今日は東京芸術劇場で東京シティフィルのコンサート^^
曲目は
ムソルグスキー: 禿山の一夜
ブルッフ: ヴァイオリン協奏曲第1番
ベートーヴェン: 交響曲第5番 「運命」
おわかりでしょうか。。。 激しく強烈な3曲!(゜曲゜)w
最近のクラシック・コンサートは、じじばばが異様に多い。
若者は数千円払ってクラシックなど聞かんのだ。
病院やデパートだけではない。
美術館に行っても、歌舞伎に行ってもほとんどがじじばば!
これは人口比率の推移をはるかに越える高齢化だと思われ。
別にどーでもいいんだけれど、じいちゃんばあちゃんはちと
うるさい人が多い^^; 前回は隣のじいちゃん、チョコレートを
食べて、銀紙についたかけらを指につけてピチャピチャ…w
しまいにゃ盛り上がるところで隣のばあちゃんに「ここが
いいところなんだよ!」としゃべり(!)、自分でカラタクトを
降りだした!!! ショパンを目の前で弾いている小山実稚恵さん
もびっくりだw 前々回は、うしろのばあちゃん、ピアニッシモ
のところで鼻水をズイズイ連発!その間隔が10秒だったり
30秒だったり1分だったりたまらんぜ!
今回はうるさくなかったが、隣のばーちゃん、のりのりで
あごをフンフン突き出して演奏中揺れ続けていた。その揺れが
微妙に演奏とズレてたりするんだよ…_| ̄|〇
人間の視界は真横でも目に入る。今度は競走馬が使うような
目の横につけるシールドが必要か?
指揮は飯守泰次郎、白髪のじーちゃんである。ヴァイオリンは
前橋汀子。遠目に年齢はよくわからんが、プログラムに演奏歴
50年と書いてあるではないでーすか。もう70なのねーw
しかし演奏は情熱的ですんばらしくよかったよ~(^益^)b
演奏者もじじばばなら、客もじじばば。演目はひたすら激しい
3曲で、となりのばーちゃんはのりのりで体を揺らし続ける!
ここは老人のロック会場かっ!
というわけでタイトルのキルケニーは、会場のすぐ外にある
アイリッシュパブで飲んだのでした。3000人くらいの主にじじばば
が、演奏が終わって出て行ったけれど、アイリッシュパブで一杯
やっていこうという老人はいなかった。
あれだけ熱くスウィングしたんだから、ちったあ酒でも飲んで
芸術談議に花を咲かせてもいーじゃないかよなあ~^^
餃子がうまく焼けたので、それに合う酒はいまあったっけな?と探して
みると、南フランス、ローヌのワインがありました。グルナッシュ50%、
シラー40%というブレンドですから、もうこってり♪
黒い果実が凝縮されたような深い味わいと、柔らかいタンニン、強い主張の
濃さが、ニンニクとニラの餃子にも負けません^^ 造り手のフレシア兄弟は、
農薬や化学肥料を一切使わず、生態系にも配慮しながらきっちり栽培
しているんだってさ。
南フランスか~~。行ってみたいねェ~~(^益^)
ところでニュースを見ていたら、川崎市は市内にある朝鮮学校に、「補助金
代わりに現物支給」と出ていました。あちらの政府のやり方が気に入らない
という理由で、日本に住んで学校に通っている子供たちを差別するのは
とんでもないことだ、と私は思っていたので、現金に代わるものとして何か
モノで支給してあげるのなら「まだまし」か、と思いました。
しかし記事を読んでみると、「横田めぐみさんの両親の著作を渡す」とか!
罪のない少女が連れ去られていたとしたら、それはこの世でもっとも許し
難い、悲しい事件です。その心を痛めている御両親の著作を、嫌がらせに
使うのはなんとあさましいことか。
教育、はては人種差別問題、国際問題にまで発展するようなことなのに、
感情的な「見せしめ」なんぞをやらかしていいのか?なんとまあ情けない
政治家が選挙で選ばれていることか…。
様々な国が、日本に対して同じようなことをしたらどうだろう、と少しばかり
の想像力もないのでしょうね。
*物事を判断するとき、その基準が誰にでもあてはめてよい、すなわち
自分にはねかえってきても文句のないということを前提としてもらいたい。
特に公の場所では。国際関係のような多くの人が関与する問題には
絶対です。
「いじめられるほうも悪い」という人、いじめられたときに納得できますね?
「女は家事をやって文句言うな」という人、女に生まれたらそうしますね?
「原発はいたしかたない」という人、自分の家の横に建設されてもいいですね?
「尖閣諸島は戦後日本が実効支配しているんだから、もう日本のものでしょ」
という人、北方領土は戦後ロシアが実効支配しているのでロシアのものですね?
「北朝鮮政府はとんでもないので、その子供らだけは差別して補助金を出さない」
という人、よその国で日本人の子供らがそのように差別されても当然だという
ことですね?その「とんでもない」という理由はどうやって決めるのでしょう?
是非「日本政府はとんでもない」と思っている外国の方々と話し合ってもらい
たいものです。結果は目に見えるようですが、それはなかなかできないことです。
だから「想像力」が必要なんですよ。
最後に。「けんかになってもしかたがない」という人。自分が先頭に立って
行きますね?それでもいざ大きなけんかになると、けんかをしたくない人にまで
大迷惑がかかります。なので自分がけんかをしたくないときでも、誰かが始めても
文句ないですね?
ネットでふらふら酒を検索していたら出てきたのがコレ、「一ノ蔵 にごり
特別純米生原酒」。酒好きの友人に「いいの買っといたぞ」と伝えたら、
こちらが呼ぶのを待てずに「宴会の準備をしてますから持ってきて下さい」
と電話がかかってきて早速飲むことに。
にごり酒特有のほんのりとした甘さと、発酵した微炭酸。口当たりが良く
ついついハイペースで飲んでしまうもんだから、1本ペロリとなくなって
宴会中に3時間あまりも寝てしまう。
でも大丈夫。そいつんところで飲むときは、午後から始まって翌日未明まで
続くので、それくらい途中で寝ておいたほうが最後まで元気に飲み続け
られるのである。
さて最近旅の記録が途絶えているので、酒の記事が続いております。
するといま英国に住んでいる修行中の若者が、「目の毒ですよ」と
言ってきました(^益^)
厳しい修行に行くのだから、しばらくは食べ物を我慢したって大丈夫、と
意気揚々と乗り込んでいくわけですが、これが何ヶ月か経つうちに苦しく
なってくるんだよ。うっひっひ。
なので俺の経験を元に、少し楽しませてやりませう^^
つまりあちらで誤魔化せない日本食の話をしてやるのですw(^益^)w
外で何か食べようと思っても、米国系のフライド・チキン、ピザ、バーガー
ばかりで行き場を失うのがつらいところ。「蕎麦屋でもあればなあ」と妄想
するわけです。
乾麺は手に入るのですが、英国の硬質の水で茹でると、蕎麦は真っ黒!
また長ネギが手に入りにくい。蕎麦汁だけで食っても悲しいよなあ~。
蕎麦屋で俺が好きなのは「焼き味噌」。うちで簡単に作れます^^
長ネギをきざみ、鶏の挽き肉と西京味噌と混ぜる。俺はそこに柚子胡椒を
香りづけに入れます。それをよおく練って蒲鉾の板に薄くのせ、あとは
天火で焼いて表面を焦がす。日本酒に合うのなんのって!
「板わさ」は料理と言えないほどのものですね。大事なのはワサビです。
これはなんとしても良質のものを自分ですらないとw 生のすりたては
香り豊かで深い味わいがあり、いんちきのチューブ入りみたいに変に
ツンとこない。これは「蒲鉾にわさびをつける」のではなく、「わさびを
蒲鉾にのせて食べる」のですね^^ 醤油は濃い刺身用のものがいい。
蒲鉾にも高級品がありますが、私は新鮮なわさびと良質の醤油さえ
あれば、安物でも大満足です。このへんで日本酒は3本目に突入!
あとは天丼でシメですねえ。天丼というアイテムは、なにせ英国では
なかなか材料がそろわないのです。少しかために炊いた、もちもちっと
したうまい米、ほんのりゴマ油の香りがするさくさくに揚がった天麩羅に
濃いタレがまんべんなくかかってる!この至福のハーモニーは、やはり
日本でないと揃わない(^益^;タマランナア~
若者よ!帰国を夢見て、いまは修行に励め!
俺は蕎麦屋で一杯やりながら待ってるよ!(^益^)ノ
十六世紀の初め頃、スイスのバーゼルに、エラスムスの本を主に出版していたフローベンという書店商がいました。エラスムスはそのフローベンをとても信頼していて、ある人に「彼はひとりでいるときでも正直だ」と言いました。信仰心篤いキリスト教信者である賢人の言葉として、極めて興味深い言葉ではありませんか。
かの名著である「痴愚神礼賛」の論理と同様に、この言葉を鋭い風刺ととれば、ほとんどの人間はひとりでいるときには不正直なものである、という性悪説的な解釈ができます。「汝の敵を愛せ」と言ったキリストと同様に(敵は必ずいたる所にいるものだ)、エラスムスはシニカルなリアリストであったのです。
ここで私が突然連想するのは、ある江戸っ子の言葉です。その男は死ぬ間際に、「ああ、一度でいいから、蕎麦をたっぷり汁につけて食べたかった」と言った話です。御存知生粋の江戸っ子は、ざる蕎麦を食べるとき、ほんの少ししか蕎麦を汁につけずに食べるのが粋だと考えたのです。蕎麦をべちゃべちゃとつけ汁の中で泳がせてすするのは野暮なのです。この男は、生涯蕎麦をたっぷりとつけ汁につけて食べたことがなかったのでしょう。普通の人間なら「バカだなあ、ひとりでいるときに、たっぷりつけて食べればよかったじゃないか」と思うかもしれません。
その男にとって重要だったのは、彼の味覚を満足させるより、粋な人生を貫くこと、すなわち江戸っ子としてのアイデンティティだったのです。人が見ていなくても、無粋なことはしたくない、してしまえば自分が許せない。それは徹底したひとつの生き方の美学と言えましょう。
さて、「ひとりでいるときも正直」であった書店商のフローベンには、そのような生き方の美学があったのでしょうか。ひとつには商人として、見えないところの誤魔化しで小さな利益を得るより、信頼を得るほうが大きな利益になるという、経済的打算があったとみる見方もあります。しかし忘れてならないのはキリスト教徒には、まわりに見ている人間がいなくても、常にその人間を見ている目があるということです。それは神の目です。信仰心篤いキリスト教信者にとって、不正直を神の目から逃れる術はありません。エラスムスはフローベンに、他にはなかなか見い出し難い、誠実な信仰を認めたのではないでしょうか。エラスムスから見て、フローベンは天に徳を積み、必ずや晴れて天国に行くのです。
しかしかの江戸っ子には、おそらくすべてをお見通しの神様はいなかったでしょう。そもそも蕎麦をたっぷり汁につけようが、少しも悪いことではないし、だからといって地獄に落ちるわけでもありません。彼にとって絶対的価値があったのは、「粋に見える」ことではなく、「粋であること」であり、彼は生涯をかけて、その理想の生き様をまっとうしたと言えるでしょう。私はそのような姿勢に感動するのです。
しかし惜しまれるのは、その生涯の最後に「後悔」してしまったことであり、さらにはそれを言葉にしてしまったことです。それって、何より無粋ではないですかねェ。
この日はルジェかルーミエのブルゴーニュな気分でしたが、店に行くとナイw(゜曲゜)w
すると店のおねいさん、「セラファンという造り手は、香りが豊かで評判ですよ」と
勧めてくれる。エチケットを見ると、親子で造っているのかぃ。んじゃ未開拓の酒、
いぐか~~^^
テイスティングでクルクル回すと、おお!豊かな花の香りが広がるでわないか!
向かいに座っている暑苦しい後輩が「ここまでふわっときますよォ~!」と声を
あげる。タシカーニ、こりわすばらすいw むかし職場で、花の精のように美しい女性が
私の横をすべるように通り過ぎたとき、ふわっといい匂いがしたのを思い出す。
ふっとせつない思い出がよみがえったとき、目の前のごっつい友人と目が合い、
ふっとやるせない気分になる。ぢんせい、すべてのパーツが揃うことはないのか
神様よ!
ふたりで一本だと少し足りないので、いつものようにボルドーをグラスで追加する。
華やかで繊細なピノを堪能したあとは、しっかりと樽香のする、できれば土の香り
までただようようなカベルネ・ソーヴィニョンを楽しみたい。まるでしとやかで内気な
女性と静かな時間を過ごしたあと、はきはきとしてあらゆる話題がはずむ押しの
強い女の子と遊んだよう。
う~ん、酒の世界だけでいうと、至福のパーツが揃うのだがなあ。。。