたろうに、まだ7歳のときに
戊辰戦争で会津若松城は激しい砲撃にさらされます。女たちは、そのとき着弾した
不発弾に一斉に駆け寄って濡れた布団をかぶせるという、「焼き玉押さえ」という
作業をしており、捨松さんもまだ小さいのにその仕事をして、大けがをしたそうです。
戦争に敗れた会津藩は、飢えと寒さに苦しむ下北半島に封じられます。過酷な環境に
苦しんだ山川家は、末娘を函館に里子に出したのでした。
北海道開拓使は、岩倉使節団に随行して、若者たちを官費留学させることになります。
そこで戊辰戦争で「賊軍」とされた東北諸藩の士族の連中は、名誉挽回と考えて
子弟たちを送り出すことにし、そのなかに11歳になった捨松を送り込むのです。
米国じゃ同級生らに"Sutematsu!"と呼ばれたんだなw
捨松さんは、それまで本名は「咲子」といいました。しかし10年以上に及ぶ米国留学に
出すにあたり、「捨てたと思って帰国を待つ(松)」という思いで改名させたそうです。
彼女は大変優秀で、大学2年のときは学生会会長になったり、卒業のときには総代の
ひとりに選ばれたそうです。卒論の講演を行い、それは地元新聞に載ったんだって。
しか~し、帰国したときにはもう23歳。当時の日本では「売れ残り」だったのですw
米国の友人に手紙で愚痴っていますが、そりゃあひどいよねェ。。。
それでも陸軍卿であり伯爵であった、前の妻との間に3人の娘がいる大山巌に惚れ
られて、招待客が千人を超える結婚披露宴を行うことになったとか。何せ英独仏語を
流暢に話せて、舞踏会や夜会でも優雅にふるまうことのできる捨松は、最高の
ファーストレディーだったわけですから。
それで捨松さんは、欧米諸国との外交の社交場で活躍し、「鹿鳴館の華」と呼ばれる
ようになったのです。
その後、彼女は看護婦養成学校の設立に尽力、留学時代の同志であった津田梅子の
女子英学塾の運営にも協力したのです。
小さな頃から波乱の人生を歩み、華があり、美人で才女。これはもう、格好のNHK
連ドラに使える話だと思うんだけどなあ~。竹鶴政孝と同じで、留学時代がちと
難しいかな?